『寺田寅彦随筆集』から、興味を感じた部分、主としてドイツに関連したところを引用してみる。引用の前後に -- をつけることにする。
ーー『映画雑感Ⅱ』から
「制服の処女」とこの映画とを比べても実によくドイツ人の映画とフランス人の映画との対照がわかるような気がするのである。映画人としてもドイツ人はやはり「あたまが悪く」で、その結果として物事を理屈で推して行く。フランス人は理屈を詰めて行くのをめんどうくさがって「かん」の翼で飛んで行くのである。
(「パリーベルリン」)ーー
別の個所で、科学者にはあたまの良さと悪さの両方が必要だと述べているし、上記引用で「あたまが悪く」がカッコつきであることからしても、単純にネガティブな意味で使っているのではないと思われる。
「パリ祭」を、たわいのない話でもわずかな呼吸のよさで見せているという評価の文脈で、「やはりフランス人には俳諧がある」と言っている。
「人生謳歌」という映画に関して、
ーー 作者はロシア人でも映画は純粋なドイツ映画である。ロシア映画にはもう少しのんびりした愉快なところもあるはずである。一応わかった事をどこまでも執拗にだめを押して行くのがドイツ魂であって、そのおかげで精密科学が発達するのであろう。ーー
と述べている。
多くの個所で、「俳諧」というものがあるとかないとか言っており、これは別の言葉でいうとすれば、ポエジーなのだろうか。ドイツよりもフランスのほうが洒落っ気があるという指摘ならば、なるほどそういう感じはあるかも、と私も思う。その半面、ロマンティシズムや叙情性は、ドイツ文学こそ本場であるという考えも私は抱いている。もちろんフランス文学でもイギリス文学でもロシア文学でも「ロマン主義」はあり、いわゆるロマンティックな作品はあるのだが。新潮文庫に収められている外国文学の詩集は、イギリスがバイロン、シェリー、フランスがランボー、ヴェルレーヌ、ボードレール、コクトー、ドイツがゲーテ、ハイネ、リルケ、ヘッセ。--これ、ものすごく、それぞれのイメージが偏っているのではないか? フランス勢はやたらと難解お耽美な感じがする。イギリスのはあぶなっかしい放蕩青年たち。叙情性という要素はドイツのがいちばん目立っているように思う(この中で最も難しいのはリルケだと私は思う)。 最近の聞きかじりであるが、ハイネの意見では、最高の小説はスペインのセルバンテスの『ドン・キホーテ』で、最高の戯曲はイギリス、シェイクスピアの作品で、最高の抒情詩はドイツ、ゲーテのものだそうだ(そしてイギリス文学でシェイクスピアの次にえらいのはウォルター・スコットだそうだ)。 ハイネ自身、「ロマン派」に対して距離を置いてはいるが、その作品にロマン派的な要素は充分にある。もちろん、「ロマン派」要素と「叙情性」とイコールというわけではないけれど、普通に考える、ムードのあるもの、空想幻想、憂愁、郷愁、情熱、悲劇性、そういった魅力はドイツの精神文化に横溢している。
ーー映画雑感Ⅲから
ロシアでもドイツでも、男どうしがおおぜい寄り集まったときに心ゆくばかりに合唱することのできるような歌らしい歌をたくさんにもっているということはじつにうらやましいことである。日本でも東京音頭やデッカンショ節があると言えば、それはある。しかし上記のトーキーに出てくる二つの合唱だけに比べても実になんという貧しさであろう。ーー
そういえば、男声合唱はドイツやロシアがいちばんしっくりくるイメージが確かにある。
ーー「記録狂時代」
シガーの灰の最大な団塊を作ったというレコードもやはりドイツ人の手に落ちた。これは1929年のことであるが、ことしはヒトラーがたくさんな書物の灰をこしらえた。それでも昔のアレキサンドリア図書館の火事の灰のレコードは破れなかったであろう。
(昭和8年=1933年)
「涼味数題」
風鈴の音の涼しさも、一つには風鈴が風に従って鳴る自由さから来る。あれが器械仕掛けでメトロノームのようにきちょうめんに鳴るのではちっとも涼しくはないであろう。また、がむしゃらに打ちふるのでは号外屋の鈴か、ヒトラーの独裁政治のようなものになる。自由はわがままや自我の押し売りとはちがう。自然と人間の法則に服従しつつ自然と人間を支配してこそほんとうの自由が得られるであろう。ーー
これらの書かれた年には、かの悪名高いナチスの「焚書事件」がドイツ各地で行われたので、上記の「書物の灰」はもちろんそれを指している。
