カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

頭丸め記念日

2007-08-31 19:00:37 | Weblog
 今日は、いつも行っている池袋の安くて早い理髪店で、頭を三分刈りにしてもらいました。京都へは三分刈りで行って、向こうで最後つるつるに仕上げてもらう段取りです。俵さんがサラダ記念日のうたを詠まれたように、頭を丸めた記念にうたを一首、と思いましたが、ちょっと難しいかもしれません。
 それにしても、短髪は、すごくさっぱりしてよいです。快適爽快この上ないです。おすすめの髪型(?)です。
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鈴虫寺のこと(メモ)

2007-08-31 14:21:47 | Weblog
 メモです。

(以下、引用させて頂きます)

鈴虫寺(妙徳山華厳寺)/京都府京都市西京区松室地家31195
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsu79/drive/suzumushi/

わらじを履いたお地蔵さんのいる鈴虫寺です。
お寺の石段を上がった山門脇にお地蔵さんはいらっしゃいます。ひとりについてお願い事をひとつかなえてくれるといわれています。
参拝すると200人ほど入れる部屋に上げられて、お茶とお菓子のおもてなしを受け、お坊さんのお話を聞くことができます。なかなかおもしろいお話が聞けます。
連休中はいつも参拝待ちの列ができます。お坊さんも「連休は混むので、平日にお越しいただくのが良い」とおっしゃってました。

拝観料:大人・・・500円
設備:駐車場・・・あり、トイレ・・・あり
アクセス:阪急嵐山線松尾駅から徒歩15分。京都駅や嵐山駅からバスも出ています。

*****

妙徳山華厳寺(鈴虫寺) 願いがかなう幸福御守
http://suzumushidera.blog54.fc2.com/

鈴虫寺の幸福御守、願いが叶うことで有名です。全国から、お参りにこられる方が後を絶ちません。
鈴虫寺の幸福御守、願い事はひとつだけ。
「幸福地蔵さん」の前で、両手で御守の「幸」の文字が見えるようにはさみます。
そしてそのままの状態で、名前と住所を言って、願い事をひとつだけ祈ります。そうすると、願いが叶うそうです。
分不相応の願い事や、他人の不幸を願うことは禁物です。
一つの御守りで、一つの願い・・・。鈴虫寺で願いを叶えてみませんか?

*****

鈴虫寺の公式サイト
http://www.suzutera.or.jp/

*****

鈴虫寺(華厳寺けごんじ)参詣記 2002.1
http://homepage1.nifty.com/okk3/dayori32.htm#suzutera

京都・洛西の人気寺 妙徳山・華厳寺は「鈴虫寺」として有名です。江戸中期の享保8年(1723)に創建され、明治初年に臨済宗のお寺になりました。どんな願いごとでもかなえてくださる、珍しいワラジを履いた幸福を呼ぶお地蔵さまと、1年中清らかな鳴き声を聴かせてくれる鈴虫で知られます。境内からは東山36峰、京都の町を望み、日本庭園には三角、四角竹もあります。
秋だけ鳴くはずの鈴虫が季節に関係なく、30年間も鳴き続けている秘密は? 鈴虫の寿命はわずか110日。鳴くのは最後の20日です。住職は鈴虫の妙音で開眼しました。そこで特殊な飼育法を28年間かけて研究し、毎日孵化させながら、これを順番に出演させているのだそうです。鈴虫寺の名称はこの鈴虫からきています。
鈴虫寺の山門わきに幸福地蔵さまがあります。フランスのコウノトリのように幸福を運んでくださるお地蔵さま。ワラジを履いたお地蔵さまが祈願者のおうちまで願いごとをかなえに歩いて来てくださるということです。
鈴虫寺にお参りするには? 阪急・桂駅で嵐山線に乗り換え、松尾駅で下車します。松尾大社前を南に下ったあと、緩やかなのぼり道を進んで、最後に80段の石段を登ったところが鈴虫寺。松尾駅から徒歩15分くらいです。拝観料500円を納めて、200人は入る座敷でお茶と鈴虫寺特製のお菓子をいただきながらお坊さんの説法を聴きます。名説法だったものですから、1人のお話が終わった後、別のお坊さんのも聴いてしまいました。もちろん、「幸福御守」1つ300円も家族の数だけ購入し、お地蔵さまの前で自分のお願いごとをしました。座敷では真冬というのに、リーン、リーンと鈴虫がじつに清らかな鳴き声を響かせていました。
帰りのバスの中で、さっきまで神妙に説法を聴いてた女の子が、「しまった、順番間違えてお願いしちゃった」と話してるのを聞いて、「しまった、お願いの前に、住所・氏名言うの忘れてた! わらじ履いた地蔵さまが道に迷っておうちに来てくれないよ~」。走り始めたバスの中からあわてて方向を見定め、「住所・氏名」を叫んだのですが・・・阪急電車に乗って説明書を読み直したところ、「住所-氏名の順じゃなくて、氏名-住所の順番? またまたしまった」ということで、自宅に着いてから、あらためて願いごとをし直す羽目になってしまいました。
リーン、リーンというあの清く澄みきった鈴虫の音色――いまでも耳に焼き付いています。すがすがしい気持ちになりますね。参拝者の90%は若い女の子でした。40~50人づつ相手に、途切れることなく説法は続いていました。☆
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今朝の夢。

