チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

~雑感~「改元に伴う十連休とかで」

2019-04-27 15:45:48 | つぶやき
4月27日(土)

 十日後の連休最終日には「立夏」を迎えるというのに、初日の今日は北東の風と冷たい雨。北日本では雪も降っているという変な天気。

 そんな中、新元号の時代がやって来るというので、世の中少々大騒ぎの感。この十連休、世論調査では75パーセントの人が「家でゆっくり」と答えているのに、テレビでは、成田空港や新幹線の混雑ぶり、高速道路の渋滞情報と、まあ、それも必要な情報なのでしょうが、メディアもここぞとばかりの囃し立てようです。
 とはいっても、一年中連休のような状態で、大混雑の中に身を置くことなど考えもしない我等には全く関係のない話。と思いきや、子どもや孫の家族はもろに世の中の波に乗っていますから、そうそう無関係でもないのです。孫たちも十連休ということで、明日から我が身辺も賑やかになるはずですから。

 それにしても、まことに日本人はイベントとか何かにかこつけてお祭り騒ぎをするのがお好きなようで、オリンピックも然り、今回も、天皇の代替わりと改元の意味合いとかいう本質的な問題はそっちのけで、まずは十連休を楽しみ、平成最後のカウントダウンをどうしようかと、いささか興奮気味のようですが、はたしてそれでいいのでしょうか。

 天皇・皇后両陛下が、国民の象徴たる意味を模索し、平成の世をどのように捉えてどのように行動されて来たか、その様子はたびたび映像になっていますが、実は、そこには日本人が抱える大切な問題があるように思えてなりません。

 そんなことが気になっていると、今朝の新聞に興味ある記事が二つありました。一つは「サザエさんをさがして」の「皇位継承」の記述。もう一つは岩波新書「平成の終焉-退位と天皇・皇后」という書籍の紹介文。午後、雨が止んだらさっそく本屋へ行って新書をさがしてみようかと思っていますが、せっかくの連休中に、この二つの記述にあるようなことを考えてみるというのも大切なことかもしれません。



   春時雨昭和が遠くなりにけり   弁人



 ところで、せっかくのお祭り騒ぎの中なのに、醒めたつぶやきをするのも如何なものかとは思いつつ、もう、ひと言ふた言。

 ~新元号「令和」について~

 以前にも書きましたが、元号は天皇の代替わりに伴って命名されるもので、退位の後はその元号名をもって「〇〇天皇」と称される特別なものです。
 仮に、天皇が「次の世は〇〇とする」と命名するなら、それなりの有識者の意見をお聞きになることはあったとしても、それがいちばんすっきりするような気がしないでもありません。
 しかし、元号法に「元号は政令で定める」という決まりがあって、政府が有識者の意見を集めて決めることになり、巷では、「発案者は誰か」という、本来あってはならない名付け親探しが始まり、今回もその名前が噂されました。
 こういう時は、噂されても馬耳東風を決め込むに限りますが、その噂されている学者が「もしそういう名前の人が発案者なら、そういう人がどこかにいるのかもしれません」とはぐらかしながら、新元号がいかにふさわしいかということを説きました。
 意見を仰るのはご自由ですが、渦中の人になっているという自覚があれば、やはり表に出るのは自重されるべきで、違和感を抱かざるを得ません。

 さて、そのお方が、
「『令和』の『令』を『命令』という意味だとケチをつける人がいるようですが、決してそういう意味ではなく、万葉集の『令月』の『令』は『ご令室』『ご令嬢』というように、美しく麗しいという意味である」と表明されました。

 正直なところ、どうしても、違和感が拭えません。

 「令」の字、漢文では、使役の助字として「・・しむ」と読ませる重要な漢字で、成り立ちからみても、お上やお偉い方からの指令の意味合いが原義です。そこから「高貴な」という意味が派生するのでしょうが、さらに意訳しても、「すぐれた」「上品な」「立派な」くらいまででしょう。
 出典は万葉集「梅花の歌」の序文の「初春の令月にして」なのですが。
 藤原氏全盛の御世に左遷された人たちが集まっての歌会。初春の梅の季節といえば、まだかなり冷え込んだ時期。その夜空から照らす「令月」。「威厳のある」とか、解釈は如何ようにもできそうですが、よい意味で捉えるとしても、くっきりとした形から「上品で気高い」「立派な」くらいまでじゃないかと思います。
 ちなみに、外務省は海外向けに「令和」を「Beautiful Harmony」と紹介したそうですが、私は、やっぱり、「ごちゃごちゃ言わんと、仲良くしいや」と言われているような気がしてなりません。

 今回は「国書」だと息巻いても、日本語から漢字文化を引き離すことはできません。人の名前にしたって平仮名だけというのは少ないでしょう。したがって、命名というのは漢字の意味をよく理解した上でないとおかしなことになります。
 例えば、「未来」と「将来」という似かよった熟語がありますが、訓読-漢文の書き下し文にすると意味の違いがわかります。「未来」は「いまだ来たらず」で、「将来」は「まさに来らんとす」。つまり、「未」は「まだそうなってない」、「将」は「今まさに、そうなろうとしている」という意味です。音感からいうと、「将来」より「未来」のほうが響きがいいので、どこか「未来」のほうが夢があるような感じがしますが、意味的には、本当に来るかどうか、少々不安が残ります。
 「ミ」という音は女の子の名前によく使われます。「美」や「実」や「三」は無難ですが、「未」をアタマに置くと、下の漢字の状態に「まだそうなっていない」という変な解釈をされかねません。現実に、そういう名前に時々出会うので、具体例は挙げませんが、名前を付ける際に日本語で付ける以上は漢字の意味を理解することが大事なのです。

 元号に戻ります。
 「ラ」行の音は澄んだ感じがするので、生まれた子の名前なんかにもよく使われます。「うるわしい」と読む「麗」や「頭を下げ祈る」の「礼」も美しい意味を持っていますし、「鈴」や「玲」も金属や玉が触れ合った時の透き通った音色を表しています。
 その音感から、「令和」の「レイ」もとても響きがよく、多くの人が親しみやすいと感じるようですが、やはり、漢字の原義も考慮すべきだったのではないでしょうか。「派生した意味も含めて解釈すればいい意味になる」ということなのでしょうが、事は、一国の一時代を表す表記の命名なのですから。


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