日独協定に近い時代でも、こういうことを書いていたのか、ちょと驚く。この随筆集の編集者の小宮豊隆は独文学者だし。
ーー『映画雑感Ⅱ』から
「制服の処女」とこの映画とを比べても実によくドイツ人の映画とフランス人の映画との対照がわかるような気がするのである。映画人としてもドイツ人はやはり「あたまが悪く」で、その結果として物事を理屈で推して行く。フランス人は理屈を詰めて行くのをめんどうくさがって「かん」の翼で飛んで行くのである。
(「パリーベルリン」)ーー
別の個所で、科学者にはあたまの良さと悪さの両方が必要だと述べているし、上記引用で「あたまが悪く」がカッコつきであることからしても、単純にネガティブな意味で使っているのではないと思われる。
「パリ祭」を、たわいのない話でもわずかな呼吸のよさで見せているという評価の文脈で、「やはりフランス人には俳諧がある」と言っている。
「人生謳歌」という映画に関して、
ーー 作者はロシア人でも映画は純粋なドイツ映画である。ロシア映画にはもう少しのんびりした愉快なところもあるはずである。一応わかった事をどこまでも執拗にだめを押して行くのがドイツ魂であって、そのおかげで精密科学が発達するのであろう。ーー
と述べている。
多くの個所で、「俳諧」というものがあるとかないとか言っており、これは別の言葉でいうとすれば、ポエジーなのだろうか。ドイツよりもフランスのほうが洒落っ気があるという指摘ならば、なるほどそういう感じはあるかも、と私も思う。その半面、ロマンティシズムや叙情性は、ドイツ文学こそ本場であるという考えも私は抱いている。もちろんフランス文学でもイギリス文学でもロシア文学でも「ロマン主義」はあり、いわゆるロマンティックな作品はあるのだが。新潮文庫に収められている外国文学の詩集は、イギリスがバイロン、シェリー、フランスがランボー、ヴェルレーヌ、ボードレール、コクトー、ドイツがゲーテ、ハイネ、リルケ、ヘッセ。--これ、ものすごく、それぞれのイメージが偏っているのではないか? フランス勢はやたらと難解お耽美な感じがする。イギリスのはあぶなっかしい放蕩青年たち。叙情性という要素はドイツのがいちばん目立っているように思う(この中で最も難しいのはリルケだと私は思う)。 最近の聞きかじりであるが、ハイネの意見では、最高の小説はスペインのセルバンテスの『ドン・キホーテ』で、最高の戯曲はイギリス、シェイクスピアの作品で、最高の抒情詩はドイツ、ゲーテのものだそうだ(そしてイギリス文学でシェイクスピアの次にえらいのはウォルター・スコットだそうだ)。 ハイネ自身、「ロマン派」に対して距離を置いてはいるが、その作品にロマン派的な要素は充分にある。もちろん、「ロマン派」要素と「叙情性」とイコールというわけではないけれど、普通に考える、ムードのあるもの、空想幻想、憂愁、郷愁、情熱、悲劇性、そういった魅力はドイツの精神文化に横溢している。
ーー映画雑感Ⅲから
ロシアでもドイツでも、男どうしがおおぜい寄り集まったときに心ゆくばかりに合唱することのできるような歌らしい歌をたくさんにもっているということはじつにうらやましいことである。日本でも東京音頭やデッカンショ節があると言えば、それはある。しかし上記のトーキーに出てくる二つの合唱だけに比べても実になんという貧しさであろう。ーー
そういえば、男声合唱はドイツやロシアがいちばんしっくりくるイメージが確かにある。
ーー「記録狂時代」
シガーの灰の最大な団塊を作ったというレコードもやはりドイツ人の手に落ちた。これは1929年のことであるが、ことしはヒトラーがたくさんな書物の灰をこしらえた。それでも昔のアレキサンドリア図書館の火事の灰のレコードは破れなかったであろう。
(昭和8年=1933年)
「涼味数題」
風鈴の音の涼しさも、一つには風鈴が風に従って鳴る自由さから来る。あれが器械仕掛けでメトロノームのようにきちょうめんに鳴るのではちっとも涼しくはないであろう。また、がむしゃらに打ちふるのでは号外屋の鈴か、ヒトラーの独裁政治のようなものになる。自由はわがままや自我の押し売りとはちがう。自然と人間の法則に服従しつつ自然と人間を支配してこそほんとうの自由が得られるであろう。ーー
これらの書かれた年には、かの悪名高いナチスの「焚書事件」がドイツ各地で行われたので、上記の「書物の灰」はもちろんそれを指している。
日独協定に近い時代でも、こういうことを書いていたのか、ちょと驚く。この随筆集の編集者の小宮豊隆は独文学者だし。