カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

MELAGRANA ―メラグラーナ―(メモ)

2008-10-30 19:49:23 | Weblog
 メモです。。。

さゆさんの
「MELAGRANA ―メラグラーナ―」
http://ameblo.jp/fujinosayu/
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伊勢うどん

2008-10-30 12:54:14 | Weblog
 メモです。

 美味しそうです。

伊勢うどん
http://www.ise-udon.net/
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「彗星の大統領」からの親書

2008-10-30 11:31:19 | Weblog
 短歌メモから、です。。。

(詞書)
(姫様は、先日UFO船長から預かった「彗星の大統領」から「ホルフェッツァ国・アスフィータ女王」宛の親書を、王国西側に広がる大砂漠のどこかの「砂漠の門」の中にあるといわれる「ホルフェッツァ国」にお届けするべく、王国砂漠遠征隊を組織され、不肖私もコック長を拝命してご同行することになった。初日の夜、食事の片付けを済ませた後、ぼんやりと野営地のテントの外に腰を下ろして、ぴかぴかに磨きあげた鍋に砂漠の様子が映るさまを眺めていた。)

姫様の鍋は砂漠を映しをり 塩も光もなべてし閑(しづ)か
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演奏会情報から

2008-10-29 09:27:23 | Weblog
 演奏会情報から、メモです。。。

 *****

アプリコ会館10周年企画「若きマエストロで聴くオーケストラ・シリーズ」の第2弾で、同企画は活躍の場が限られている若手指揮者をオーケストラ・ファンに紹介するため、若手指揮者と在京オーケストラの公演を3回シリーズで行うというものです。

指揮の松井慶太氏は、1984年生まれの24歳で、3歳からピアノ、15歳からオーボエを学び、2007年に東京音楽大学指揮科を卒業しました。国内外での指揮活動のほか、昨年は人気ドラマ「のだめカンタービレ」出演者の指揮指導にあたるなど、幅広い活動を行っています。共演するのは日本を代表するオーケストラである日本フィルハーモニー交響楽団で、ヴァイオリンの独奏は、2002年チャイコフスキー国際コンクール最高位入賞をきっかけに、国内外の数々の指揮者・オーケストラと共演を重ねる川久保賜紀氏です。
曲目は、ドヴォルザーク「交響曲第9番『新世界より』」、サン=サーンス「ヴァイオリン協奏曲第3番」(Vn独奏:川久保賜紀氏)などが予定されています。

●日時/10月29日(水)
19:00開演(開場18:15)
●会場/大田区民ホール・アプリコ 大ホール(京浜東北線蒲田駅東口より徒歩三分)
●住所/〒144-0052 東京都大田区蒲田5-37-3
●お問い合わせ/大田区民ホール・アプリコ
●tel/03-5744-1600

詳しくは下記のサイトに。

http://www.ota-bunka.or.jp/ticket_info.html

当日券は六時から販売。

B席だけ売切れのようです。
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NHK番組「音楽の広場」

2008-10-27 13:43:25 | Weblog
 すごく懐かしいです。。。

NHK番組「音楽の広場」
(1980年1月26日、石川県金沢市・石川厚生年金会館ホール)
http://jp.youtube.com/watch?v=Oi2hlB8-HGk

司会:黒柳徹子、芥川也寸志

指揮:芥川也寸志
管弦楽:金沢大学フィルハーモニー管弦楽団

「ラデツキー行進曲」

「アイーダ」から「大行進曲」
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昨日は・・・

2008-10-27 09:39:21 | Weblog
 メモです。。。

 最近、たまたま痛快で爽快な映画「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」を見る機会がありました。その映画が、あるブログに書かれた物語を原作にしていることを知りました。。。

http://videonavi.blog66.fc2.com/blog-entry-1268.html

http://bokuchu.gyao.jp/

 ***

ブログ「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」
~田舎町で繰り広げられたしょーもない悪戯戦争です~

http://700days.blog69.fc2.com/

http://700days.blog69.fc2.com/blog-entry-2.html

 ***

 昨日は、本当は朝から夕方までお寺のお手伝いに伺う予定でしたが、昨日未明に突如体調を崩してしまい、とりあえず日曜午前中でも専門的な診察治療をしてくれる病院を探し、出かけました。生まれて初めての検査をいろいろ受けました。正式な結果は二週間後に判明しますが大したことない予定です。

