カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

チキンカツといえば四谷の洋食屋「エリーゼ」(memo)

2006-11-30 20:27:59 | Weblog
 メモ。チキンカツといえば四谷の洋食屋「エリーゼ」に勝る味はなかなかないのではないか、、、と思っています。

 四谷の洋食屋「エリーゼ」の「チキンサルサカツ定食」。
 ちかごろ肉類をあまり口にしない私ですが、「洋食エリーゼ」で出される、新鮮なトマトをふんだんに使って作られた自家製サルサソースがたっぷりとかかった、大きくて柔らかいチキンカツのことを思い出すと、たまらなく食べたくなります。。。私はブリヤ・サヴァランや北大路魯山人や池波正太郎といったようなグルマンではありませんが、おいしいものには目がありません。私が今までに食したことのあるチキンカツの中で、ここエリーゼのチキンカツとサルサソースは「最高においしい」うちに入るのではないかと思っています。。
 なお、10月から3月は、カキの季節です。エリーゼで出されるカキフライもかくべつに美味です。。。

【洋食 エリーゼ】
 四ッ谷駅近辺、しんみち通りの入口にある洋食屋「エリーゼ」。なにを食べようか考えながら店へ歩く。シチュー、ハンバーグ、しょうが焼き、カツカレー、カニクリームコロッケ、メンチカツなんかが頭の中をぐるぐる回る。そんな幻想的な気分にさせてくれるお店。よくマスコミにも取り上げられる人気の洋食屋。

+++++

「洋食エリーゼ」

東京都新宿区四谷1-4-2峰村ビル1階
電話03-3357-6004

【営業時間】(土曜日は昼の部のみ)
昼の部・11:00~15:00(ラストオーダー)
夜の部・17:00~21:00(ラストオーダー)

【定休日】日曜日・祝日

+++++

季節限定(10月~3月)三陸直送大振り生カキ使用

カキバター焼き定食(1100円)

カキフライ(6ヶ)定食(1000円)

メンチカツ・カキフライ(3ヶ)定食(950円)
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訃音記事2件。。。

2006-11-30 13:18:12 | Weblog
 訃音記事2件。。。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。。。

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劇作家の木下順二さん死去 「夕鶴」「子午線の祀り」
(2006年11月30日03時16分朝日新聞記事)

 「夕鶴」「オットーと呼ばれる日本人」「子午線の祀(まつ)り」など、戦後を代表する戯曲を送り出した劇作家の木下順二(きのした・じゅんじ)さんが、10月30日に病気で死去したことが、29日に分かった。92歳だった。
 民話劇の無垢(むく)な魂をうたい、戦争責任と人間のモラルを厳しく問い、天空から人の営みと運命を見つめる壮大な叙事詩劇に到達した、戦後新劇の良心だった。
 1914年、東京・本郷の生まれ。少年時代から旧制高校までを熊本で過ごした。東京大学英文科卒。戦争中に「彦市ばなし」などの民話劇を書き始め、そのうちの一編「鶴女房」が戦後改稿されて「夕鶴」となった。
 49年に女優の山本安英さん主演で「ぶどうの会」が初演したこの作品は、86年まで全国で1037回上演された。
 民話劇と並行し、「風浪」(47年)、「山脈(やまなみ)」(49年)、「沖縄」(63年)など歴史の中の人間を描く現代劇も相次いで発表した。70年代も、東京裁判とBC級戦犯を描く「神と人とのあいだ」2部作(72年)、「平家物語」を踏まえた大作「子午線の祀り」(78年)を発表。また、シェークスピア劇の翻訳にも取り組んだ。
 93年に山本さんが死去してからは、「夕鶴」の国内上演を断っていたが、97年に坂東玉三郎さんの主演で再演された。
 今年は4月に、劇団民芸が「神と人とのあいだ」第1部「審判」を36年ぶりに再演している。
 78、84年度の読売文学賞、85年度の朝日賞。民間の賞は受けたが、国の賞や勲章は固辞し、84年に芸術院会員に選ばれた時も、「一介の物書きでいたい」と辞退した。

http://www.asahi.com/obituaries/update/1130/002.html

***

「ウルトラマン」「帝都物語」の実相寺昭雄さん死去
(2006年11月30日06時16分朝日新聞記事)

 テレビの「ウルトラマン」シリーズの演出や映画「帝都物語」などで知られた映画監督の実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)さんが29日午後11時45分、胃がんのため東京都文京区内の病院で死去した。69歳だった。通夜・葬儀の日取りは未定。
 1937(昭和12)年東京生まれ。中国青島で育つ。青島での幼少期に金森馨(のちに舞台美術家)と出会い、大きな影響を受ける。早稲田大学第二文学部卒業後、59年、ラジオ東京(現TBS)に入社。テレビ演出部を経て、映画部に転属、円谷プロへ出向。66年の「ウルトラマン」をはじめ、「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」など特撮番組に数多く参加。奇抜な構図や照明を駆使する独自のスタイルで、不可解で不条理なムードあふれる映像を作り上げた。
 69年に映画に進出。エロチシズムを大胆な手法で表現した「無常」「曼陀羅(まんだら)」、人気小説を原作とした「帝都物語」「姑獲鳥(うぶめ)の夏」などを監督。「魔笛」などオペラの演出も手がけた。
 昨年は「ウルトラマンマックス」の演出に参加。半年ほど前、手術を受けたが、かつて手がけた特撮番組を自らリメークした映画「シルバー假面(かめん)」を完成させ、11月の試写会に姿を見せた。12月23日の公開を待つばかりだった。
 東京芸術大名誉教授。著書に「ウルトラマン誕生」など。

http://www.asahi.com/obituaries/update/1130/003.html
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日記2題。

