晴走雨読

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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その1

2014-01-26 09:56:55 | Weblog

 金曜日の夜、NHKーBSプレミアムで「ザ・タイガース」の2013.12.27東京ドームコンサートの様子が放映されていて、何気なく見ていたのが、つい最後まで観てしまった。中学生の頃、タイガース解散の報を聞いて、日本列島の隅っこである釧路の女の子たちも泣いていたことを思いだした。今の彼らが良かったのは、何より素のままの彼らであったこと、髪を染めたりカツラも被ったりせず、年齢相応の姿かたちであったこと。岸部四郎が車いすで登場し、今彼が持っている力で精いっぱい『イエスタディ』を唄ったことである。拓郎は良いけれど、あのカツラは潔くないと思う。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その1 

 『資本論 第一巻 ㊤・㊦』(今村仁司・三島憲一・鈴木直訳、筑摩書房マルクス・コレクションⅣ・Ⅴ 2005年刊)を使用する。

 『資本論』の解説書はこれまで数多く出版されているが、何れも論理展開を理解しやすくすることを主眼としている。私は、一つの試みとして、『資本論』の中で、マルクスが心情を吐露したり、激しく感情を露わにした表現を素材に、私がこれまで実社会の中で経験したり、感じたり、考えてきたこととマルクスの心情との対話を試みたいと思っている。

 マルクスは、生物では「細胞」が基本的構成要素にあたるが、経済を分析するにあたり、生物の「細胞」にあたるのが「商品」(第1章 本書P55~)であるとして、その分析から始める。

 貨幣が誕生する謎を論述していく過程において、(P89から引用)(註21)では、「たとえば、ある人が王であるのは、他の人たちが彼に対して臣下としてふるまうからにすぎない。ところが逆に彼らは、彼が王であるがゆえに、自分が臣下なのだと信じるのである。」とある。

 私たちが日常生活で使っている貨幣(紙幣)も、印刷されたただの紙にすぎないのであるが、その紙を皆が貨幣と信じているから貨幣として流通しているのだ。それでも金本位制の時代は、貨幣が金と交換可能ということが信用の裏付けであったが、1970年ニクソンショックで、世界の基軸通貨であるドルと金との関係が断ち切られた以降は、通貨間相互の関係は為替相場で繋がれているが、その根っこは最早断たれているのである。ある日、信用の裏付けを失った瞬間から、ただの紙くずと化すのである。

 会社には組織があり、職制として上下関係がる。私の上司が上司であるのは、私が上司と思っているから上司なのである。一方、上司にとっては、その部下が上司と思わなくなった瞬間から上司でも何でも無いということになる。会社や組織における上下関係などは、一つの社会における共同幻想に過ぎない。それは、つねに解体過程にあると言ってもよいであろう。

 今は首に首輪をつけられ、鎖につながれた飼い犬だが、あと1年もすれば、私は首輪を外された野良犬なのだ。

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