カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

コンサート情報のメモ。

2006-01-31 14:51:26 | Weblog
 メモ。コンサート情報です。

 【東京藝術大学オーボエ専攻の学生さんによる同仁教会演奏会】

 (入場無料)

 日時:2006年2月22日(水)17時半開場/18時開演
 
 会場:同仁キリスト教会(東京メトロ有楽町線「護国寺」駅6番出口より徒歩8分)

 《プログラム》

 第一部:バロック時代に書かれたオーボエ作品。

 第二部:ロマン派から近代フランスのオーボエ作品。

                ☆

 同仁キリスト教会のこと。

 同仁キリスト教会, 〒112-0015 東京都文京区目白台3-10-9, TEL03-3943-1879 FAX03-3943-1882.


                ☆

《躁鬱なのんのん日々:教会》
http://gooh.cocolog-nifty.com/index/cat1428592/index.html
(前略)

 文京区にある同仁キリスト教会の主日礼拝に行ってみた。この教会は日本ではとても珍しいユニヴァーサリストという教派なのです。この教派の教義は私の宗教観に最も近いので、行って見たかったのです。
 受付で「初めてこちらに来ました」というと、聖書と讃美歌集を渡されました。礼拝堂に入って、華美ではないけど落ち着いた美しさのある印象を受けました。
 週報と礼拝プログラムをみると、おお、礼拝でハープ演奏があるんだ!さすが高級住宅地の教会だ。
 ・・・礼拝の感想としては、他のプロテスタントと同じような感じでした。せっかくの教義の良さが出ていない礼拝内容でした。午前11時と朝遅くからの礼拝であるのだけど、礼拝堂の規模に比べて礼拝に出席する人が少ないです。近所にカトリックの東京カテドラルがあるからでしょうか?

(後略)

                ☆

『ユニヴァーサリスト』

 キリスト教の一派で、合理主義的理由で三位一体説を認めず、イエスを「見習うべき最高の弟子」と考えている。教義の面からアリウス派 としばしば比較される。。。そうです。

                *

『アリウス派』

 アレクサンドリアの司祭アリウス(250ごろ~336)によって唱えられたキリスト論に組みする一派。アリウスは,聖父の神性を重視し,〈神のみは始まりをもたずに存在する〉という立場から,聖子キリストは父なる神の被造物である,と聖子の人性を強調した“聖子従属説”を主張し,アレクサンドリア司教アレクサンドロスによって,321年に破門された。そこで有力な教会政治家ニコメディア司教エウセビオスに助けを求めたので,教会全体を巻き込む論争になった。皇帝コンスタンティヌスは調停を試み,325年にニケーア公会議を召集,アリウスとその同調者の破門を決定,アリウスらは追放された。だが彼の死後,皇帝コンスタンティウス2世がアリウス説を信奉したこともあって,教勢は一時むしろ盛んになったが,徐々に正統派に吸収され,4世紀末からは,ゲルマン人のあいだに7世紀まで残存するにすぎなかった。

                *

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
 アリウス派(ありうすは)は、アレキサンドリアの司祭、アレイオス(アリウス、250年頃 - 336年頃)の教説を信奉する古代キリスト教の一派である。

 三位一体を否定し、父なる神と子なるイエス・キリスト、および聖霊は全く異なる(ヘテロウシオス)とする説は一時、東方で支持者を得るがニケア公会議で異端とされた。アリウスの死後、3派に分裂しつつも皇帝コンスタンティウス2世の支持を得るなど勢力を保っていたが、カルケドン公会議で再び異端を宣告された。

 それでもゲルマン人のヴァンダル王国・東ゴート王国などでは強い勢力を持ち、これらの諸王国では正統とされたアタナシウス派が迫害されるほどであった。しかし、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世によってヴァンダル・東ゴートが滅ぼされ、フランク王国のクローヴィスがアタナシウス派に改宗すると、アタナシウス派に押されて勢力としては消滅した。しかしながら少数派として生き延び、イギリスではアイザック・ニュートンがアリウス派であるとされている。アリウス派の一派は教父ウルフィラにより西ゴート人に伝道されている。