2006-11-28 15:54:05 | Weblog
 日記2題。

日録メモから。

 一年前の昨晩、姪っこが生まれました。生まれたとき日付が今日になっていましたので誕生日としては今日ですが、昨晩です。姪っこが生まれました。一昨日の夜、沖縄の姪っこから電話がありました。ばーぱー、まんまー、ぶーぶ、あーーいーーやー、ばいばいばいばい、、が彼女の現在持っている語彙の全てだそうですが、それらを駆使して話してくれました。声を聴きながら、伯父さんは感動を覚えていました。一年というのは早いです。
 昨日は、紀伊国屋書店で吉川弘文館の来年度の歴史手帳を購入しました。日記帳と歴史百科とがコンパクトに一冊になっていて携帯するのにとても便利です。

岩城さんのブラ3。

 朝、起きるとまずラジオに手を伸ばしてスイッチをつけます。そしていつも大体、TBSの生島ヒロシさん、森本毅郎さんのニュースをしばらく聴いてから、FMのクラシック番組に切り替えています。それが、私のささやかな朝の慣らいです。
 今朝のクラシック。指揮者岩城宏之さんが亡くなる3ヵ月前、2006年3月22日にアンサンブル金沢を指揮された演奏会から、ブラームスの交響曲第3番が流れました。岩城さんといえば、昨夜、たまたま本を整理していて、岩城さんの『指揮のおけいこ』が目に留まって久しぶりに手に取りました。中に、岩城さんが、「今のこの瞬間、暗譜で指揮しろと言われて、ぼくがいきなりお客の前で粗相なく振れる曲は」と、ポピュラーな交響曲・管弦楽曲から何曲も挙げておられます。ブラームスの交響曲について見ると、3番以外の1番、2番、4番を挙げられているのが面白いです。単純にタクトを振られた回数だけではないような気がします。今日ラジオから流れたこの3番の曲を、最晩年の岩城さんはいったいどのように考えて振られたのだろうと思うと興味はつきません。。
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歌会記

2006-11-27 12:57:53 | Weblog
 今日は、早稲田奉仕園6階の会議室を借りて日高先生歌会がありました。参加者は、先生、歌会お世話役をして下さっているえじまさん、Y崎さん、Y口さん、そして私。

 今回は、お題「魚」詠草についての議論と、自分以外の参加者(先生を含む)の詠んだ自由題詠草上句への下句付句というものをやりました。付句では、どの上句がどの人に当たるかは抽選で決めました。私に当たった上句は、後でわかりましたが、何と先生のうたでした。それがわかってから、私の額の汗腺から一気に嫌な汗が噴き出して来たことは言うまでもありません。。よりにもよってまことに拙い下句をつけてしまいました。先生のオリジナルと比較してその差は歴然でした。。

 ちなみに今回私が事前に出していた詠草は次の2首でした。

【お題「魚」】

鼻毛伸びたる魚(うを)が店先に跳ねる朝 首都に戒厳令は布(し)かれぬ

 今回、お題「魚」詠草を詠むにあたって私が考えたこと。それは、不穏な社会情勢の街のどこかでもしも「鼻毛」の伸びた魚が跳ねていたらどうか、、、ということでした。よく「鯰が騒ぐと地震が起こる」といわれますが、泥鰌(どせう)も鯰(なまず)も鯉(こい)もみな髭があります。その「髭」を「鼻毛」に読み換えてみたら、もしかしたら思いも寄らないうたのリアリティが得られるかもしれないと考えました。。

【自由題】

しやぼんだまは半島から飛来したるらし 小太りの男を中に封じて

 自由題詠草も、いまの社会的な事柄を詠んでみようと思いました。報道などを見ていると、北朝鮮の金正日総書記は影武者をたくさん持っていると言われています。それを素材にして、北朝鮮から次から次にたくさん飛ばされるしゃぼんだまの中に「影武者」が入っていたら、、、ということを想像してみました。。。  

+++

 今回の歌会で先生が言われたことのうちで印象深かったことが二つありました。一つは、うたの中で「われ」ということばが使われているとき、読み手はわれと社会、もしくは、われと世界とを対峙させる覚悟表明がそこにあると受け取ることができる。「われ」はうたの世界を規定する重要なタームである。しかし、最近のうたには、あえて「われ」を避けていると感じるものが多い。うたを詠むときにはそこに覚悟がなければいけない。。もう一つは、町の名前でもなにでも抽象的に済まさないでもっと具体に踏み込むことが大事。。。ということでした。
 今回も楽しかったです。ご参加の皆様、お疲れさまでした。
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日記二題。

2006-11-26 20:24:15 | Weblog
 日記二題。

2006年11月26日03:00「死はそこに」

 今日は、日高先生歌会が奉仕園であります。詠草はもう提出済みなので何も心配はないのですが、ここのところ自分の短歌観(?)が以前より鈍ってきているような感じを覚えていて、今日の歌会でもきちんと鑑賞ができるか不安です。小池栄子さん司会のTBSラジオ番組「音てな」なんぞを聴きながら、上田三四二さんのうたや大好きな安部公房さんの『カンガルー・ノート』などをぱらぱらと読んでいます。

