レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

魔女遊戯 ピースメーカー ばんば憑き

2011-03-08 13:51:24 | 
『魔女遊戯』イルサ・シグルザルドッティル  
 集英社文庫の先月の新刊。
 広告で、作者の名前からしてアイスランド人?と思ったら当たりだった。
 やもめの弁護士で二児の母のトーラアイスランドの大学で、魔女研究をしていたドイツ人留学性の青年が変死体で発見された。麻薬の売人が容疑者となるが、遺族は納得できない。やもめで二児の母の弁護士トーラがその調査を依頼され、被害者の父の部下である元刑事の男と共に事件にとりくんでいく。
 魔女狩りという陰惨な過去が関わってくるだけに、理不尽な感情がわくのはいかんともしがたい。アイスランドでは「魔女」とされたのは主に男性だったという記述は興味深い。私の知識では、魔術は女のものであり、男が使うのは恥とされたということになっている(谷口さんの本だったか?)のだけど、どう解釈したものだろう。魔法と魔術をどう区別しているのだろう、とか、「魔女」と「魔法使い」の区別がここでは曖昧だな、とかも気になる。英訳からの重訳であることも影響しているのだろうか。(ドイツ人相棒の名前が「マシュー・ライヒ」となっているけど、マシュー? マテウスでないのか?)
 トーラとマシューが郊外へ出かけるときのバスからのに関しての場面:
「これをいい景色だと思う者はほとんどいないかもしれないが、彼女はここがアイスランドで最も美しい場所の一つだと思っていた。苔が緑に輝き、その穏やかな輪郭がごつごつととがった溶岩とまったくの対照をなす夏は、特に美しかった。」
「真っ先に頭に浮かぶのは「荒涼たる」という言葉ですね」
 --山室静さんの本に似たようなエピソードがあった。ナショナリズムを意識しない本でこういう描写を見ると、お国柄がうかがえて面白い。


小路幸也『ピースメーカー』
(なんだか別の有名マンガが先に出てきそうなタイトルだな)
 小路幸也は、小学館「きらら」で知って以来、わりに愛読している作家のひとり。代表作『東京バンドワゴン』。ほのぼのノスタルジックが多い。
 『ピースメーカー』は、放送部の男子中学生が主人公で、伝統的に運動部と文化部の仲が悪い学校で、その間の友好を目指す使命をなんだか負わされている。70年代が舞台なので、まだ「ロック」=不良扱いされ、学校放送での使用が職員室で反対されてたり、CDではなくてLPだったり、そういうノスタルジーもこの作家の得意とするところ。
本筋を関係ないところで気に言ったのがこれ:
「もうお弁当は食べ終わりましたか。<お弁当箱を洗って帰ろう委員会>が、一階トイレ横の手洗い場で今日も待機しています。その気になった人は、どうぞお弁当箱を持っていって自分で洗ってみてください」
 昼休みの校内放送の一部。この「委員会」はここでしか出てこないし、具体的になにをしているかはわからない。でもこの主張には賛成する。私は洗っている。H大の講師控室には洗い場があり、食器洗剤やスポンジもある。(私が洗剤を寄付したこともある) TK大の講師室の洗面所にはそんなのないけど、ハンドドープで少しは落ちる。どうも弁当箱って、時間が経つと汚い感じがしてくる・・・と私は思うので、早いうちにいくらかきれいにしておきたくなるのだ。いつから始めたのか記憶にない。学生時代にも、からっとキレイに食べてしまっていたことは確かなんだが。
 ツッコミ入れたいのは以下のやりとり。文脈紹介は省略ーーいや、誤解を招くからひとことで書こう。主人公の姉がだいぶ年長の相手を好きになり、相手はしばらく退けていたけど陥落したという経緯を先輩からきくときにその先輩が、あなたのお姉さんに振り向かない男はホモよ、と断言する文脈(ほんとはそういう主張は好かんけどな)で。

「ホモ?」
(中略)
「男が好きな男のことよ」
「あぁ、陰間ね」

ーーそれはだいぶ違うのでは。時代劇好きならば、せめて「衆道」と言ってもらいたい(これだってイコールではなくて「ホモ」の一部にすぎないが)。


宮部みゆき『ばんば憑き』
 
 新刊。時代怪異短編集。
 『あんじゅう』で登場した寺子屋の「若先生」と容貌怪異のニセ坊主とがどうやってお友達になったかがわかる話はなんだか嬉しい。「くろすけ」を可愛がっていた老夫妻も登場してくれる。
 基本的に宮部作品は登場人物の善人率が高く、この本もそうなのであるが、表題作はわりあい苦い。あるいは、犯した悪事には報いがあるものということで、この点ではむしろカタルシスなのだろうか。
 虐待されて死んだ子供への弔いを含んだエピソードがぜんぜん遠い過去のことと思えないのは遺憾なことである。
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『カルバニア物語』