 午後は、たまたまその病院の近くの尚美学園大学「第八回尚美祭」へ。友人Sさんの参加されているリバティベルオーケストラの素晴らしい演奏会を聞かせて頂きました。

 昨日のコンサートでは、作曲家坂田晃一先生が自作自演で「おしん」と大河ドラマ「いのち」のテーマ音楽を指揮されたり(「いのち」の演奏中、坂田先生が勢いあまって指揮棒を客席に飛ばされるアクシデントがありました)、ドボルジャークの交響曲第八番の名演があったり、と盛りだくさんな内容でした。。。

 ほんとうに、心が洗われる素晴らしい演奏会でした。

 有難うございました。

 ***

 以下は、演奏会プログラムに掲載されていた坂田先生のプロフィールです。

[坂田晃一(さかたこういち)]
1942年東京生まれ。当初は建築家を志し、早稲田大学高等学院に入学する。入学直後から趣味としてチェロを始めるが、徐々にチェリストへの夢が募り、建築家になることを断念、東京藝術大学音楽学部器楽科に進学。しかし、高校時代から我流ながら試みていた作曲への興味が強まり、3年でチェリストへの夢を捨て、大学を中退。1963年から山本直純に師事、商業音楽の作曲について徹底的な訓練を受ける。1967年独立し、テレビドラマ、映画、レコード、舞台、CM等、各種メディアのための職業作曲家として、幅広い作曲活動を展開。編曲家としても、二十年来続けている<由紀さおり・安田祥子姉妹>のCD制作やコンサートにその手腕を発揮し、プロデューサー・音楽監督も務める。近年、日生劇場・音楽ドラマ「シューベルト」(神奈川フィル)、由紀・安田姉妹の「オーケストラ・バージョン・コンサート」(オーケストラアンサンブル金沢・NIPPON SYMPHONY・京都フィルなど)等で指揮活動も行っている。現在、尚美学園大学音楽表現学科・作曲コース主任教授、同大学院教授、研究科長。大学中退以来二十数年間全く指を触れてこなかったチェロを、中年になってから趣味として再開。今ではチェロを弾くことが大きな喜びであるという。(後略)


母をたずねて三千里 OP Marco (Japanese Ver)
http://jp.youtube.com/watch?v=LiYEXg1GOwc
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未明から。。

2008-10-26 08:20:08 | Weblog
 今日は本当はお寺のお手伝いをさせて頂く予定でしたが、未明から体調を崩してしまっため、お休みを頂きました。病院にかかるつもりです。
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カーゲル作曲「フィナーレ」

2008-10-25 14:55:08 | Weblog
 メモです。。。

 可笑しすぎます。。。

The falling conductor ~演奏中に指揮者が倒れるクラシック音楽~
http://jp.youtube.com/watch?v=IA2_W6spGiY

カーゲル作曲「フィナーレ」より

指揮:飯森範親
管弦楽:山形交響楽団

 ***

平成の世にサムライを探して:特集・飯森範親氏
第二十四回 (2007.10.18掲載)
指揮をしながら倒れることもいとわない演技派指揮者は、
日本以上に世界で知られる日本人。
http://www.hitachi-system.co.jp/samurai/feature/24/index.html

あるクラシック音楽に「指揮者が演奏中に倒れる」という指示のある作品があります。この曲に挑んだことのある日本人指揮者は、知られている限り今までただ一人しかいません。それが飯森範親さんです。輝かしいキャリアの陰で人知れぬ挫折を繰り返しながら、今日では日本のみならず世界の交響楽団からラブコールを送られる大人気指揮者に。たった一度の人生ならこんな風に生きてみたいと思わせてくれる熱血仕事人を訪ねるコーナー、今回は世界で知られる日本人 飯森範親さんの生きざまをお届けします。

《ラヴェルの「ボレロ」を聴いて指揮者になることを決めた10歳の少年》

名を成す音楽家は、たいてい幼少の頃からその才能を現し、自分の未来の照準をしっかりそこに定めてしまう人が多い。飯森さんもその例外ではなかった。ピアノを始めたのは4歳のとき。自分から習いたいと両親に告げた。あるとき、ポーランド出身のピアニスト アルトゥール・ルービンシュタインが弾くチャイコフスキーのピアノ協奏曲をレコードで聴いて強烈な印象を受け、「この楽器を弾きたい」と思ったのがきっかけだったという。