 つぎの上田さんの一首はすごいと感じます。

死はそこに抗(あらが)ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ  上田三四二(歌集『湧井』より)


 5日のゼミ忘年会は、アコースティック楽器を持ち寄って先生のお宅に集合、という話になっていて、今から楽しみです。リコーダーかピアニカかティンホイッスルかなにかを持っていくかもしれません。こういうときはピアノなどの楽器をちゃんと弾きこなせない自分がくやしいです。実はひそかに試演してみたい管楽器とピアノのための器楽曲があります(爆)誰か、ピアノパートを弾いてくれませんかね、、、、、ORZと独り言を呟いてみたりしている夜更けです。このまま夜が明けてしまうと、歌会中に居眠り、、という事態にもなりかねません。。。少しでも眠らねば。

+++

2006年11月26日04:33「いつよりかわが胸に」

 大野誠夫さんのうたから。

いつよりかわが胸に棲む秘めごとのただしづかなれ花照る谷間  大野誠夫(歌集『行春館雑唱』より)

 このうたは、「花照る谷間」という結句が非常に俗っぽいのですが、全体として見ると惹かれる一首です。結句と「秘めごと」とが巧く呼応していると感じるためかもしれません。
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《武満さんのアフォリズムから》など

2006-11-25 11:27:52 | Weblog
 メモです。

《武満さんのアフォリズムから》

作曲というのは「無」からつくるのではなくて、すでにいろいろのところで鳴ったり止んだりしている音を組み立てなおすことから始まる

音は沈黙と測りあえるほどに深いものでなければならない

+++++

松岡正剛氏の「千夜千冊」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1033.html

(以下、引用させて頂きます)

第千三十三夜【1033】2005年5月9日
武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』(1971 新潮社)

 一冊の書物から音楽が聴こえてくるなどということは、めったにない。まだしも音楽家ならリルケやヘルダーリンの行間や、あるいは李白や寂室元光の漢詩から音楽を聴くかもしれないが、少なくともぼくにはそういう芸当は不可能だ。
 ところが、この『音、沈黙と測りあえるほどに』はそういう稀な一冊だった。それも現代音楽家の文章である。武満徹の音楽はレコード以外にもすでに『ノヴェンバー・ステップス』を東京文化会館で聴いていたが、その武満さんがこういう音が聴こえる文章を書くとは予想もしていなかった。とくに「吃音宣言」には胸が熱くなった。
 なぜこの一冊に音が鳴っているかということは、うまく説明できるような答えがない。けれどもひとつだけ言えそうなことがある。それは武満徹自身が音を作ろうとしているのではなく、つねに何かを聴こうとして耳を澄ましている人だということである。
 それで思うのは、この人はきっと「耳の言葉」で書いているのだろうということだ。いま手元にないので正確ではないのだが、亡くなる数年前に「私たちの耳は聞こえているか」といったエッセイを書いていた。ジョセフ・コーネルとエミリー・ディッキンソンにふれた文章で、テレビやラジオやウォークマンをつけっぱなしの日本人がこのままでは耳を使わなくなるのではないかというような危惧をもらしていた。
 きっと、この人は「耳の言葉」で文章が書ける人なのである。ついでにいえば武満音楽は、おそらく「耳の文字」でスコアリングされてきたのであろう。
 ぼく自身は書物に耳を傾けるほうではない。どちらかといえば胸を傾ける。けれども本書は耳を澄ましながら読んだ。その初読の記憶はまだ去らない。いずれにしてもそれからである。ぼくは熱心な武満派になったのだ。
 時期もよかったかもしれない。本書は1971年の刊行で、ぼくのほうは「遊」を創刊したばかり。武満さんとグラフィックスコアを一緒につくり、『ノヴェンバー・ステップス』日本初演の「オーケストラル・スペース」のすばらしいデザインもしていた杉浦康平さんに、さっそくどんな人かを聞いてみた。「あははは、あの文章通りだよ。手を小さくして書いているんだろうね。でも、そこからコレスポンダンスが出てくるんだよね」だった。
 手を小さくしてというのは何だろうかと思ったが、なんとなく理解できた。東京文化会館で見た小柄な武満さんの姿やピアノと不幸なめぐりあいしかできなかったエピソードなども目に浮かんだ。あれほどの才能が極貧ゆえに大学に行けなかったか行かなかったかの理由が、その小さな手にあるのかとも思えた。が、そうしたことはそのままに、ぼくはその後も『樹の鏡、草原の鏡』を読み、ついに本人を訪ね、写真のモデルになってもらい、対談までさせてもらっていくようになったのだ。むろん本物の手も見た。たしかにとても小さかった。
 そういう武満さんが本書で何を綴ったかということは、あとで書く。できれば、ぼくも小さな手になって書いてみたいと思っている。
 その前に、どのように武満徹が日本の音楽に登場してきたかということを思い出しておきたい。ほんとうは詳しく書きたいのだが、たいそう縮めて書いておく。不足のところは、できれば秋山邦晴さんの労作『日本の作曲家たち』などで補ってもらいたい。ぼくは武満さんが影響をうけた日本作曲史こそは、ぼくが考えつづけてきた「日本的なるもの」をめぐるきわめて重要な欠番だと思っているのだ。では――。
 それは清瀬保二がいたからなのである。
 昭和5年に新興作曲家連盟をつくった。のちに日本現代作曲家連盟になった。昭和12年にカールスルーエで「極東音楽の夕べ」が開かれ、そこで清瀬の『ピアノのための組曲』、箕作秋吉の『ピアノのための秋の狂想曲』、松平頼則の『フルートのソナチネ』、大木正男の『弦楽四重奏のための七つの小品』が演奏されたことが、日本の現代音楽の予告篇だったのだ。清瀬は五音音階を用いるのが得意で、のちに『日本祭礼舞曲』などを作曲している。
 それから戦争をはさんでの10年後の昭和23年、18歳の武満徹と鈴木博義は街頭で一枚のポスターを目にした。「日米現代音楽祭」の予告ポスターで、そこに早坂文雄と伊福部昭の名前があった。
 早坂は雅楽的で組み立ての澄んだ日本を主題にした作曲活動をしていて、たとえばピアノ曲『君子の庵』がジョージ・コープランドに認められアメリカで演奏されていた。急逝した天才で、のちに交響的組曲『ユーカラ』を遺した。伊福部のほうは『日本狂詩曲』などで土俗的な哀愁を表現していた。のちに『ゴジラ』の映画音楽で一般に知られるようになる。二人とも昭和9年に日本に初めてヨーロッパ音楽を"伝道"しにきたアレキサンダー・チェレブニンに注目されていた。
 ポスターを見て、日本にもオーケストラを書く作曲家がいることに心を躍らせた二人は、主催者の東宝音楽文化協会の事務所に行って、作曲家を志望していること、清瀬や早坂や伊福部先生に習いたいことを告げた。
 試みに作曲した楽譜を協会にあずけて待っていると(当時はむろんテープなどはなかった)、清瀬保二が会ってくれるという返事である。二人は清瀬を訪ね、武満は清瀬の「ヴァイオリン・ソナタ」の第2楽章で一カ所だけドッペルを使っているところに身震いしたということを言った。のちに清瀬がこの18歳の指摘には驚いたと回顧している。
 こうして武満は清瀬保二に師事したのである。
 すぐに清瀬から松平や早坂を紹介され、清瀬がつくった新作曲派協会にも入会すると、ピアノ曲『2つのレント』でデビューした。山根銀二がさっそく「音楽以前」と酷評したが、その読売ホールでの発表を聴きにきていた秋山邦晴や湯浅譲二は武満の才能を発見した。
 このあとの武満の活躍はつねに静かではあるが、実験的情熱を秘めて連打されていった。とくにそのアクティビティを追うことはしないが、21歳で参加した滝口修造・大辻清司・北代省三・秋山邦晴らの「実験工房」に所属したことは、のちのちまで武満の支えになったとおもわれる。
 では、本書のことだ。手を小さくしてキーボードを打つのはしにくいが、そんな気持ちになって本書を小さな「言葉のピアノ」で演奏することにする。これはぼくの、武満徹変奏曲のためのたった一夜の演奏会だ。以下、「ぼく」というのは本書で綴られている武満さんのことである。