 アリウス派の宗教遺構としてラヴェンナのアリウス派洗礼堂およびサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂があり、世界遺産に登録されている。
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勝谷さん。ナムジュン・パイクさん。

2006-01-31 11:43:45 | Weblog
 メモ。

                ☆

 興味深いことを書かれている勝谷さんのサイトのこと。

【さるさる日記-勝谷誠彦の××な日々。】
http://www.diary.ne.jp/user/31174/

                ☆

ナムジュン・パイクさんの
【世界で最も有名なへぼピアニスト
I Am the World's Most Famous Bad Pianist】
http://www.open-air-museum.org/ja/art/collection/arthall/nam_june_paik.htm

                *

《美術家のナムジュン・パイクさん死去》
(2006年01月30日18時27分朝日新聞記事)

(上の画像:在りし日のナムジュン・パイクさん)

 ビデオアートの先駆者として国際的に活躍し、日本とのかかわりも深い韓国生まれの現代美術家、ナムジュン・パイク(白南準)さんが、現地時間の29日夜、米フロリダ州マイアミ市の自宅で死去した。73歳だった。妻はビデオ作家の久保田成子(くぼた・しげこ)さん。

 古いテレビ受像機をロボットのように組み立てた作品や、並べたテレビ画面が目まぐるしく変化する作風で知られ、芸術性と大衆性を併せ持った、現代美術界のカリスマ的存在だった。

 32年、ソウル生まれ。朝鮮戦争を逃れ、50年に家族と日本に移住。東大文学部を卒業後、旧西ドイツに留学して音楽学と作曲を学んだ。

 作曲家ジョン・ケージに影響を受け、弾いたピアノやバイオリンを壊す過激なパフォーマンスを演じ、国際的な前衛芸術集団「フルクサス」にも参加した。63年には初のビデオアート展を西独で開催。翌年にニューヨークに渡って以後は、韓日英仏独語を操りながら世界各国で活動し、古いテレビを使った作風を確立した。

 84年に大規模な個展を東京都美術館で開いたほか、96年に福岡市の再開発ビルに180台のテレビを並べた巨大な作品=写真、96年撮影=を完成させるなど、日本をたびたび訪問。トレードマークの白いダブダブのシャツとサスペンダー、人懐こい笑顔で人気があった。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0130/004.html

                *

「ナムジュン・パイク特集」のサイト
http://www.new-york-art.com/Artist-NJP.htm

《Nam June Paik ナム ジュン パイク - ビデオ・アートの父》

 1932年7月20日生まれ。韓国出身のアメリカのビデオ・アーティスト。 1950年の朝鮮戦争とともに、日本に渡る。 1956年に東京大学・美学美術史学科を卒業。その後西ドイツに渡り、ミュンヘン大学、フライブルグ大学で音楽を学ぶ。この頃ジョン・ケージと知り合い、ヨーロッパを中心に破壊的かつ概念的な音楽活動を行う。 1961年にニューヨークに渡米し、フルクサス・グループのハプニングに参加したり、ロボットの制作したり、TVのモニター画面を磁気で歪曲させた作品などを発表している。当初はTVを物体として扱っていたが、多くの実験を経て、人間の生活と映像の交錯を表現しつづけている。特にたくさんのTVを使ったビデオ・インスタレーションは圧巻である。

 非常にマルチ・タレントなアーティストであり、いくつもの大きな時代を乗り越えながら成長しつづけ、いまだに絶頂期を迎えてないところにその偉大さがある。
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短歌メモから。

2006-01-30 15:10:41 | Weblog
メモ。

<蘭亭叙の「らんてい」いろいろ>

卵亭(らんてい)から弾かれたまごは跳ね起きてすぐに駆け出す たちつてと 河村壽仁
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昨日、今日

2006-01-29 20:26:09 | Weblog
 昨日のことから。

 昨日のN響の定期演奏会の感想を少し書いてみます。

 ステージ上のオーケストラは、対抗配置(第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが、隣り合うのではなくて、指揮者を挟んで向き合う位置に座る形)で演奏していました。その効果が出て(?)、室内楽みたいに、内声部がくっきりと聴こえて、面白かったです。

 昨日のプログラム、ブラームスの2作品、どれも好きな曲でしたが、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第一番のうちでどちらがより好きかと訊かれたら、「交響曲第一番」と答えるかもしれません。