飯森さんがピアノを習いたいというと、情操教育の一環としてならそれもいいだろうと両親は考え、おじいさんの援助もあってほどなくピアノが飯森家にやってきた。飯森さんは、小さくて指が届かないながらも、ルービンシュタインの奏でるピアノ協奏曲に合わせて一生懸命メロディーを追いかけていたらしい。また耳のよさも特別で、お母さんがジャーンとでたらめに鍵盤を押さえるとその音をすべて言い当てることができた。

指揮者になりたいと思ったのは10歳のときだ。ある日、お父さんにシンセサイザーで演奏されたラヴェルのボレロを聴かせてもらった。飯森さんは即座に「この曲は何?」と尋ねた。お父さんはラヴェルのボレロだと説明し、あとからオーケストラバージョンのボレロも聴かせた。飯森さんは雷に打たれたような気持ちになり、「この曲を指揮したい!」と猛烈に思ったのだそうだ。

《音楽しか知らない人間にはならない、と普通科高校を志望》

一般的に、音楽家をめざす人は、英才教育で知られる私立の名門音楽校に早い段階で入学しようとする。早く入ればそれだけ長く一貫教育が受けられるからである。しかし、飯森さんは県立の普通高校を志望した。これは非常に珍しいパターンである。なぜなのだろう。

「指揮者になりたかったからです。これは音楽のみならず非常に幅広い知識や教養が必要な仕事です。音楽だけしか知らない人間ではダメ。社会に出たときに誰もが知っていて当然とされる知識はちゃんと身につけておきたいと思いました」

中学生にして飯森さんにはこうしたビジョンがきちんと描けていた。そして志望どおり県立の普通科に入学する。それも神奈川県立追浜高等学校という有数の進学校である。

学校は楽しかった。しかし、指揮者になるためにはやはり音楽大学へ行かなければならない。音楽大学へ行くためには、他の学生のように授業のある科目の勉強をしていたのでは追いつかない。さまざまな音楽の専門レッスンに独力で通う必要がある。これは飯森さんにとって大きなハンディキャップだった。

作曲や聴音は地元の鎌倉で教わることができるからまだいい。しかし、指揮とピアノの先生は東京都在住でレッスンは14時開始。学校の授業が終わってから駆けつけるというわけにはいかない。飯森さんはどうしたか。自主早退である。人知れずいなくなるのである。このことで先生に呼び出されると、音楽大学へ入るための勉強があるのだと説明した。しかし、進学校の先生にはそのことがなかなか理解してもらえなかったという。

《周りのレベルの高さに圧倒されて、出口のない迷路に迷いこんだ2年間》

桐朋学園大学音楽学部指揮科。それが飯森さんの志望した最高学府である。迷いはまったくなかった。飯森さんにとっては、小澤征爾先生がいて、秋山和慶先生がいて、日本の第一線で活躍する音楽家を輩出し続けている、まさに憧れの大学だった。指揮科はなかでも難関中の難関で、合格に該当する者がいなければ入学者ゼロという事態がなかば常態化していたが、飯森さんはそこに現役合格を果たす。しかも、それは外部から、つまり他の高校から入学した生徒としては桐朋学園史上初の快挙だった。入学当初、「飯森範親とは一体何者か」と相当騒がれたらしい。

だが、飯森さんは周りの賞賛に反して、入学を機にとてつもない挫折を味わうことになる。レベルが違う、ついていけない、というのがその理由だった。テクニックがどうこうというのではない。もはや周りは表現者として自己を確立していた。自分の音楽のスタイルというものが完全にできあがっていた。特に指揮という仕事にはそれが求められた。まだ学生だという言い訳は通用しなかった。内部入学生はそれがわかっている。しかし、飯森さんはいわば新参者である。中には飯森さんが桐朋学園の指導法に慣れていないことにまったく頓着せず、厳しく指導する教授もいた。それに耐えに耐えたのだが、精神的なストレスのあまり、なんと十二指腸潰瘍と胃潰瘍と胆嚢炎を併発し、吐血にまで至ってしまったのである。「最初の2年はまさにブランクの2年だった」と飯森さんは振り返る。

