石橋氏のこの度の新しい歌集『韻律の海』(角川学芸出版)について。この歌集の中であなたにとっての白眉の一首はどの歌ですか、と、もしも訊かれたら、〈見る前の記憶の海はぬるき闇 母のにほひとこゑにたゆたひ〉(p.37)の一首を挙げるかもしれない。この歌は、タイトルの〈海〉にも通じながら、この歌集の強力な通奏低音として機能しているような気がする。歌集を開くと巻頭の〈もつれあひ触れあひながら降る雪を引き受けてゐる樟の木の洞(うろ)〉(p.1)の一首が目に飛び込んで来るが、この巻頭の歌と通奏低音の歌とは読み進むほどに絡み合って、〈母恋ひ〉というこの歌集の一つのテーマを盛り上げているような気がする。巻頭の歌を見てみよう。〈降る雪〉は作中主体〈娘〉で、〈引き受けてゐる樟の木〉は〈母〉。そして、〈樟の木の洞〉は〈母の懐〉と見える。作中主体の願望、心の思いが美しく昇華された一首で、これが巻頭に置かれた意味は非常に重いと思う。
一本ずつ洗っておりぬ自らのもと前足ともと後ろ足 上澄眠
まだお若い女性である上澄さんの歌風はじつに大らか。凡百の歌人にありがちな湿っぽさがなくて、適度な湿り気を帯びつつ飄々と気っ風よく〈からっと〉詠われていて魅力的。 この一首、魔法にかけられて人になったばかりの主体を詠まれている。面白い。惹かれます。
昔の日記メモから。。メモ。。
2006年3月某日。横浜歌会が町田市成瀬(JR横浜線・成瀬駅下車すぐ)の市民センター会議室であり、出掛けてきました。参加者は12名。先月の歌会には20名以上の参加があったそうで、今月はやや少な目とのことでした。
歌会にはひとり2首、作品を事前に提出します。今回は自由題2首でした。私が提出したのは次のとおり。
たつぷりと鼻糞まるめて弾(はじ)きたる競技をば皇帝の火遊びと言へり
皇帝の生誕記念日 鼓笛手の横に屁ひり手(へひりしゅ)八人並びぬ
今回の私の2首は、あるオリジナルストーリーがもとになっています。愚かな皇帝が主人公のもので、この2首はそれぞれ関連があります。さらに白状してしまいますと、一首目は、実は、河野裕子先生の「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり(歌集『桜森』)」を本歌取りしました。
今回、うれしいことに私の一首目に一票を頂きました。(二首目は〇票でした。。。)
一首目に頂いた批評は次の通りでした。
・「鼻糞」「火遊び」が下品で、評価以前。評価する気にならない。(数名のご意見)
・最近、狂気の皇帝ネロ治世下のローマを描いた映画「クオ・ヴァディス」を観た。その印象が強くあったので、この一首を一読して「皇帝」が映画の「ネロ」の姿におもわず重なった。単なるおかしさよりももっと深いものを感じた。きれいなもの美しいものばかりを詠むのでなくて、汚いものをいかに短歌として詠むかということにも挑戦していくことが大事だと思う。そういう意味でこの一首の姿勢を評価したい。(岡部さんからのご意見)
などなど。
楽しい歌会でした。ご出席の皆様、お疲れ様でした。有難うございました。
仕事から帰ると、ポストに歌誌『塔』2015年5月号が届いていました。
5月号の山下洋先生の一連から、引かせて頂きます。
缶コーヒ手にとぼとぼと街をゆく奴がいたならそいつが俺だ 山下洋
〈缶コーヒ〉。やわらかい関西弁のアクセントに、惹かれます。
昨夜は机の前で寝てしまった。夜中に起きてあらためて布団に寝直し、今朝起きて、原稿用紙に短歌四首を追加で書き付けた。今朝の一首。
死んでゐる虻を窓から捨ててゐるあなたも昨夜の死者かもしれぬ