2011-03-06 06:36:12 | マンガ
良作としてお勧めしまくっていても、所持し続けることは難しく、どんどん手放している本は多い。TONO『カルバニア物語』もそれに属するが、とある事情により、また入手して再読する機会を得た。
 始まったのは93年、1巻は95年、2巻は96年に出ている。私は「ぱふ」の広告で、「男装の公爵令嬢」という設定に気乗りして買ったことがきっかけだった。そのとき2巻まで出ていたということは、96年か97年だった。隔月雑誌なので、だいたい年に1巻出るペース。
 マンガの外部時間(読者や作者にとっての時間。単に私の造語)と内部時間(物語の中での時間)にはズレがあるものだとはいえ、読み始めて10年以上経っているので、作中でもその半分くらいは過ぎているものとなんとなく思っていた。しかし、タニアが12歳のときに父王が急死して、その4年後に女王として即位した。6巻所収のキャンディ屋のコスプレ話で、「5,6年前までは父も一緒に」と言われてるところを見ると、タニアはこの時点で、16~18ということになる。単行本6巻の間に2年ほどしかたってないのか。では、タニアとエキューはまだ二十歳前後ってくらい? エキューはタニアよりひとつ下で、国王の死の際に留学から一時帰国していたということは、ライアンとの出会いのころに10、11歳。そんなんで結婚の申し込みなんてきいたエキューパパはさぞかし驚いたことだろう。
 ところで、タニアとエキューは「乳きょうだい」、「同じ女の乳くわえた仲」。タニアの過去話に出てきた乳母のアガサと、エキューの回想(一緒に温泉に行ったときにタニアがいつのまに胸が成長していてエキューが衝撃を受ける)に出てきた「乳母」は同じ人には見えない。乳母が一人とは限らないので、アガサはもっと広い意味で教育係も兼ねており、狭い意味での乳母がもう一人のほう、エキューはこちらで世話になったーーということなのか(教育係はハットン夫人で)。この乳母に当然実子がいるはずで、だから彼女たちにはまだ一人は乳きょうだいが存在してるのだな。

 1巻が、95年に出て08年に8刷。2巻、96年に出て09年に8刷。3巻、97年に出て09年に6刷。--約2年ごとに増刷されている計算になる。きちんと売れ続けていてめでたいことである。

 唐突に違う話題になるようだけど、『大奥』の6巻は将軍が代替わりして、7代にまでなっている。まだ子供の将軍よりも注目される事件はやはり「絵島生島」。ここでの絵島は、太っ腹のゴツいブ男。数か月まえにメロディを立ち読みできたときに、この事件が片付いていた。役者の生島(このマンガなのでこちらが美女)との密通の自白を強いられて絵島が裸でバシバシと・・・。
 --ここで思い出すのは、『カル物』の『無敵のシェリル』。可憐な幼女シェリルに邪行為をしかけたことのあるロリコン男が、シェリルの親父をバシバシする、ここで「見苦しいものをお見せしております」と背景にいちいち浮かんでいる。
 ほとんどなんの関連もないけど、意外なところで類似の、しかし文脈はかなり違うシーンがあっておかしかった。

 『カル物』の掲載誌「Chara」もめったに読む機会はないけど、ナタリーの出産はどうなっているのだろう。
 13巻の時点でいちばんの問題は、王族の不良青年ナジャルの「愛人」(?)アナベルとタニアのトラブルであるけど。
 あちこちにキャラが広がり、でもそれが散漫には見えずにそれぞれ興味をひいているのは偉いことである。