 昔、修学旅行中の生徒さんたちが中国で列車事故に遭遇してしまったというニュースが日本を駆け巡ったことがありました。その頃、私は、カラヤン指揮ベルリンフィルの演奏するこのブラームスの交響曲第一番のテープを繰り返しくりかえし聞き込んでいました。そのため、いまだに、その時耳にした悲劇的なニュースとこの曲の内容とが、どうしても私の中でリンクしてしまいます。。。第1楽章:どこか悲劇の予兆を思わせる音楽。悲劇の旅への出発。第2楽章:束の間の安息。第3楽章:急ぎ足で悲劇が近付いてくる。45小節目からクラリネットが吹く何かを慌しく告げているかのようなパッセージは、まるで悲劇が起こってしまったことを周囲に告げる使者の慟哭の音楽のように聞こえます。。。第4楽章:悲劇で亡くなった人々の魂が天界に上って行く様子を描いた音楽。。。

 ブロムシュテット氏の指揮とN響の演奏は、非常に良くかみ合っていたように思います。月並みな言い方ですが、素晴らしかったです。

 昨日の演奏の中で一番心を打たれた部分はどこかと訊かれたら、ちょっとマニアック(?)かもしれませんが、第4楽章の47小節目から51小節目の、「ピアノ(p)、ドルチェ」の金管コラールの部分を挙げたいです。

 とにかく素晴らしかったです。

                ☆

 今日は、午前中、日本基督教団目白教会の主日礼拝に出かけて賛美歌を思う存分(?)歌い、その後、お昼過ぎから、たまたま看板を見かけて知った、学習院大学・創立百周年記念会館での『学習院ジュニア・オーケストラ 第12回定期演奏会』を聴きました。

 このオケは、世界的バレエ指揮者として著名な学習院OBの福田一雄氏が音楽監督をされていて、メンバは学習院男子、学習院女子中・高等科生徒有志だそうです。

福田一雄氏プロフィール
http://www.kk-video.co.jp/comments/fukuda-makuai/fukuda-index.html

楽器内訳は、

ヴァイオリン:56名
ヴィオラ:18名
チェロ:20名
コントラバス:5名
フルート:26名
オーボエ:2名
クラリネット:20名
ファゴット:1名
トランペット:9名
ホルン:4名
トロンボーン:6名
チューバ:1名
パーカッション:7名
ハープ:2名

 弾くことができるようになったメンバはできるかぎりステージ上に載せる、というのがオケの運営方針(教育方針)だそうです。

 会場に入ってから、ステージ上に所狭しと並べられた椅子と譜面台の多さに圧倒されました。

 いよいよ開演。この巨大で変則的な編成のオケから音が鳴ったときの迫力は凄かったです。このような「巨大」オケからそれなりの音楽をきちんと引き出されていた福田さんは、演奏中終始ニコニコされていましたが、凄いバトンテクニックをお持ちの方なのだなと思いました。

【曲目】

1.ワルツ「金と銀」(レハール作曲)

 曲が始まってまもなくのことでした。コンサートミストレスの子のヴァイオリンの弦が切れてしまって、そうした場合の対処方法を彼女は咄嗟に思い出せないようでした。ステージ上で楽器を膝に乗せたまま途方にくれた風にオロオロキョロキョロしていました。隣りの子も気付かないで弾きつづけていました。指揮の福田さんがその異常事態に気付いて、右手で指揮しながら、左手で「隣りの子のヴァイオリンと交換してもらって、弦の切れたヴァイオリンは順繰りに後ろに回すように」と指示を出して、とりあえず問題解決。聴衆も一様にホッとしました。

2.ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の音楽メドレー(リチャード・ロジャース作曲、ロバート・ラッセル・ベネット編曲)

3.アヴェヴェルムコルプス【フルートアンサンブル版】(モーツァルト作曲)

4.組曲「冬のかがり火」(プロコフィエフ作曲)

5.バレエ音楽「白鳥の湖」より(チャイコフスキー作曲)

 チャイコフスキーの音楽にのせて、福田さんの娘さん(学習院OGでバレリーナだそうです)と学習院の生徒さんがステージ上(ステージの隅)で白鳥の踊りを披露されました。これも素敵でした。