「スランプじゃない。ブランクなんです。スランプだったらまだ脱出できる。しかし、あの頃の僕はまったくの空っぽでした。何をしても空回りで、先生からは『なぜ君はそんなに焦っているんだ』といわれるし、何をしても前に進まないという状態でした」

環境も言葉も違う国に転校生としてやってきたも同然だったのだから無理もない。むしろ隔たりを感じて当然だ。しかし、飯森さんの飯森さんらしいところは、そこから一歩も逃げようとしなかったことだ。他の人ならドロップアウトという道もあったかもしれない。しかし、飯森さんはそれを選ぶことはしなかった。

真似できるものはすべて真似し、参考になりそうなものはすべて参考にし、とにかく自分のレパートリーを広げないことには何も始まらないと、飯森さんは手に入るオーケストラ譜をかたっぱしから記憶することにした。オーケストラ譜というのはその曲に参加するすべての楽器のメロディーが記述されているのだが、それをまるまる覚えるのである。

あるときはピアノで、あるときはCDで、あらゆる手段を使って頭に入れた。一日中図書館にこもって楽曲を聴きっぱなしの日もあったという。飯森さんはのちに数多くのオーケストラ譜を完璧に覚えていることで知られ、「暗譜の飯森」と異名を取るようになるのだが、それはブランクを抜け出すための飯森さんの苦闘から始まったことだったのである。この学生時代に覚えたオーケストラ譜だけでも300は下らないというから、実にすさまじい努力だ。

大学時代のほぼ3年間、そのようにして日を送った。大学3年の終わり、フランスの名指揮者ジャン・フルネ氏が来日、桐朋学園大学で特別レッスンが行われることになった。飯森さんはフランス人の先生だからフランス音楽がいいと、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」、ドビュッシーの「海」「牧神の午後への前奏曲」の3曲を演奏した。フルネ氏はすべての演奏を「すばらしい。飯森はフランス人よりフランス音楽を理解している」と高く評価した。これは出口のない闇の中にいた飯森さんをブランクから救う何よりの特効薬となった。今までの勉強がまちがっていなかったことが証明された瞬間だった。飯森さんはフルネ氏の評を心の底から喜び、今でも非常に感謝しているという。

それでようやく自信が持てるようになり、コンクールにもチャレンジ。そして大学4年生の秋、いきなり第20回東京国際指揮者コンクールで第2位入賞(1位該当者なし)を果たす。たちまち飯森さんの名前は日本のクラシック音楽界の知るところとなり、大阪フィルハーモニー交響楽団、札幌交響楽団など、5つのオーケストラから飯森さんは指揮をする機会を提供された。つまり、大学在学中にプロフェッショナルの指揮者として颯爽とデビューしたのである。大学を卒業しても、このまま順風満帆に仕事が来るものと信じていた。

しかし、その考えは甘かった。一人前の指揮者になったつもりでいたのに、仕事の依頼はいっこうに来なかった。5つのオーケストラで指揮棒を振らせてもらえたのは、コンクール受賞のご祝儀だったのだ。飯森さんは仕事が来ないということはもう少し勉強していろということだと自分なりに解釈し、自費で西ベルリンへ行くことを決めた。

かの地では、西洋音楽の本場から大きな刺激を受けたという。しかし、学んだものを試そうと国際コンクールに挑戦するのだが、なかなか入賞できなかった。求められていたのは、単に優秀な指揮者ではなく、明日にもオーケストラをまとめあげて観客の前で指揮ができる即戦力の指揮者だった。そのことに気づいた飯森さんは、再びオーケストラ譜の記憶に取り組み始めた。第二のスコア暗譜時代である。

クラシック音楽は西洋音楽である。それを東洋人として本場で学ぶということはどういうことなのだろう。飯森さんはここでずっとどんなことを考えていたのだろうか。

「ここに来てわかったことは、音楽の中心には作曲家がいるということです。どういうことかというと、音符というのは作曲家の話す言語で書かれているのです。モーツァルトならドイツ語かイタリア語で書かれている。メロディーがそのまま彼らの言語なのです。だから楽曲の理解は、その言語を話し、西洋音楽の伝統を頭ではなく体でわかっている彼らの方が、はるかに分があります。
しかし、四苦八苦しているのは日本人だけではありませんでした。程度の差はあれ、ドイツ音楽にはフランス人指揮者は四苦八苦していたし、イタリア音楽にはドイツ人指揮者も四苦八苦していました。条件はそんなに変わらなかったんです。
それでも、指揮するからには「イイモリはいい」と認められたい。どうしたらそれが可能かを西ベルリンの地で死ぬほど考え抜きました。そしてたどりついた答えが『日本人であることを前面に押し出すこと』だったんです」

