入野義朗先生(活動初期は入野義郎。のちに入野義朗に改名された由)は、1921年11月13日生まれ。1943年以降の作曲を正式な作品とされているも、1943年以前の作曲も14作品あるらしい(国立音楽大学附属図書館入野義朗書誌作成グループ編『入野義朗』 (人物書誌大系19) 日外アソシエーツ)。
シューマンのヴァイオリン協奏曲ニ短調は、1853年、43歳のシューマンが、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を参考にわずか一週間ほどで書き上げた作品という。この作品について、昔に読んだ秋山邦晴さんの『日本の作曲家たち』のなかで、入野先生が、「高校時代にヴァイオリン協奏曲を書いたのですが、どういうわけか当時まだ聴いたことがなかったシューマンのヴァイオリン協奏曲にそっくりだったんですよ。」と語っていらしたことをしばしば思い出します。
一昨日の朝は、ヴァイオリンとオーケストラの優しいメロディが胸奥で鳴ったので、取り敢えずメモ。この夜は、ひるまの仕事のあと、身体がどうしようもなく疲れてしんどくて、ばたんきゅうしていたところ、実家の母から急用連絡の電話あり、ひとしきり会話して電話を切ったあと、弦楽オーケストラのワルツが胸奥で鳴ったので、取り敢えずメモしてみた。
川崎のベートーヴェン旧邸にまつさらな五線紙はありぼろぼろ鞄と
先生はじめ評を下さった皆様の大半は、一読されて、〈川崎にベートーヴェン旧邸??? いったいどういう設定なのだろう???〉とだいぶ頭を捻られたようだ。ベートーヴェン旧邸とはベートーヴェンが住んでいた家のことで、私が以前に見た夢のなかで、そのじつに閑静で素敵な庭園や邸宅を訪ねいたく感動した〈川崎市立ベートーヴェン記念博物館〉のこと。
ちなみに以下は2017年12月18日の日記。
夢日記のノートをぱらぱらしていると、2013年2月23日の朝方に見た川崎市立ベートーヴェン記念博物館に出掛けた夢の記録が出て来た。そもそもベートーヴェンがどうやって日本に来たかというと、頃は江戸時代、ウィーンの酒場で出会った酔っ払いオランダ人の話で〈あらゆる病を治す仙人薬草や黄金に溢れたジパングの将軍の都〉の噂を聞きつけたベートーヴェンは、ちょうど憂鬱な耳疾が始まったところで、たくさんのまっさらな五線紙の詰まった鞄を提げてジパング目指して出掛けることにした。オランダから日本行きの船に乗り込み、長崎の出島に上陸した。早速将軍の都に行きたいと長崎奉行所役人に交渉。たまたま奉行所にあった五面の箏のために『交響曲』を即興アレンジして聴かせたところ、奉行所一同はいたく感動し、早速長崎奉行が直々に江戸の老中に相談。ベートーヴェンは晴れて江戸に行くことを許され、江戸では将軍さまに謁見。将軍も箏五面のための『交響曲』にいたく感動され、ベートーヴェンは仙人薬草をひそかに栽培している江戸郊外の川崎の里に広大な庭と広壮な邸宅を与えられ、そこで作曲活動に勤しむことになった、ということらしい。これをなんとか短歌連作にできないかなあ、が目下の懸案。
今日は図書館に籠って夕方過ぎまで粘り、取り敢えず作って〈京都宛に投函〉まで済ませた。配達は明日には間に合わなくて明後日になってしまうようだが、なんとか一安心。
短歌メモ七首。(歌誌『塔』3月号掲載)
和蘭水夫ら維納(ウィーン)酒場にて〈ジパングは仙人薬草と黄金の國〉と喚きてをりぬ
耳疾にて悩みてをれば〈仙人薬草〉に飛び付きぬ 作曲家は和蘭水夫捕まへて
和蘭の港にて船に乗り込みぬ 皮革(かは)鞄には真つ新(さら)な五線紙の束、束
作曲家は長崎奉行所の一室に閉ぢ込められたり 五面の筝と
〈交響曲〉を五面の筝用に書き直すのに三日掛かりぬ あの作曲家は
作曲家は将軍さまに謁見賜りぬ 江戸郊外川崎の里に邸宅も得て
仙人薬草は川崎にてひそかに栽培されてをり、と将軍さまはひそと小声で
普段テレビを持っていないので、専らGYAO!で視聴しているのだが、『町中華で飲ろうぜ』(BSTBS)が大好きである。玉さんと秋さんの爽やかな食べっぷり飲みっぷりに毎回心洗われている。そして、最新回を見終わった今宵、豚レモンとレバニラ炒めを無性に食べたくて仕方なくなっているが、我慢我慢。
ショパン・コンクール最終結果。
1位 Bruce (Xiaoyu) Liu ファツィオリ
2位 Alexander Gadjiev(ソナタ賞) カワイ
反田恭平 スタインウェイ
3位 Martin Garcia Garcia(コンチェルト賞) ファツィオリ
4位 小林愛美 スタインウェイ
Jakub Kuzlik(マズルカ賞) スタインウェイ
https://www.asahi.com/sp/articles/ASPBP3PLTPBPUHBI00G.html?iref=sptop_7_03
竹芝桟橋の小笠原協会所蔵の『小花日記』を読まれた鈴木高弘先生のblog記事によれば、「小花は、男子ばかり8人の子だくさんですが、その次男秋作を小笠原以来懇意の松浪に養子にあげる約束をし、内地に戻るとすぐに実行します。松浪には実は他に男子がいたのですが、正妻の子ではないということで秋作を迎えたのです(このため後に秋作は正妻安子が産んだ泰近に松濤家の家督を譲り小花家に戻ります)。」とのこと。つまり、小笠原諸島開拓に出掛ける以前から権之丞には正妻以外の女性との間に男児がいたらしい。権之丞小笠原在島以降の元治元年7月20日生まれの泰近の除籍謄本には、続柄欄に「権之丞弐男」とあるので、これが他に「長男」の男児がいた証拠になるのだろうか。その「長男」が他家に里子か養子に出されていた可能性も考えられるが、そもそも家に伝えられている話に「長男」の消息に関するものが一切ないことがあらためて不可解。
昨日は、某歌会の詠草を読んでいて、唐突に『ヨブ記』のこと、とりわけ、河野裕子先生18歳の頃の短歌作品〈休学と決まりし午後にぽつつりとヨブ記を読めと主治医が言へり〉のことを思い出した。
今朝は、早くに実家の母へ電話し、松濤家と茨城のご縁の話など、二時間近く話した。
今日は、久しぶりに神奈川方面へ自転車の遠乗りをしようかと画策中。川崎にあるという、美味しくて見事で、かつ安い(リーズナブルな)仕出し弁当屋さんの日替わり弁当をぜひとも見てみたい。と思いつつ、その仕出し弁当屋さんのインスタグラムを見ると、今日10月20日(水)は全ての営業をお休みするとあった。残念。。計画変更して、方面を目下検討中。
結局、朝のもやもやした遠乗り計画は頓挫し、弁当持って近場の美味しいうどん屋のある屋上へ。久しぶりにまともに連作短歌でも詠もうと鞄からノート・ペンを取り出しテーブルに並べるも、吹き抜ける凄まじい風にあっという間に持っていかれ、レンジャーさながら拾いに行く羽目に。ノート・ペンをしっかり手で掴み風に抗いつつ、取り敢えず短歌吟行にいそしむこの昼間。