学習院ジュニア・オーケストラ
http://oukai.etc.gakushuin.ac.jp/kyudan/j_orchestra.htm
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今日

2006-01-28 11:51:52 | Weblog
 今日は、渋谷のNHKホールにN響定期を聴きに行ってきます(もちろん学生席です)。ブロムシュテット氏の指揮で、ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調と交響曲第一番ハ短調というプログラムです。

 最近ブラームスやブルックナーなどの音楽が気になっているので、今日のブラームス、すごく楽しみです。
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昨日

2006-01-28 11:17:09 | Weblog
 昨日はモーツァルトの250歳の誕生日だったそうです。

                ☆

 短歌メモから。

ヴァイオリン奏者の腕に抱かれて花束は二丁目の路地を曲がりぬ 河村壽仁

二百五十歳なりその老人はアパルトの窓辺に黄色いハンカチ 河村壽仁

幸せの白いサラダは千切りのキャベツにひたすら松屋のフレンチ 河村壽仁

墓なきは死んでをらぬことかもしれぬ 彼のひとはけふ二百五十歳 河村壽仁
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グラスの蟇(がま)

2006-01-26 21:13:21 | Weblog
 小説家グラスが書いた詩。

 双書・20世紀の詩人・第18巻《ギュンター・グラス詩集(飯吉光夫 編・訳)》(1994年、小沢書店刊)より。

 初めてグラスの《ガス会社》という四行ばかりからなる詩を読んだのはそんなに昔のことではありませんが、そのとき以来、どういうわけかこの詩に出てくる「蟇(がま)」のことが忘れられません。

 メモ。

                *

 〈ガス会社〉  ギュンター・グラス

ぼくらの市(まち)の郊外の
ガスタンクの上に、蟇(がま)が一匹坐ってる。
息を吸ったり吐いたりしている、
ぼくらが炊事できるように。

                ☆

 私は、どういうわけかこういう詩に惹かれます。好きです。
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鮎のこと(メモ)

2006-01-26 13:38:03 | Weblog
 メモです。

《江戸前アユ、多摩川で復活大作戦》
(2006年01月26日01時32分朝日新聞記事)

【上の画像:アユの産卵場づくりに向け、試験的に川の石を洗う漁協組合員ら=05年10月、東京都世田谷区で(東京都提供)】

 多摩川は昔、アユのにおい漂う川だった――。そんな戦前並みの環境を取り戻すため、東京都は漁協や国に呼びかけ、手作業で川底の石を洗って産卵場をつくったり、大きな石を置いてカワウから身を守る隠れ場をつくったりする「過保護」対策を始める。食卓に再び、江戸前アユがのぼる日は。

 多摩川のアユは、かつて「特産品」だった。漁師がアユの群れを川辺からにおいで感じられるほどだったという。それが高度成長期の水質悪化で姿を消した。80年代から回復の兆しが出てきたものの、遡上(そじょう)量は安定せず、アユ釣り場では、大量の他県産のアユを放流しているのが実情だ。

 多摩川のアユは、孵化(ふか)した後、いったん東京湾に出て冬を越す。春先から多摩川をのぼり始め、秋口には再び中下流部に下り、産卵して一生を終える。

 下水道の整備で水質は比較的よくなったが、都会の水は、まだまだアユには住みにくい。

 東京都はまず、漁協と協力して、アユが産卵しやすい場所づくりに着手。卵を産み付ける小石に泥や藻が付着していると卵が流れやすいため、産卵期前の秋口に、中下流部の川底の石をくわを使って手作業でひっくり返す「石洗い」をする。15カ所で計750平方メートルの「産卵場」をつくる計画で、都は「1平方メートルに卵20万粒。生存率0.7%として105万匹帰ってくる」と皮算用する。

 上流部では川底に土砂がたまって水深が浅くなり、空からアユを襲うカワウなどから、身を隠す場所がない。都の試算では、年間6.3トンのアユがカワウの餌食になり、経済被害は2520万円にのぼる。