日本人は勤勉で完璧主義者で研究熱心という国民性を持っている。これはひいき目ではない。海外に出ると実際に自覚できることだ。それが音楽の世界にも如実に表れる。日本人音楽家の聴音能力の高さは、海外でも非常に有名である。また、労を惜しまず熱心に練習に取り組む姿勢も持っている。さらに、伝統が自分の国のものでないだけに第三者から見た冷静な観察ができる。傍目八目でそこに新しい解釈を持ち込めるというわけだ。ゆえに、日本人だからといって西洋音楽の世界で主役になれないことはなく、かえって日本人であることを誇りとして、それを差別化のポイントとして、前へ前へ打ち出していけばいいのだ、と、飯森さんは西ベルリンにやってきてそのことを悟ることができた。

最初は2、3年で帰ってくるつもりだった。しかし、あるとき、ミュンヘンオペラの練習風景を見る機会を得て気が変わった。今度はオペラ音楽を指揮する魅力にとりつかれたのである。急いで帰ることはないとこちらの勉強にも注力し、結局1991年まで5年間、日本とドイツを行ったり来たりする留学生活を送ることになった。そして「そろそろ日本でも振ってくれ」という声に応える形で飯森さんは日本に帰国する。

《休みは3ヶ月に1日という超多忙な日々、そこまでするのは人々にクラシックに触れてほしいから》

日本に帰るやいなや、飯森さんは恐ろしく多忙になった。1994年、東京交響楽団の専属指揮者に就任。1995年から大阪のザ・カレッジ・オペラハウスを本拠に活躍するオペラハウス管弦楽団の常任指揮者に就任、2002年には名誉指揮者の称号を受けるまでになっている。それだけではなく、広島交響楽団の正指揮者、モスクワ放送交響楽団特別客演指揮者なども務め、海外ではフランクフルト放送交響楽団、ケルン放送交響楽団、チェコフィルハーモニー、プラハ交響楽団、モスクワ放送交響楽団など世界的なオーケストラを指揮している。現在は、ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団音楽総監督(GMD)、東京交響楽団正指揮者、山形交響楽団ミュージックアドバイザー 兼 常任指揮者、いずみシンフォニエッタ大阪常任指揮者、オペラハウス管弦楽団名誉指揮者である。

これだけの交響楽団の指揮を担当すると、たとえばある一週間はこんな感じになる。月曜日は京都、火曜日は徳島、水、木、金は山形で練習し、土、日に本番を披露。その夜のうちに東京に戻り、空いた時間で原稿まで書くという具合だ。完全な休日は3ヵ月に1回というペースだという。なぜそこまで精力的に動くのか。日本の人々にクラシック音楽に触れる機会を少しでも増やしたいから、と飯森さんは語る。

「『この指揮者がなんだか気になる』『テレビで聴いたあの曲を生で聴いてみたい』『マーラーという作曲家に興味を持った』理由はなんでも構わないんです。僕が動くことで、『クラシックを聴いてみようかな』とコンサートホールへ足を運んでいただくきっかけになったらいい、ただそれだけですね。

クラシック音楽こそが音楽だ、と無理に押しつけるつもりはありません。なかにはどうしても性が合わないという方もいらっしゃるかもしれない。しかし、食わず嫌いというか、まったくクラシックに触れることなく人生を終えていただきたくないなと思って。こういう世界もあるんですよ、ということをなんとか伝えたい。そのために僕ができることは、プライベートを削ってでもなんでもしたいと思っています」

現代ドイツの作曲家カーゲルに「フィナーレ」という作品がある。この曲はなんと、後半部分で指揮者が苦しみだし倒れるようにと楽譜に指示が入っている。楽団員は動揺しながら指揮者なしで演奏し、指揮者はそのまま担架で楽屋へ運ばれていく。まるで演劇を見ているかのような心持ちになるこの作品、日本で初演したのは飯森さんだった。2001年、いずみシンフォニエッタ大阪での定期演奏会でのことである。
このことはテレビのバラエティー番組『トリビアの泉』でも「演奏中に指揮者が倒れる曲がある」と取り上げられた。ほかの指揮者なら、このようなパフォーマンスをあえてしようとは考えなかっただろう。事実、飯森さん以前にこの曲を選んだ日本人指揮者はいなかった。しかし、飯森さんのサービス精神は次元が違う。聴衆に楽しんでもらいたいという気持ちがほんとうに強いのだ。

