楽しみです。
楽しみです。
散歩の途中、線路沿いの草地に本が無造作に捨てられてあるのを見つける。その中に、著者「松本健一」氏なる天狗文書研究の本が数冊あるのを目にし、あまりに珍しくて思わず拾い上げる。松本氏によれば、過去から未来のことまでが詳細に記されている天狗文書は、とある県内の山深いところにある「天狗本庁」が保管しているらしいが、どういうわけだかこれまで誰もそこにアクセスできなかったという。
不思議な夢でした。
甚内に関するメモです。。。
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「高坂甚内」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9D%82%E7%94%9A%E5%86%85
高坂 甚内(こうさか じんない、? - 慶長18年(1613年)8月12日)は戦国時代から江戸時代初期の忍者。苗字は向坂、勾坂(読みは同じ)、向崎(こうざき、こうさき)とも。
武田氏に仕えた甲州流透破の頭領。武田家臣の高坂氏(香坂氏)の出で、一説には高坂昌信の子であるとも孫であるとも言われる。江戸の吉原を仕切った庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれた。
徳川幕府は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出した。しかし関東には北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。
甚内は、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落して江戸の町を荒らし回った風魔小太郎とは対立関係にあったため、風魔一党の隠れ家を密告し、慶長8年(1603年)に風魔小太郎は捕縛処刑された。
しかしその甚内も関東一円に散らばる盗賊を糾合し、幕府の治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18年(1613年)に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。その際、瘧(マラリア)を煩っていたと言われ、死に際には「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として高坂甚内を祀っている。
高坂甚内の生涯については数多くの俗説がある。剣豪宮本武蔵の弟子であったが破門されたともされるが、前述の高坂昌信の子や孫という出自も含めて信憑性は薄い。また、有名な怪談『番町皿屋敷』ではお菊の父親という設定になっている。
【参考文献】
丹野顕『江戸の盗賊』青春出版社、21頁。
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「庄司甚内(甚右衛門)の謎を追え!(前編)」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~barefoot/history/4.html
「庄司甚内(甚右衛門)の謎を追え!(後編)」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~barefoot/history/7.html
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「飛沢甚内」
江戸初期の古着商の元締めで、寛永三甚内(+)の一人。元は小田原浪人で江戸で盗賊宿を営んでいた。武術の心得はないが、人間離れした早業と身軽さを持ち、後に大久保彦左衛門に許され、盗品があれば届け出ることを条件に幕府より古着の専売権を得て、富沢甚内と改名。表向きは古着商、その実、富沢流取り縄使いの目明かしとして活躍し、勾坂甚内を捕らえた。彼の仲間たちも古着商を営み、彼らの住む一帯は日本橋鳶沢町(富沢町)となった。
(+)寛永三甚内
飛沢甚内、庄司甚内(甚右衛門)、高坂 甚内の三人を称して「寛永三甚内」という。
http://denki.art.coocan.jp/pukiwiki/?%C6%D0%C2%F4%BF%D3%C6%E2
何人かの親しい人びとと楽しく音楽の話をして盛り上がつてゐました。そのなかに実際の知り合ひはゐなかつたやうなのですが、その誰かから、ところでN○K交響楽団のために曲を書いてほしいのだけれど引き受けてもらへないかと突然言はれ、私は、自分は楽譜浄書ソフトを使へないので手書き譜面でよければ、と答へ、結局引き受ける話になつてゐました。
以上、夢の話です。
庭の木にとまりてゐるは鳥でなくかなしみである かなしみ詠(うた)へ
目が覚めると、どこからかフルートの音色がずつと鳴つてゐました。バッハのやうな曲でした。
昨夜、お寺からの帰りに池袋ジュンク堂で短歌総合誌『歌壇』2月号を入手。歌壇賞候補作に見知つたお名前たくさん。自分も精進していかねば、とあらためて。