 ぼくは吃りでした。吃りというのは言いたいことがいっぱいあるということで、想像力に発音が追いつかない。発音が追いつかなくとも、でもぼくはしゃべっているのです。このとんでもない「ずれ」はいつまでもぼくのどこかを残響させ、それがそのまま作曲に流れこんでいったように思います。
 8歳のときまで満州にいた。おまけに中学校もろくに行かなかった。だいたい学校はぼくには縁が薄く、ついに一度も音楽教育というものを受けませんでした。ですから、ぼくが作曲法を思いついたのは日々の生きざまのなかで体験したことにひそんでいたというしかありません。そこから始めるしかなかったのです。それ以外は、そうです、すばらしい音楽に出会うときに何かを組み立てなおす。それ以外はありません。
 ぼくは作曲というのは「無」からつくるのではなくて、すでにいろいろのところで鳴ったり止んだりしている音を組み立てなおすことから始まるのだとおもうのです。
 1948年のある日のこと、ぼくは混雑した地下鉄の狭い車内で、調律された楽音のなかにちょっとした騒音をもちこむことを思いつきました。それとともに、作曲するということはきっとぼくをとりまく世界を貫いている「音の河」にどんな意味を与えるかということだろうと確信できた。
 そのころ、しばらく前から音楽は孤立していました。人々は音楽を聴くことに苦しんでいた。いつからこんなことになったのだろうかと思いますが、それがわからない。とくに日本人としてそれがわかりにくくなっています。
 たしかに音楽は数理的な秩序のうえに成り立っているものでしょう。けれどもそれはヨーロッパの音楽ということであって、その規則とはべつにぼくは音のなかで生活し、太陽を見てくしゃみをし、地下鉄の振動をみんなとともに感じつつ、作曲の着想を得てきたのです。もともと音楽は持続であって、瞬間の提出です。ですから、便宜的な小節構造に縛られているのはあまりにむなしいのです。
 ぼくは地下鉄を降りて広場に出て、そこに犬の彫刻が置いてあったのを見て、どうして吠えない犬を置いているのだろうと思いました。これではその広場はいったい何をもたらしいのか、わからない。
 それから15年ほどたったころ、ぼくは北海道の原野を歩いていたのですが、自分が都会の舗道の敷石にとどまっていることをふいに知らされます。
 都会は末梢神経こそ肥大させたかもしれないのですが、四〇キロも見渡せる原野の知覚のようなものをもたらさない。このときぼくは、音は沈黙と測りあえるほどに深いものでなければならないと知ったのです。
 その数日後、ぼくは宮内庁で雅楽を聴くことになりました。驚きました。ふつう、音の振幅は横に流されやすいのですが、ここではそれが垂直に動いている。雅楽はいっさいの可測的な時間を阻み、定量的な試みのいっさいを拒んでいたのです。
 これは何だろうか、これが日本なのだろうかと思いましたが、問題はヨーロッパの音楽からすればそれが雑音であるということです。雑音でなければ異質な主張です。そうだとすると、ぼくという日本人がつくる音楽は、これを異質な雑音からちょっとだけ解き放って、もっと異様であるはずの今日の世界性のなかに、ちょっとした音の生け花のように組み上げられるかどうかということなのです。
 このとき、日本という文化があまり人称にこだわらないということがヒントになりました。そう、人称なんていらないのです。音が鳴るたびに「私は」「僕は」と言わないように音を並べたい。
 そうなのです、ぼくは発音する音楽をつくりたいのです。吃りだったからそんなことを言っていると思われるかもしれませんが、それもありますが、それよりも、どんな石にも樹にも、波にも草にも発音させたいのです。ぼくはそれを耳を澄まして聴きたいだけなのです。ぼくの音楽があるのではなく、音楽のようなぼくがそこにいれば、それでいいのです。 では‥‥、さようなら。