「コンサートに来るお客さんの思いはきっとさまざまです。朝、ちょっと親とけんかをしてしまって、なにかもやもやした気分で来られた独身サラリーマンもおられるかもしれないし、風邪で体調をくずして来るかどうしようか迷いながら、チケットがもったいないから足を運んだ人もいるかもしれないし、この人と結婚すべきかどうしようか考えている最中のカップルもいるかもしれない(笑)。そうしたさまざまな思いで来られた方々に、コンサートを聴き終えて『ああ、やっぱり来てよかったな』と感じてもらいたいんですよね。音楽で生じるプラスの感情、それを届けるのが音楽家としての使命なのではないかと思っています」

《手綱をゆるめず人間修業を続け、最後には「飯森のベートーヴェン」を確立したい》

そのために飯森さんは万全な準備をする。今も彼は「暗譜の飯森」だ。演奏する楽曲は必ず完璧に頭に入れてしまう。指揮台の前に譜面を置くことができ、多くの指揮者は譜面を見ながら棒を振っているが、曲がすっかり頭に入っているのといないのでは、自然と指揮のクオリティは違ってくるという。指揮者には神がかり的なところがあり、楽曲に没入するあまり、自分が自分でないような、あるいは自分が作曲家になったような状態になることがあるという。しかし、そうしたことも楽曲をすっかり体の中に入れてしまわないと起こらない、と飯森さんはいう。

飯森さんは今年7月、日本人指揮者とドイツのオーケストラの組み合わせとしては史上初の快挙といえる「ベートーヴェン交響曲全曲」のCDを完成させた。長い間の夢であったドイツのオーケストラとの来日公演も実現した。プロデビュー以来20年、目標として胸に抱いていたものがすべて形になったのだ。これでようやくひと段落、というのが今の正直な心境だそうだ。しかし、これで夢がなくなったわけではない。今は、もっと壮大なゴールがある。それは、「飯森範親のベートーヴェン」「飯森範親のモーツァルト」を確立することだという。単に指揮の技術という問題ではない。それは、これからもさまざまな分野に興味を持ち、見識を広げて、またさらに人生経験を重ねていった先にようやくかなうことなのだ。

「もっと本を読みたい。もっと人に会いたい。もっと日本や世界を旅したい。この世のすべての楽器を知りたい。いろいろな文化に触れたい。やりたいことは山ほどあります。指揮者というのはその全人格が問われるとともに、それがすべて指揮に出てしまう仕事。人間としての成長を止めた時点で、もう終わりなんですね。これからも人間修業を続けて、最後には僕のベートーヴェン、僕のモーツァルトといえるものを作り上げ、それが聴きたいといってお客様がコンサートホールに足を運んでくださるようにしていきたい。それが僕の究極の夢ですね」

自己評価では現在の完成度は60%。残りの40%を満たすために、飯森さんはますます加速度を上げながらクラシックの世界を疾走し続ける。

特集 飯森範親/了
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姫様の真っ青な携帯無線機

2008-10-25 12:35:32 | Weblog
(姫様が真っ青な携帯無線機をお気に入りの携帯ポーチに入れられて「爺や。。。私、やっぱり行かなければならない」と言われてお城を抜け出されてから一週間。最後に交信されてきたのは三日前の夜。姫様は、あちらこちらでご覧になった深刻な国民生活窮乏の様子をひとしきり伝えられたあとで、「この状況を何とかできるのは私しかいないの。爺や、また連絡します。元気でね。」と切られた。あの姫様のことだから、どんなに難しい状況になってもなんとか切り抜けなさるに違いないが、あれ以来ぱたと連絡がないと、さすがに心配になってくる。姫様がお城を抜け出されるときに下さった姫様とお揃いの携帯無線機で何度もなんども姫様を呼び出してみるけれどもつながる気配がない。。その頃、埼玉県警本部から王国警察に出向中の秋原康三警部は、秘密結社《王党派メロン》への潜入捜査のために、王宮に程近い旧市街にある、大聖母教会併設の慈善病院「くりにつく・せみなりお」を訪れた)