 こういうマンガこそ翻訳紹介されてほしいものだ。

コメント (4)
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いま新しい本がけっこうたまっている

2011-03-04 14:37:21 | 
 いま本棚にある、新しく買った文庫本その他
『真夏の死』三島由紀夫 『お伽草紙』太宰治 『花のれん』山崎豊子 『信長の女』清水義範 『メトロポリス』テア・フォン・ハルボウ
『ドストエフスキーと父親殺し 不気味なもの』フロイト 『きみはポラリス』三浦しをん 『英語ができない私を責めないで』小栗左多里
『そこへ届くのは僕たちの声』小路幸也 『死をもちて赦されん 修道女フィデルマ』ピーター・トレメイン
 新書で『金髪神話の研究 なぜ男はブロンドに憧れるのか』ヨコタ村上孝之  『関東戦国史と御館の乱 上杉景虎・敗北の歴史的意味とは』伊東潤・乃至政彦
 単行本、宮部みゆき新刊『ばんば憑き』
 図書館で借りた本 『ナポレオンの妹』  『英国中世ブンガク入門』

 新しい本にはカバーをつける。元の表紙やカバーと色調の似たものを選ぼうとするのは我ながら無意味だとは思う、かけてしまえば下のは見えやしないのでコーディネートを自慢もできないのに。 しおり紐つきの新潮文庫だと、カバーはヒモなしを選びたくなる。
 たいていの本は、読んだあとまでとっておくわけではないので、だいたい前もって、あげる相手がどこになりそうか考える。
 長編ストーリーで一気読み向きか、少しずつ読むタイプかに分ける。
 優先順位を考える。 借りたものがまず優先。特に、「次の予約があります」だと。--早く返却することでなにかポイントがたまればいいのに。
 まず図書館の本、そして宮部本ーーこれはドイツの知人に送って喜ばれるので。

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ひなまつりと子供の日

2011-03-03 15:28:02 | 雑記
 3月3日である。ひな人形とは縁がない。(かつては持っていたらしいけど、興味がわかないままよそにあげたようだ)
 私は桃ジュースでゼリーを作った。
 昼に、ちらしずしとハマグリのお吸い物という一般的なメニュー。
 せっかくだから『しばわんこの和のこころ』DVDのひなまつりを見よう。

 ピンクの入浴剤を使うのも恒例。

 5月5日は祝日なのに3月3日はそうでないのはサベツだーーという声をどこかで見たことがある。
 しかし、たぶん本来は男の子の日であったものを平等に「こども」の日にしたわけだし、「ひなまつり」が女の子のお祭りであることには変更はないのだから、全体としてバランスはとれていると思う。

 また聞きの話。とある大学教授の思い出話らしい。少年期、近所にある東京女子大に憧れていた。戦後、男女平等化に伴ってそれまで男子のみであった大学が女子学生にも門戸を開くようになった。では、「東京女子大」も「東京男女大学」になるに違いないと思って願書出しに行ったーー当然断られた。
 ・・・・・・ううむ、それはそれで中々柔軟な発想だ。
 実際、「女子大」なんて差別ではないのかという主張もどこかで見たし。高校までは男子校はあるのだから、男子大学がこれからできたってサベツとは言われまい。
 
 それでは、5月5日を男の子の日のままとして、3月3日を「子供の日」にするという道もあったはずだ。なぜそれにはならなかったのだろうか。
 「女の子」のほうが特殊性が強いと見なされているから。逆に言えば、「人」といえば男の側に座標軸があるように、「子供」といっても男の子のほうが代表のような偏見があるから。 
 女がズボンはくのはOKでも男のスカートは変態扱いされるように(文化的歴史的にはこれも正しくはないけど)、武者人形を女の子が鑑賞してもおかしくないが、男の子が雛人形になじむことには抵抗がありそうだから。
 思いつきである。ほかにも考察は可能なはずだ。5月3日が憲法記念日だから、近いところに休日を集めようという考えもあったかもしれないし。
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敬遠?

2011-03-01 05:18:21 |   ことばや名前
 ネット上の某記事で
「こうした自慢話をする男性は魅力的に映るどころか敬遠されてしまう可能性も。」という文を見て奇妙に思った。
 広辞苑で「敬遠」を引くと、
1 うやまって近づかぬこと
2 敬して遠ざけること。うやまうような態度で、実際には疎んじて親しくしないこと。
3 野球で(略)

 「1」の意味が遠くなって実際には「2」で使われる言葉は多いが、これもそれに属するだろう。本来、敬っているあるいは敬うべき、つまり目上の相手が前提か。しかし今日では、「2」の後半の意味で使っていることが多いような気がする。単に嫌がってるだけの場合にこの言葉は不適切だろうに。少なくとも、バカにしているのに使っているとたいへん抵抗を感じる。
 本来はネガティブでない言葉がごまかしに使われているうちに、ネガティブな印象が強くなってしまうことを私は不愉快に思うのだ。「変わってる」のように。
 
コメント (2)
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