 附記¶
『音、沈黙と測りあえるほどに』『樹の鏡、草原の鏡』(新潮社)はタイトルもすばらしい。衒いがなくて、こんなふうにタイトリングできるのは、ちょっと例がない。装丁は両方ともに宇佐見圭司だった。武満徹の文章はすべて活字になっているとおもう。最近は『武満徹著作集』全五巻(新潮社)も刊行された。対談集には『ひとつの音に世界を聴く』(晶文社)が、書簡集には川田順造との『音・ことば・人間』(岩波書店)がある。武満世界の解読もいろいろ広がっている。長木誠司・樋口隆一の『武満徹・音の河のゆくえ』(平凡社)は力作、岩田隆太郎『カフェ・タケミツ』(海鳴社)はカルト派の先駆作。ごく最近、小沼純一の『武満徹・その音楽地図』(PHP新書)が書きおろされ、かなりの解読が進んだ。小沼には『武満徹-音・ことば・イメージ』(青土社)もある。が、なんといっても武満徹をとことん語ってほしかったのは、秋山邦晴さんだった。

***

『私たちの耳は聞こえているか』
武満徹 著
2000 日本図書センター

『樹の鏡、草原の鏡』
武満徹 著
1975 新潮社

『ひとつの音に世界を聴く』
武満徹対談集
1975 晶文社

『音・ことば・人間』
武満徹 川田順造 著
1980 岩波書店

『武満徹・音の河のゆくえ』
長木誠司 樋口隆一 編
2000 平凡社

『カフェ・タケミツ 私武満音楽』
岩田隆太郎 著
1992 海鳴社

『武満徹 その音楽地図』
小沼純一 著
2005 PHP新書

『武満徹著作集1』
武満徹 著
2000 新潮社

『武満徹著作集2』
武満徹 著
2000 新潮社

『武満徹著作集3』
武満徹 著
2000 新潮社

『武満徹著作集4』
武満徹 著
2000 新潮社

『武満徹著作集5』
武満徹 著
2000 新潮社
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URLメモ

2006-11-24 18:38:44 | Weblog
http://www.nextmusic.net/index.php?command=profile&profid=20060318014315
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駅弁に関する文章(めも)

2006-11-24 14:26:37 | Weblog
 メモです。以下、駅弁に関して、椎名誠さん風文体で綴られた、なかなか面白い(?)文章を見つけましたので、引用させて頂きます。