「おやすみ」と青き無線機切られたり その朝もなし「おはやう」とふ声
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Les soir illumines par l'ardeur du charbon

2008-10-24 13:09:56 | Weblog
 興味深いのでメモさせて頂きます。。。

(以下、引用部分です)

「燃える炭火に照らされた夕べ」(本業が数学教師という異色のピアニスト金子一朗氏によるPTNAサイト読物記事「ドビュッシー探究(連載第一回)」より)
http://www.piano.or.jp/report/knk_dbsy/001.html

 1曲目を何にするか、結構悩みました。時代順に並べるのも1案ですが、やはり、自分の興味に応じて連載し、ある程度まとまったところでまた全体像についてお話しさせていただこうと思います。 そこで、第1曲目は、何と、ドビュッシーの、最後に書かれた作品にしました。この作品は、癌に冒され、死期が迫り、しかも第1次大戦まっただ中の1917年の2月から3月にかけて作曲されました。この頃、フランスでも物資が不足していて、暖炉に必要な石炭を手に入れることすらままなりませんでした。また、この作品を書いているときも、ドビュッシーは癌の病苦が激しいため、ほとんど創作活動ができなかったのです。そういった中で石炭を世話してくれた商人に頼まれてこの作品を書くことになったそうです。私はこの作品の自筆譜のファクシミリを持っていませんが、ドビュッシーの自筆譜は線が細く、繊細で淡い感じで書かれ、その筆跡がすでに音楽と一体化して、一種の絵画的なものになっています。この作品の自筆譜は2001年秋にアメリカで発見されたばかりで、出版もDurand社から2003年に出たばかりなので、私は音源を聴いたことがありません。もともと、私は音源を聴かないので、もしかすると発売されているかもしれません。 曲は変イ長調の23小節からなる小品です。4小節のイントロ、4小節のカデンツァ的な楽句に続き、4小節の主部、そして4小節の展開があり、また最初のカデンツァ的な楽句が、途中からリズムモチーフの縮節が起こり、最後は変イ長調の主和音で終わります。3段譜で書かれ、最初から最後まで途切れることなく、バスに変イ音が鳴り続けますが(オルゲルプンクト)、問題なのは、その上2段譜で書かれた和音が様々に変化したとき、ペダルを踏み替えることでこの変イ音が消えてしまうことがあることです。これについての解決方法は、ドビュッシーのピアノ作品を演奏する上ですべて共通するものなので、ここで取り上げておきましょう。

 解決方法1:ソステヌートペダルを使う
 解決方法2:バスの音をよく響かせ、その響きに乗せる感じで中、上声部の和音を弾き、完全に踏み替えないペダルを注意深く用いて響きを残しながら和音の変化も表現する
 解決方法3:バスの音を指で押さえながら、他の声部の音を他の指で弾く

 解決方法1を使う場合、他の音を残さないために、最初に音を鳴らさずに変イ音のキーを押してからソステヌートペダルを踏み、その後、ずっとソステヌートペダルを踏みっぱなしで演奏すれば、この作品の場合、物理的には完璧に弾けます。しかし、左足を使ってしまっているので、ソフトペダルは使えません。従って、そういうニュアンスが欲しいところ、例えば冒頭部分などでは困ります。
 解決方法2:これが一番ドビュッシーに必要な技術で、これをしっかりと使えれば美しくドビュッシーのピアノ曲が表現できます。しかし、4小節、17小節の終わりから20小節についてはどうしても濁りが多くなり、非常に困難です。ただし、4小節に関しては、2小節3拍目から4小節目まである松葉記号を忠実に守り、4小節目の最初でsub PPにするとバスの変イ音が残って微妙な響きが得られ、問題は解決します。こういう表現の際、和声についての知識や感受性は非常に大切です。
 解決方法3:これができるのならいいのですが、そうすると手がもう一つ必要になります。しかし、解決方法2の困難な場所のうち、17小節の終わりから20小節については、上2段をすべて右手で演奏すれば可能です。もちろん、柔らかいニュアンスの中で和音の跳躍を伴うので決して易しくありません。
 という様々な技術の選択をして演奏するのですが、しかし、結果は題名の通りのニュアンスをイメージさせる繊細で美しく、物静かな音楽です。