 そこで、土砂を取り除いたり、巨石を置いたりして「隠れ場」をつくる。06年度は、まずコンピューター上で、治水上問題のない石の置き方をシミュレーションする。

 また、多摩川水系では、40近くの堰(せき)がアユの移動を阻む。それぞれに魚道はあるが、水量の減少で機能していなかったり、手入れが十分とは言い難いものも。魚道の実態を調査した上で、国の協力も得ながらアユが遡上しやすいように改修したり、土砂をどけたりするなどの管理を徹底する。

 さらに、各流域のアユのにおいを分析。下水処理水のにおいがつくのを防ぐため、処理水を川に流す前に地場の間伐材を使った木炭でろかする実験にも乗り出す。

 年間100万匹を超すアユを安定的に多摩川に遡上させるのが都の最終的な目標だ。これだけ過保護にしても、清流を好むアユにとって最も必要なのは、やはり都民の意識改革。都島しょ農林水産総合センターの研究員、小泉正行さん(55)は、「台所の流しが、アユのすみかにつながっているんだと都民に呼びかけていきたい」と話している。

http://www.asahi.com/national/update/0125/TKY200601240429.html
                ☆

 鮎(アユ)のにおいは、「キュウリみたいなスイカみたいな匂い」と言われます。

                *

 「川の中に入らない鮎の友釣り」サイト→第1章「鮎について」
 http://www.asahi-net.or.jp/~tx2h-itbs/ayu/hon/hontop.html

 鮎は実に良い香りがする魚である。養殖鮎ばかりを食べていては分からないと思うが、釣り上げたばかりの鮎はスイカのような匂いがする。川魚には珍しく泥臭さがない。また鮎の友釣りで釣り上げたばかりの姿はきれいなものである。鮎は体の色を大きく変化する。川の様相に合わせて体の色を変化させる。白っぽい石が多ければ全体に白っぽく、黒っぽい石が多ければ全体に黒っぽくなる。鮎は保護色を持っている。鮎は追星といって、体の側面の両側に黄色の大きな斑点を持っている。強烈ななわばりを持った元気な鮎は実にこの黄色の斑点が色あざやかにきれいになる。ヒレ全体もオレンジがかった黄色の色が付き、体全体の色なす姿は実にきれいなものである。この色づいた鮎の姿を見ることのできるのは、鮎の友釣りで釣り上げたばかりの野鮎を見るときだけである。というのもこの釣り上げたばかりの野鮎も、引き舟などの入れ物に入れてしばらくするとたちまちのうちに色あせてくる。心なしか匂いも弱くなるような気がする。

                *

 なぜ鮎が「スイカのような良い香り」を出しているのか、本当に不思議です。。。。
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鈴木秀子さんの『臨死体験ー生命の響き』(大和書房)

2006-01-25 18:15:38 | Weblog
 素敵な本です。

 書名から不思議なことが書かれてある本だと思われるかもしれませんが、この本は、読み終わったときに「読んでよかった」と思える一冊です。

                *

 〈1977年(昭和52年)秋、日本文学研究者の著者に降りかかった小さな事故。関西地方で行われる学会に出席する為、友人のいる奈良市郊外の「善きサマリア人修道会」という修道院に泊めてもらった晩のこと。〉

 (前略)

 その夜は、初めての場所だったせいで、早めにベッドに入ったものの、あまりよく寝つかれず、私はなんとなく夜中に起きだしてしまいました。
 電灯をつけると、遅く帰ってきて眠っているシスターたちに迷惑だろうと思い、暗がりの廊下をそっと歩いていきました。二階の廊下は曲がり廊下になっています。壁伝いに歩きながら曲がり角らしきところまできたところで、私は向こう側に一歩足を踏み出しました。
 ところが、そこには廊下がなかったのです。
 次の瞬間、私は空足(からあし)を踏み、バランスを失いました。廊下の床が曲がったあとも続いていると思ったのに、そこはすでに急な階段の一段目が始まっていたのです。
 恐怖を感じるいとまもなく、私は真っ逆さまに下まで転がり落ち、1階の床に叩きつけられて、そのまま気を失ってしまいました。