+++++

松山全日空ホテル宿泊統括支配人・伊藤氏による《松山歳時記「松山全日空ホテル得々便り」十一月(霜月)vol.76

●駅弁●
 先日京都へ行った時の話。
 松山から京都までJRで往復しました。旅行では目的地までの移動時間をいかに楽しむかに重きを置いている私は車両に乗り込む前に充分な備えをします。移動中何もせずひたすら寝てる人がいますが、私はもったいなくて、リラックスするために何かと忙しいのです(?)。車窓の景色を眺めながら、お気に入りの音楽を(ヘッドフォンステレオで)聴いたり、本を読んだりしています。そんな車中の楽しみのひとつに駅弁があります。移動しながらの食事というのはドライブスルーで買ったバーガーをほおばりつつ、といった具合に、休日のドライブでは当たり前のことですが、やはり列車となるとそれよりも特別感が数段アップして「ハレ」の移動食ということになろうかと思います。座席の前にあるテーブルを倒し、出発前に迷いに迷って買い求めた駅弁の包装をわしゃわしゃと開けるときのわくわく感はやはり非日常の世界、旅情を盛り上げてくれる瞬間です。
 さてそんな駅弁ですが、京都から帰りの新幹線、ふと私は思ったのです。
「駅弁も悪くないが、デパートの地下食料品街にある単品グルメの方がもっ と美味しいはずだ、なんてったって専門店の味だかんな。」
と出発までの時間、次のような選抜メニューをあわただしく購入しました。
●天むす ●笹ずし ●シューマイ ●出し巻き卵 ●サラダ ●有名どころのデザート
 むふふ、どうだ、この鉄壁の品揃え、これであと冷えたビールを買い求めれば、車中ディナーは完成です。それにしてもやたら袋が多くなってしまった。で20時50分の岡山行きの新幹線に飛び乗りました。「晩飯は駅弁」と決めていたので夕食が随分と遅くなってしまいハラペコです。
 さて、最初に結論をいうとこのプランは失敗でした。出発してさっそく食事タイムということにしたのですが、夜なので車窓の景色が見えない。これは大きな誤算でした。景色があるとなしでは旅情は雲泥の差です。もちろん夜は泥です。車窓の景色がない状態では単なる狭くて揺れるテーブルです。
「まあいいか、なんてったってこちとらそこら辺の弁当ではなくてグルメ大集合なんだかんな。」
とまず予定通り買い求めたビールをプシュっと空けます。ビールにはシューマイです。さてこの包みを開ける段になって、「ん、これは具合悪いかも」と気づいたわけです。まずワシャワシャワリワリと包みを開ける音がうるさい。思いのほか強固にセロテープ留めされたプラ容器が箸の行く手をさえぎります。
「なんでこんなにがっちり留めなきゃいかんのだ。 ったく」
と文句をいいつつなんとか開けます。シュウマイにはタレと辛子がついています。タレ用の容器はないし、さてこれをどうしたものか。シュウマイに直接かけてしうと染み込んでしまうので、つけながら食べねばとふたのほうにタレをいれます。するとタレがふた全体に広がってしまいなんともキタならしくなってしまいました。ええいままよ、と辛子を注入。すると先ほど過剰包装セロテープをはがした際にこのたよりないセルロイドのふたは割れてしまっていたらしく貴重なタレが下のテーブルにこぼれてしまいました。あわててティッシュで拭こうにも、およそB4くらいの座席テーブルではシュウマイの入れ物だけでいっぱいで、ずらすスペースもありません。とっぱちから「わや」です(わや=ひっちゃかめっちゃかの意)。さらにシュウマイは買い求める際には湯気などをまとい、非常に食欲をそそる風情だったのですが、時間が経ってしまったので水滴の中で硬くなってしまってます。そういえばテーブルからはそこはかとなく酢醤油の匂いが。
「とにかくハラが減っとんじゃ!」
とばかりにシュウマイをビールと共に口に放り込みます。(この時点ですでに「味わう」から「放り込む」になっています。)シュウマイばかりでは飽きるので他のモノも食べたいのですが、いかんせんテーブルがB4なので置ききれません。仕方なくシュウマイ→サラダ→天むす→出し巻き→笹ずしとまるで洋食のコースのごとく一品ずつ片付けていかざるを得ませんでした。(とうとう「味わう」から「片付ける」になってしまいました。)それぞれの味はまずまずというか、単品的には駅弁のアイテムよりグレード的にエラいはずなのですが、何分一品の量が多い。どうしても飽きる。やはり駅弁のように約B5くらいのサイズの弁当箱に収まった何種類かのちまちまとしたメニューを迷いながら食べる方が楽しいし、何と言ってもB4テーブルで効率よく食べるにはその大きさと、一回の開閉で全て食せる、ということろが大事なポイントだったのです。
 結局、ワシャワシャ(包装紙)→ワリワリ(プラ容器)→パキッ(ふた)→モグモグ&グビッ(飲食)→ワシャワシャ(ごみ袋へ)→フキフキ(テーブル)がワンセットで×計5回。なんともあわただしい車中の駅弁タイムではありました。
【教訓】
 車中での食事は味もさることながらやはり弁当という形態が重要である。あと大切な要素として明るい窓の外の景色も加えたい。それにしてもやはり駅弁はエラい。そのノウハウは昨日今日の歴史ではない。
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新聞の訃音記事からメモ

2006-11-24 11:53:13 | Weblog
 新聞の訃音記事からメモです。。。

訃報:灰谷健次郎さん72歳=児童文学作家
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20061124k0000m060078000c.html