(後略)

 *****

ドビュッシー晩年の秘曲「燃える炭火に照らされた夕べ」(くまさんのブログ「知られざる佳曲」より)
http://blog.livedoor.jp/unknownmelodies/archives/50771016.html

 ドビュッシーが晩年に書いた小品が、近年になって発見され話題になった。「燃える炭火に照らされた夕べ(Les soirs illuminés par l'ardeur du charbon)」と題されたそのピアノの小品は、少しずつ外国ではCDが出てきたが、国内盤は出ていないので殆んど聴く機会が無かった。
 ボードレールの「悪の華」に収められた「露台(Le Balcon)」からの一節を表題に持つこの小品は、寒さに苦しんでいたドビュッシーのために石炭を届けた人物の労を労って書いたもので、決して音の多くない中にも、やはりボードレールから採られた「音と香りは夕暮れの大気に漂う」を思わせたり、他の傑作のエコーもどこからか響いてきたりする。人生の夕べに差し掛かり、過去を回想する意図もあったのだろうか。
(後略)

 *****

「ある話好きのアマチュアピアノ弾き」さんの「楽譜の風景」サイトより
http://homepage1.nifty.com/iberia/index.htm

2005/6/25 この曲(http://fuwatom.hp.infoseek.co.jp/question_whoami.mp3)の作曲家は誰でしょう…?
http://homepage1.nifty.com/iberia/wnew200506.htm


[解答]
 正解は、ドビュッシー「Les soir illumines par l'ardeur du charbon」[炭火に照らされた夕べ]。1917年2or3月作曲。つまり、ドビュッシー最後のピアノソロ作品です。
 発見されたのは2001年11月30日のオークションでのこと。出版は2003年にデュランから。
 この謎めいたタイトルは、Ch.Baudelaire(ボードレール)の「Le Balcon」からの一節。若い頃から気に入っていたとのことです。
 この作品は、ある石炭商人のために書いたそうです。石炭が貴重な時代にドビュッシーに届けてくれていたとか。感謝の意を込めて、というのもあるのでしょう。実際は、その商人が自筆譜が欲しくて頼んだらしいのですが。それで自筆譜がしばらく見つからなかったのかもしれません。

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Debussy – Complete Works for Piano Volume 1 – Jean-Efflam Bavouzet
Reviewed by: Peter Joelson
http://www.classicalsource.com/db_control/db_cd_review.php?id=5765

(前略)
There’s an encore, Les soirs illuminés par l'ardeur du charbon’; written in the depths of a harsh winter during the First World War, when Paris’s inhabitants were running very short of coal, Debussy presented this in gratitude to his coal-merchant, quoting fragments of ‘Feux d’artifice’, no doubt the sparks of the fire. In 2001, this piece was rediscovered in a trunk belonging to descendants of that coal-merchant and included by Roy Howat in his edition for Durand and recorded by him on the Tall Poppies label.

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Music professor premieres lost Debussy piece(Coastal Carolina University Magazineより)
http://www.coastal.edu/magazine/fall2004/ofnote.html

Coastal music professor Gary Stegall recently gave the New York and South Carolina premieres of a newly- discovered composition by famed French composer Claude Debussy (1862-1918). The solo piano piece, Les soirs illuminé par l’ardeur du charbon (Evenings lit by the burning coals), was found in an attic trunk belonging to descendants of the Debussy family’s coal merchant, a Mr. Tronquin. A letter written by Debussy in 1917 addressed to Tronquin suggests that the short composition was meant to serve as a gift in thanks for the delivery of coal, which was in short supply in Paris during World War I.
It is believed that the piece was written in February or March 1917, just one year before Debussy’s death, and that it was probably the composer’s final work for piano. Debussy was already suffering from cancer when he composed the piece. After its discovery more than 80 years after Debussy’s death, the work was sold at auction to a Paris collector.
Stegall performed the piece in November 2004 at St. Peter’s Church in Chelsea, New York City, and at Precious Blood Catholic Church in Pawleys Island. Stegall also performed the Asian premieres of the composition in Bangkok and Singapore during a tour earlier this year.
Stegall, a member of the piano faculty at Coastal, has performed around the world, including St. Peter’s Basilica in Rome by special invitation of the Vatican. He is a recording artist for Klavier International/Kalmus.
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