レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

『草の花』雑感

2006-06-07 14:09:12 | 
BY福永武彦、新潮文庫の息の長い作品。その昔、「JUNE」の初期のころにも推薦されていてその名を知ってはいたけど、去年柴門ふみのエッセイに出てきたことがきっかけで読んだ。
 危険な手術を敢えて受けて命を落とした汐見茂思(しおみしげし)、彼の手帳には、高校時代の後輩への想い、彼の死後その妹との苦しい交際の様がつづられていた。
 柴門さんはこの小説から「頭の良すぎる人間から「理想の愛」を求められたら男も女も逃げる」と解釈している。汐見は、弓術部の後輩、藤木忍(美少年)に想いを寄せている(周囲にもバレバレ)。しかし藤木はそれに消極的で、自分は平凡な人間で、汐見の思ってるような高尚な人間じゃないと言っている。大事にすべき相手は母と妹だけで手一杯だとも。「愛することによってのみ、僕たちは地上の孤独からイデアの世界に飛翔することが出来るんだ。その中でこそ真に生きられるんだ」--なんて言われたらやはり腰が引けるだろうな、と俗な読者の私は思う。彼らが海の上で、危険な状態で取り残されてボートに二人きりの時に、ふだんとはうってかわってよりそってくる藤木はなにやらコケティッシュにさえ見える。この時の汐見はさぞ至福であったろう。藤木の夭折を記したあとでこの逸話の語られていることが切なさをそそる。
 その後、汐見は藤木の家に出入りするようになり、妹の千枝子との交流が始まる。彼女は兄の美貌とは似ていないが性格は良く、思慮深く聡明。キリスト教に傾き、汐見ともたびたび信仰論議になっている。二人の間にある種の愛は確かにあるものの、千枝子の側ではなにかの違和感を抱いているらしく、結局別の相手(汐見の元学友)と婚約、召集令状の来た汐見は最後に千枝子をコンサートに誘うが彼女は来なかった(実は病気だったので母が教えなかった)。
 登場人物一同のあまりのマジメさ、真摯さに圧倒される。上記のような高尚すぎること言ってくどいてくるのは哲学者同士でもなければ逃げられそうではあるが。千枝子を彼は「空想癖で」ベアトリーチェとかラウラとかクロエとかイゾルデとかの比喩で呼んでいる。千枝子は、彼が自分をあるがままに見ていない、結婚などしてもきっと幻滅すると思って(そして、実は兄を見ていると思って)彼を拒否した。もっとも、汐見は「空想癖」とわかっているだけの冷静さはあるので、仮に結婚までしても、現実を受けとめる力はあったのではないだろうか。でも、誤解まじりにせよ恋された側としては、その幻想を破りたくないという願望をやはり持っているのではなかろうか。柴門ふみは、汐見は、藤木忍には恋を、千枝子には友情を抱いていたと解釈しているが、私もそんな気がする。汐見がどちらと深く語り合っていたかといえば、千枝子のほうだ。理解を要する程度は「恋」のほうが弱いと思う。理解していなくても恋はできるようで、そうでなければ一目ぼれなんてものもありえないはず。もっとも、理解したら恋がなくなるというのとも違うだろうけど。

 この小説から連想した外国作品が二つ。
一つは『狭き門』。かつては青少年への読書ガイドの定番だったけどいまはどうなんだろう。ジェロームは従姉アリサを愛しているが、彼女は修道院へはいって若死にする。二人の見ている幸せが根本的に違っているのだと指摘した本もあった。アリサが拒む理由として、もっと表面的なこともあって、①2つ年上 ②母親が身持ちが悪く出奔してしまったのでその贖罪として神に仕えたい ③妹がジェロームを好き --どれを取っても私は腹が立つ。年上がなんだっ! 親が不品行だからって子が幸せを放棄するな!  恋で遠慮なんかするんじゃない!譲るなんて傲慢だ!当人の気持ちはどうなる。(その点私は武者さんの『友情』を支持する!)
 読んだのはだいぶまえなので印象が正確ではないのだが、遠藤周作さんによると、ジェロームはアリサをあまりに聖女のように思ってしまい、それが彼女を追いつめた、ということらしい。これを遠藤さんは「恋愛の結晶作用」と呼んでいる。(美化してしまうことですね) (逆に、その作用ゼロのあまりにドライな女として『テレーズ・デスケールー』を挙げている。『深い河』でも言及されている)
 もう一つは、『トニオ・クレーゲル』、トーマス・マンの初期作品。私はこれを、独文科にあがった年のドイツ語の時間に読んだ。構文がややこしく、言葉が難しく(語彙が増えたらそうでもないのかもしれんが)、わたしゃ絶対にマンなんか専攻しないぞ、と思った。イントロではトニオ14歳。物堅い父と、南国系の母を持つ早熟な文学少年トニオは、美しく快活なハンス・ハンゼンに夢中で、一緒に学校から帰る約束をしているけど、ハンスがそれを忘れていたらしいことに落ち込んだり、せっかく話(トニオの好きな本)をしていたのに第三者が割り込んできて、しかもハンスは明らかにそちらの話題(馬)にのってしまうので悲しくなったり。でも別れ際に「ぼくも『ドン・カルロス』を読んでみよう」と(お世辞でも)言ってくれたことに嬉しくなったり。そういうのが第1章。続く2章では、16才のトニオはインゲボルク・ホルムという少女に恋している。ダンス教室で彼女に気をとられていて大失敗して孤独を味わう。
 このあと、トニオは芸術家として身をたてるけど相変わらず孤独。
やたらと繊細で考えてしまう主人公、最初に少年、次に少女が相手に出てくるというだけの共通点。トニオとインゲはつきあってはいないし、仮に交際したとしてもインゲは難しい話をふっかけてくるようなタイプでは全然ない。自分とまったく違うタイプだからこそトニオは惹かれた。
 藤木忍とハンス・ハンゼンは明らかに美少年として描かれているけど、千枝子とインゲは特に美人というわけではない。ここも、ちょっとおかしな共通点である。

付記
『狭き門』については08.06.06にまた触れている。
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