2007-08-31 09:41:57 | Weblog
 今朝の夢。最初はどこかでサッカーの国際親善試合(?)を見ていたようなのですが、途中からどこか知らない歯科医院で大掛かりな治療を受けている場面になり(歯の中のかなり奥に詰めた脱脂綿を取り出す歯科医の「だいぶ出血していますねえ」という台詞が耳に残っています)、最後は、

あぶさろむ あぶさろむ 飛鳥のみほとけは見届けたり 数限りなく降るマリンスノーのしづもり

と朗詠する太くやわらかい声が天上から降ってくる場面で終わりました。

 夢を見ていたときはなんとなく一貫したストーリー性があるような気がしていましたが、いまこうして内容を書き出してみるとかなりはちゃめちゃですね。。。
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ブルーな紙切れに関するぼやき

2007-08-30 12:32:09 | Weblog
 先日職場で受けた定期健康診断結果が送られてきた。いちばん表の「総括」のところに「要再検査」の文字。ショック。値を見ると、軒並み「不健康なために死亡する危険性あり」の方にだいぶ針が触れているような気がする。学生に戻ってだいぶ健康になったはずなのだが、まだまだ適正値までは遠いということかもしれない。このまま死んだら憾みを遺すことになる。冗談ではない。まだ死ねない。音楽の作曲も途中だし、構想20年ものの大長編小説も私が原稿用紙に書きとどめなければ誰も知らないままになってしまう。私が此の世でやらなければいけないことはまだまだたくさん残っている。とにかく、地道に健康にならなくては。。。
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メモ2題

2007-08-30 08:38:10 | Weblog
 新潮社の季刊誌『考える人』(2007年夏号)からメモ2題です。。。

 その1。

 チェロ奏者ビルスマさんの言葉から。

(前略)バッハの時代とはちがって、現代の演奏家はバッハの楽譜を詳細に勉強して演奏するかと思えば、その次にはストラヴィンスキーやプロコフィエフを弾かなくてはならない。でもやはり私は、一人の作曲家に集中して、その作曲家にいいと思われる方法を探り当て、その音楽にきちんと向き合って演奏をしなければいけないのではないかと思うのです。もうひとつの問題は、音楽家としてやっていると、どうしても演奏の中に自分というものを入れたくなってくることですね。しかし、音楽というものは、作曲した人がその曲の演奏のいちばんいい方法を知っているはずで、だから、心静かに楽譜と向き合い、そこへ近づいていくべきなんです。(後略)

 その2。

 作家・堀江敏幸氏の「言葉を指揮するひと――バーンスタイン」より。

 (前略)
 音楽家として、教育者として、バーンスタインが伝えようとしていることは単純明快である。1954年11月に音楽教育番組『オムニバス』で放映された「ベートーヴェンの《交響曲第五番》」で、彼は指揮者用の総譜の最初の頁を示しながら、こう語っている。「僕はこのオーケストラの楽譜を見るたびに、その簡潔さ、力強さ、正確さに驚嘆しないわけにはいられません。この音楽には全然無駄がない! すなわち、第一楽章の全体が最初の四個の音符から直接展開された小節から成り立っているのです。/(楽譜)/ひとつの交響曲の楽章すべてをそこから生み出すことができるような、豊かで含蓄の深い音符とは、いったいどんなものか? 三個のト音と一個の変ホ音、それだけなのです」
 あまりに簡素な四つの音の連なりに、これまで様々な意味が、さまざまな物語が付されてきた。森で耳にした小鳥のさえずり、運命が扉を叩く音、《ヨハネの黙示録》に出てくるような最後の審判を下す管楽器の音。私たちはいまだにこうした解釈を流用し、音を飾り立ててやまない。感情を言い表すおびただしい形容詞が付され、増幅され続けている。「しかし、こういう解釈は僕たちに何も教えてくれません。本当の意味は、それに続くあらゆる音符、つまりこの第一楽章を作り上げている500小節に出てくる音符全体にあるのです」
 (後略)
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タゴールの『ギータンジャリ』

2007-08-29 23:31:31 | Weblog
 惹かれます。以下、メモです。

   ☆☆☆

 神々が星々を創造された日。星たちはみなその最初の輝きで煌めいていた。
 神のひとりが突然叫んだ、「おや、この星たちの鎖には欠けているところがある。星がひとつなくなってしまったようだ」と。
 すると、神々のハープの黄金の弦はぷちんと切れ、神々の歌声は途絶え、神々は恐怖に駆られて叫んだ、「そうだ、失われたのはいちばん美しい星であった。それはすべての天の栄光であったのだ」と。
 神々はこの日から休むことなくこのなくなった星を探し始めた。星をなくした嘆きは、ひとりからひとりへと伝えられていった。あの星をなくしたことで世界はただひとつの歓びを失ってしまったのだ、と。
 けれども、夜の深い静けさの中で、星たちは微笑んで、互いにささやきあう、「この探索はむなしいことだ! 破れなき完全がいたるところにあるではないか!」と。