 どのくらい時間が経過したかわかりません。時間の感覚そのものがなかったと思います。
 ふと気がつくと、私のからだはまっすぐに立った姿勢で宙に浮かんでいます。そして、空中に浮かんでいる私を、さらに高いところから、もう一人の私が見下ろしているのです。
 空中に浮いた私の足のまわりを、たくさんのタケノコの皮のようなものが覆っていました。それが蓮の花弁だとわかったのは、ずっと後のことです。台湾のある有名なお寺を訪れたとき、仏像の足のまわりがタケノコの皮のようなもので包まれているのを見て、「あっ、これだったのか」と思いました。それは蓮の花びらでできた台座でした。
 そのタケノコの皮のような花びらが、足元から一枚一枚、散っていきます。高いところからそれを見ているもう一人の私は、花びらが散るごとに、自分が一つひとつの苦しみから解放され、自由になっていくのを感じていました。
 一枚落ちると、「ああ、これでもう人の言うことにわずらわされなくてすむ。私は自由になった」と思い、さらにもう一枚落ちると、「もう人に気をつかい、不安に脅かされなくてもすむ。私は自由になった」と、呟いているのです。
 かぎりない解放感と喜びが胸にあふれてきました。
 そして、花びらが最後の一枚になり、これが落ちたら完全な自由になれると思ったとき、最後の一枚は落ちることなく、むしろからだのほうがすっと舞い上がり、その刹那、見ている自分と見られている自分が一体になりました。
 一体になるや、私は一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、それまでに見たことがないような美しい光に包みこまれました。そこは、白っぽい金色の輝きに満ちた、一面の光の世界でした。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。
 それは、生命の深い部分で自分とつながり、交流している、生きている光だと感じていました。
 これこそ至福の境地なのだ。完全な自由なのだー。
 そう感じつつ、不思議なくらい、五感も思考もすべてがいきいきと冴え渡っていました。(中略)
 その冴え渡った意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。
「この生命そのものの光の主に、私はすべてを知り尽くされ、理解され、受け容れられ、許され、完全に愛されている。これこそ、愛の極致なのだ」と。

 (中略)

 しかも、その満たされた光の世界には、時という観念が存在しません。これこそが永遠なのだと私は直感していました。
 心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和しています。
 そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。
「癒してください。癒してください」
 その日本語には、少しつたない感じの独特なアクセントがありました。
 その声が聞こえてきたとき、光であり、生命そのものの主が私に、「現世に帰りなさい」と言いました。それは音声による言葉ではありませんでしたが、そう伝えられたことが私にははっきりと認識できました。
 そして、さらに続けて、次のメッセージを受け取りました。
「現世に戻ったとき、いちばん大切なのは、知ることと愛すること。その二つだけが大切なのだ」
 その瞬間、一時的に意識が戻ったのです。
 気がついたとき、私は奈良の修道院の二階の部屋のベッドに横たわっていました。しかし、その前後の記憶は、もうろうとしてはっきりしません。
 あとから聞かされた話では、私が階段から落ちた大きな音は、眠っていたシスター全員を叩き起こすことになってしまったそうです。

 (後略)

                *

 なにかがきっかけで心が乱れて、おもわず生きていることの価値や意味を見失ってしまったとき、この本に書かれていることが役に立つかもしれません。小さな一冊ですが、そういう不思議な力のある本だと思います。
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昨日

2006-01-25 13:09:00 | Weblog
 昨日は、上野の東京文化会館に、東京都交響楽団の第621回定期演奏会<日本管弦楽の名曲とその源流2>を聴きに出かけました。

http://www.tmso.or.jp/schedule/details/060124.html

プロデュース/別宮貞雄

指揮/湯浅卓雄
チェロ/山崎伸子

【曲目】

芥川也寸志:弦楽のための三楽章「トリプティーク」(1953)
芥川也寸志:チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート(1969)
プロコフィエフ:交響曲第6番 変ホ短調 op.111

プレトーク:別宮貞雄氏が語る「芥川とプロコフィエフ」(18:35~18:50)《聞き手:音楽評論家・奥田佳道氏》

 開場前、チケットを昨日電話予約しておいたので、チケット受け取り窓口に一番目に並んでいたのですが、窓口で係りの人が氏名あいうえお順に予約チケットを入れた封筒を並べているのを何気なく見ていたら、「あ」の一番上の封筒に「芥川」という文字が見えました。もしかしたら芥川さんのご遺族もチケットを買われて聴きに来られているのかな。。。とふと思いました。そういえば「トリプティーク」の第二楽章《子守歌》の優しい美しい旋律は、芥川さんが娘さんの子守歌として作曲されたものらしいです。