 「兎(うさぎ)の眼(め)」などの作品で人間の心の優しさを描くとともに、教育問題にも発言した児童文学作家の灰谷健次郎(はいたに・けんじろう)さんが23日午前4時30分、食道がんのため静岡県内の病院で死去した。72歳。葬儀は近親者で行い、お別れの会などは行わない。自宅、喪主は非公表。
 神戸市生まれ。大阪学芸大(現大阪教育大)卒業後、小学校教諭を務めたが、学校管理が強まるなか退職。沖縄やアジアを放浪した後、作家活動に専念する。74年に発表した「兎の眼」は、女性教師と子供のふれあいを通じて真の教育のあり方を問い、国際アンデルセン賞特別優良作品に選ばれた。また「太陽の子」と合わせて、路傍の石文学賞を受賞した。両作品は映画化され、「兎の眼」は大人にも読まれベストセラーになった。
 80年に神戸市から兵庫県・淡路島の山中に移って自給自足の生活を始めた。その後も沖縄県の渡嘉敷島、静岡県熱海市に転居を繰り返し、独自のライフスタイルで執筆を続ける傍ら、83年には自らの教育理念に基づく保育園を神戸市に作った。
 97年には神戸・小6男児殺人事件で新潮社の写真週刊誌「フォーカス」が容疑者の少年の顔写真を掲載したことに抗議し、「兎の眼」など約30作品の版権を引き揚げた。04年12月に食道がんの手術をし、今年9月に再入院していた。
 他の著書に、短編集「ひとりぼっちの動物園」(小学館文学賞)、長編小説「天の瞳」、「灰谷健次郎の本」(全24巻)、「灰谷健次郎の発言」(全8巻)など。
 ▽映画「兎の眼」で教師を演じた檀ふみさん 「兎の眼」はすばらしい作品で、登場人物もしっかり描いておられた。映画では思うように演じられず、今でも胸が痛みます。やさしく繊細で傷つきやすい少年の心を持った方で、世の中の悲しみをみつめるような鋭いまなざしも印象に残っています。他方、ちゃめっ気もあり、離島に家を建てたのでとお誘いを受け、お風呂が、外から丸見えだと、笑って明かされたこともありました。
(毎日新聞 2006年11月23日 20時12分 (最終更新時間 11月23日 21時20分))

 灰谷さんの作品は、小学生の頃からずっと読んできています。好きな作家のおひとりでした。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。

+++++

《灰谷文学について考察している興味深いサイトのいくつか》

『灰谷文学の是非を問う-もとい 是是を問う-』(1999.4.23)
http://kojikato.at.infoseek.co.jp/kenji01.htm#index

【はじめに】

 灰谷健次郎ほどその作品に賞賛と批判が飛び交う作家というのも珍しい。
 一人の作家、というよりも一つの作品が多くの人の心を打つ一方で、同時に多くの批判にも晒されるというのはどういうことだろう。
 少なくとも灰谷文学が人を感動させる力を持ちながらも(その感動がホンモノであるかどうかはさておき)、同時に読み手に何がしかの疑問、不満、反発、あるいは誤解を抱かせる要素をも持っているのは確かなようだ。かく言う私自身も、灰谷文学に深く感動する一方で、無条件に支持しかねている読者のひとりである。
 灰谷作品に関する評論は数多くある。
 興味深いのは、それら(ごく短いコメントも含めて)の殆どが、共通のパターンを持っているという点だ。すなわち「こういう欠点はあるけれども」という条件付きの賞賛が大半であるという点。無論、それらの欠点を根拠に灰谷文学を全否定するかのような声も少なからずある。しかし私は、そういった批判の声に時に深く頷き、いくつかの作品には強い苛立ちを覚えつつも灰谷健次郎を支持し続けている。

 果たして灰谷健次郎は真に上質の作家なのか。それとも人気だけの食わせ物なのか。灰谷文学の数々の評論を取り上げるという形で検証して行きたい。検証する前から結論は決めているのだけれど。

※出典で「74.10」など年月を記しているものは全て「日本児童文学」の号数を表しています。

- 目次(予定)-

【「兎の眼」は傑作か】
 灰谷健次郎の児童文学第1作を検証。
 - 序 -
 (1)賞賛
 (2)条件付き賞賛
 (3)批判あるいは全否定
 (4)各批判の妥当性
 (5)「兎の眼」は児童文学の古典となり得るか

【清水真沙子「良心のいきつくところ」と神宮輝夫「現代児童文学作家対談7」】
 灰谷文学を高く評価しながらも、同時に厳しく批判する清水真沙子の評論と、灰谷文学に極めて好意的な神宮輝夫(と灰谷健次郎)の対談。両者の灰谷評の比較を交えて灰谷文学の欠点を検証。(執筆中)

【二元論の人間観】
 ダメ人間を糾弾する。これはよくも悪くも灰谷文学とは切っても切れない要素である。灰谷文学の批判として最も槍玉に上がる「二元論の人間観」を検証。(執筆中)

【寄せ集め】(執筆中)

【参考文献(順不同)】

上野瞭「『まがり角』の発想」(晶文社「われら時代のピーターパン」収載)
今江祥智「兎の眼、子どもの眼」(理論社「今江祥智の本 第21巻」収載)
今江祥智 新潮文庫「兎の眼」(灰谷健次郎)解説
河合隼雄「読むこと・書くこと」(理論社「想像力の冒険 わたしの創造作法」収載。今江祥智・上野瞭・灰谷健次郎責任編集)
清水真沙子「良心のいきつくところ」(大和書房「子どもの本の現在」収載)
ひこ・田中「『兎の眼』の眼」(ホームページ「児童文学書評」収載)
ひこ・田中「はるかなユートピア」(パロル舎「ぱろる9」収載)
今江祥智・上野瞭・灰谷健次郎「現代児童文学作家対談7」(偕成社)
「日本児童文学」各号

***

中央大学・小池香苗氏による《灰谷健次郎論》
http://comet.tamacc.chuo-u.ac.jp/2000zemi/koike/haitani.html          