 タゴールの『ギータンジャリ』から
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光と闇の同居

2007-08-29 21:34:22 | Weblog
 高瀬さんのうたから、メモです。

太陽のひかりをあびてもわたくしは まだくらやみに立ちつくすなり  高瀬一誌

 71歳で亡くなった高瀬さんの絶詠となった作品だそうです。

 惹かれる一首です。
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夜天・その2

2007-08-28 15:30:19 | Weblog
 今晩の皆既月食は、天気が好ければ、午後6時52分から午後8時22分までの90分間、見られるようです。

 話は変わりますが、田中先生の遺歌集『海峡の光』の<鳥取砂丘>の一連にある次の一首は、不思議な味わいがあると思います。

遠く来し砂丘の果てに厄除けの杭打ちいしか遠藤周作  田中栄

 敬虔なカソリック信徒であった作家の遠藤氏が、非キリスト教的な「厄除け」の杭を鳥取砂丘の果てに打つということが、はたして事実としてあったのかどうか、私にはわかりません。ここでは、杭と鳥取砂丘と遠藤氏について、徒然なるままに綴ってみたいと思います。
 まず、「杭」です。ここでの「杭」とは、イエスがゴルゴダの丘で架けられた十字架の「杭」のことをそれとなく象徴しているのかもしれません。イエスの杭には、人類のすべての罪を背負って、という意味があったと思います。しかし、遠藤氏の杭は「厄除けの杭」であったか、というのが田中先生のこのうたです。その裏には深い思いがありそうです。
 つぎに、遠藤氏と鳥取とのつながりに関してです。生前の氏は古城好きで知られ、城跡探訪エッセイ集を刊行されているほどです。その中には、鳥取城跡を訪ねて綴られたエッセイもあり、そこに、氏の父系が鳥取池田藩御殿医(御典医)遠藤家の血筋であったという記述が見られることから、氏の精神の奥深くには浅からず鳥取とのご縁を感じられていたのではないかと推測されます。
 田中先生は恐らく、それらすべてを踏まえ了知されたうえで、遠藤氏の名前を詠みこんだこの一首をものされたような気がしてなりません。

 惹かれる一首です。
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夜天

2007-08-28 08:56:35 | Weblog
 ひとりひとりの生活には、今更言うまでもなくその人や周りのひとにとってのかけがえのない時間や詩が流れています。短歌の身辺詠とは、本来そうしたかけがえのないきらきらした時間や詩からすくい上げられたものだと思います。だから、素材自体けっして面白くなかろうはずがないのですが、残念ながら、場面の切り取り方や表現が稚(おさ)なすぎるために、なんとも凡庸で退屈きわまりない身辺詠が世の中に多く出回ってしまっているのも事実のようです。短歌を詠もうではなくて軽く詩を作ろうぐらいの意識で臨むのがちょうどよいのかもしれません。以上、自戒と反省を込めて綴ってみました。

 今夜は満月で、晴れていれば皆既月食が見られるようです。


 岩木氏の俳句作品からメモです。

味噌釜を干す白鳥の来る夜天  岩木安清

 惹かれます。
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岡井さんの歌

2007-08-27 20:35:39 | Weblog
 短歌を始めたばかりの頃は、なんとなく読む前から難解な作品と思い込んで遠ざけていた岡井さんの歌集。ですが、最近はしみじみ面白いと思えるようになりました。なにか、味覚の変化というようなものかもしれません。ポケットに短歌新聞社文庫の岡井さんの歌集『禁忌と好色』を突っ込んで歩くことも近頃では珍しくなくなりました。とはいえ、かつて、河野裕子先生ご自身から「うたは独自の個性を伸ばすことが大事。そんな人真似訓練は愚かだからやめなさい」と注意されるまでの一時期ひそかに励行していた、河野先生の歌集『ひるがほ』(短歌新聞社文庫)を鉛筆と紙と一緒にいつもポケットに突っ込んで、暇な時間ができるとその適当なページを開いて、先生のうたのことばの一部から自分のうたを作るというような短歌脳トレ(?)は、岡井さんの歌集ではやっていません。自重しています。。以下、岡井さんのうたから引かせて頂きます。


()内は詞書。

(羊のいない聖書と同様、馬のいない中世の風景は考えられない、とある人はいった。なるほど天馬ペガサスはガソリンを配っている。)
つばさある汽車をゑがきて指うごくみづがねのそら父と子のうへに  岡井隆


(「男の児なんだろ、君は。」と何度いわれたことだろう。)
雨傘をはらりひろげて逢はむとす天はほのかに杉にほひたる  岡井隆
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