                *

 《プレトーク》

 今年、来年、再来年と、都響の1月定期演奏会をプロデュースされる別宮さんは今年84歳。昔、70歳の別宮さんの中央大学最終講義でお見かけしたお姿からするとすこし足が弱られているようでしたが、それでもお元気そうでした。以下は別宮さんが話されたことの大雑把なメモです。文責:河村。

「芥川さんは、日本の作曲家で私(別宮さんのこと)が最初に名前を知った作曲家です。私が東京大学を卒業して作曲家としてデビューした頃、芥川さんはまだ東京音楽学校に在学されていましたが、ちょうど私の親類の隣組に芥川さんの最初の奥さんの実家があって芥川さんがしょっちゅう遊びに来られていて知り合いました。私はそれからまもなく勉強のためにフランスに渡ったので、その後しばらく交流はなかったわけですが、私がフランスから戻ってきてからまた交流するようになりました。私が帰国したちょうどその前年は、芥川さん、團さん、黛さんが<三人の会>を始められた年でした。

 今日の曲目についてですが、私は、芥川さんの作品で一番よいのは<トリプティーク>だと思っていますので、真っ先にこれを入れました。次のチェロのコンチェルトですが、通常のコンサートプログラムでは大体二曲目にコンチェルトを持ってくることが多い。芥川さんの作品ではコンチェルト作品は少ないのですが、このチェロの曲にしようと思いました。これらの二つの作品は作風が全然ちがいます。そうした変化は、芥川さんの芸術的欲求によるもので、興味深いです。

 私は、芥川さんとプロコフィエフには共通しているところが多いと思っています。二人とも、若い頃から都会的でしゃれた旋律の音楽を書いて大成功をおさめています。しかし、そうした成功にもかかわらず彼らはそれに甘んじることなく、常に自己の内面世界に向き合い内面を拡大しようと努力を続けました。自分が成長していくために常に内的欲求に耳を傾け続けた芸術家であったとも言えるでしょう。

 私は、芥川さんはプロコフィエフの音楽から一番影響を受けていると思っています。

 今日の演奏会では、是非、芥川さんの作品における作風の変化ということにも注目して聴いてみてください。」

                *

 湯浅さん指揮&都響とチェロの山崎さんの演奏は、熱気と気品を感じさせる素晴らしいものでした。

 「トリプティーク」では湯浅さんは指揮棒を使わないで振られていました。第一楽章。小気味のいい、「江戸っ子の気風のよさ」を表出しているような演奏。第二楽章。哀しくなるほどにこの上なく美しい演奏。第三楽章。変拍子連続もある激しい楽章なのですが、しめるところをしっかりしめた演奏。

 「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」。山崎さんのチェロの音色は全曲を通して太く豊かに雄渾に鳴っていました。この曲の冒頭部分はなんとなくストラヴィンスキーの「火の鳥」の序奏を思わせるのですが、音が鳴り始めたとたんにホール中に漲った緊張感はすごかったです。それくらいに演奏されている方たちの集中力がすごいのだなと感じられました。途中で、武満さんの曲(「海へ」など)によく出てくる音型がはっきりと聞こえる部分(練習番号32の1~2小節目)があるのですが、そこの演奏もしゃれていて面白かったです。(芥川さんの音楽なのに、妙に武満さんチックに聴こえる面白さと言えるでしょうか。。。)

 「プロコフィエフ:交響曲第6番 変ホ短調 op.111」。指揮者の湯浅さんがこの曲を自家薬籠中のものにしていることがよく伝わってくる素晴らしい演奏でした。とくに終曲の第三楽章の盛り上がりは素晴らしかったです。

                *

 蛇足。

 開演前、ホールの席にひとり座っておられた別宮さんと運良く少しお話しすることができ、さらには、たまたま(?)持参していった別宮さんの「交響曲第一番」のスコアに「S.Bekku 2006」とサインを頂けたことは、当夜のよい記念になりました。
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