はじめに

 灰谷健次郎氏の作品を研究しようと思ったのは、作品に魅せられたからである。
 初めて灰谷氏の作品を読んだのは、小学生の時だったと思う。家の本棚に『太陽の子』がぽつんと置いてあった。主人公は小学校五年生のふうちゃんという女の子だった。同じような年なのに、この子はなんて一生懸命生きているのだろうと、衝撃を受け、涙をぽろぽろ落としながら、時には笑いながら読んでいたことを覚えている。
 そして中学生になり、読売新聞に『天の瞳』が連載された。私は第一話を読んだだけで、その作品の虜になってしまった。特に倫太郎という主人公に強烈に惹きつけられた。まさに一目惚れだった。天真爛漫で、まっすぐで、予想のつかない言動、感受性がとても強く、そして繊細な倫太郎に、私は恋をした。
 この作品はしばしば灰谷氏のライフワークであると言われている。灰谷氏は、読売新聞社の連載を受けようかどうか迷っていたとき、師と仰ぐ小宮山量平氏に「これこそが子どもだという、あなたの子ども像を完成させなさい」と言われ、「わたしはこの言葉を素直に、心の糧として『天の瞳』を書いた」(読売新聞 一九九五年九月)といっている。つまり、この作品には灰谷健次郎氏の理想が詰まっているのではないだろうか。
 当時読書好きとはいい難い私が、毎日朝刊の『天の瞳』をむさぼるように読んでいた。なぜ、あんなにも惹かれたのだろうか。一話一話読むたびに、胸が躍動した。『天の瞳』は、中学生の私にとって、クスクス、と思わず微笑んでしまうようにおもしろく、そして考えさせられる作品だった。
 灰谷健次郎氏の作品を読むと、私はいつも何かしらの刺激を受けていたように思う。それは時には胸がきゅんとなる痛みであったり、心の中がじわぁっと温かくなるような人のぬくもりのようなものであったりしたと思う。
 私は、灰谷健次郎氏について研究し、灰谷健次郎氏の理想とは一体どのようなものなのか、また作品に込められた思いはいかなるものなのかを読み取り、灰谷健次郎氏の作品の魅力に迫りたいと思う。

第一章 灰谷健次郎氏の足跡
 第一節 誕生~教師時代
 第二節  長兄の自死
 ○『兎の眼』
 ○『太陽の子』
 第三節 島暮らし
第二章『天の瞳』
 第一節 倫太郎は問題児か
 第二節 出合いー添う生き方ー
 第三節 いのち
 第四節 目の描写
 第五節 作品の明るさ
おわりに
 灰谷氏の作品に触れると、ある時は「自分の生は、どれほどたくさんのひとのかなしみの果てにあるのかと思うと、気が遠くなる思いだった。」という、ふうちゃんのように、またある時は「生きている人だけの世の中じゃないよ。生きている人の中に死んだ人もいっしょに生きているから、人間はやさしい気持を持つことができるのよ」という、ふうちゃんのおかあさんのように、登場人物に「生」について語らせ、時には胸をさし、心を思いっきり叩かれるような痛い思いがする。しかし、 それでもやはり読後はなんだか心があたたかくなって、「読んでよかった」と思う。それは、灰谷健次郎氏の作品が優しさに包まれて、いのちがあふれているからだろう。
 灰谷氏のまなざしは鋭く、子どもをありのまま受け入れようとする信念は強い。「絶望をくぐらないところに、本当の優しさはない」という林竹二師の教えは、灰谷健次郎氏の心身に行き渡っている精神である。だからこそ灰谷氏の作品は厳しく、そしてやさしい。そしてどこまでも添うて生きようと志が作品から感じられる。灰谷健次郎氏の心をうたった詩がある。

「あなたの知らないところに
 いろいろな人生がある
 あなたの人生が
 かけがえのないように
 あなたの知らない人生も
 また かけがえがない
 人を愛するということは
 知らない人生を
 知るということだ」
『ひとりぼっちの動物園』より

 灰谷健次郎氏の作品に触れ、どんなに厳しいことを言われ、心が押しつぶされるくらい苦しいことを言われていても、こんな素敵な詩を記す灰谷健次郎氏を私は好きだな、と思う。いのちが嫌いだから厳しいのではなく、いのちを尊敬しているからこそ厳しくならざるをえないのである。
 本当にまっすぐ相手を見つめて、心を見ようとしている姿勢は、まるでふうちゃんであり、倫太郎のようだ。登場人物にモデルはいても、ふうちゃんや倫太郎はフィクションである。しかし、灰谷健次郎氏はいつもその時その時に持ちうる魂を全て注ぎ込み、作品を生み出しているのではないだろうか。『太陽の子』の執筆後についてこう語っている。
「『太陽の子』を書き終えたとき、もう何も書けないという思いが最初にきた。作品の中で、自分が生き、生き抜いて、そして終わったという、そういう感じだった。」(「生」の根源 )と。
 この姿勢は、『兎の眼』を書いた時から『天の瞳』を書く今に至るまでなんら変わっていないということを、作品を読んでいて感じる。
 厳しく、そしてやさしい灰谷氏。作品ひとつひとつに、灰谷健次郎氏のいのちが吹き込まれている。だからこそ、私は灰谷健次郎氏の作品を読むたびに、魅せられるのだと思う。
 私はこれからも、灰谷健次郎氏の作品を読み続けていくだろう。
 そして、いつか、灰谷健次郎氏に出合いたい。(了)
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2006-11-24 09:11:26 | Weblog
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