瀧廉太郎のドイツ留学時代の住所変遷について。
2009年に和歌山大学教育学部泉健先生がお書きになった論文『藤代禎輔(素人)の生涯ー瀧廉太郎、玉井喜作との接点を中心にー』(和歌山大学教育学部紀要、人文科学、巻60)
http://repository.center.wakayama-u.ac.jp/1627
から、瀧廉太郎のドイツ留学時代の住所変遷に関する興味深い論述をメモさせて頂きます。。
以下、引用。
〈はじめに〉
この10年余り、“Ost=Asien”というドイツ語の月刊雑誌を基にして、19世紀末から20世紀初頭のベルリンにおける音楽生活の様相を研究している(泉健 2001、2002、2003、2004a、2004b、2005、2006、2007、2008、2009)。
(中略)
〈②瀧廉太郎のベルリンでの20日間〉
瀧がベルリンに到着したのは、1901年(明治34)5月18日であった。従来瀧の伝記では、彼はべルリン到着の日にはホテル・ベレヴューに1泊し、すぐにノルレンドルフ通り1番地の下宿に移ったと書かれてきた(小長久子 1968:194-197、松本正著・大分県立先哲史料館編 1995:219-221)。確かに5月18日付の鈴木毅一宛の絵葉書の住所はホテル・ベレヴューとなっているし、また5月20日付の杉浦親子宛の絵葉書の住所はノルレンドルフ通り1番地となっている。さらに5月22日付の瀧民子宛の絵葉書の住所も、ノルレンドルフ通りと書かれている(大分県教育庁文化課 1994:131-132,166-167)。ところが“Ost=Asien”を調べてみると、ベルリン時代の瀧の住所はノルレンドルフ通り1番地ではなく、ノイエ・ヴィンターフェルト通り56aと記されているのである。“Ost=Asien”には「ドイツにおける日本人」という住所録の頁がある。瀧の名前が登場するのは通巻№39(1901年6月号)からで、そこには彼の住所のみが、べルリンの項に「ノイエ・ヴィンターフェル ト 通 り56a」(Japaner in Deutschland 1901a:101)と記されている。瀧はべルリンには20日間しか滞在せず、6月7日には音楽院に入学するためにライプツィヒに着いている。次の№40号(1901年7月号)の住所録では、すでにライプツィヒの項に、彼のことが「音楽教師、フェルディナント・ローデ通り7番地」と記されている(Japaner in Deutschland 1901b:150)。現在のべルリン市内の地図には、ノイエ・ヴィンターフェルト通りという名称は見つからない。「ノイエ」の付かないヴィンターフェルト通りは、ノルレンドルフ通りの一つ南の通りに存在する。いずれも、旧西ベルリンのクーダム通りを象徴するカイザー・ヴィルヘルム記念教会から東南に1.3㎞ほど行ったあたりである。現在のヴィンターフェルト通りが、もし当時ノイエ・ヴィンターフェルト通りと呼ばれていたとすれば、この「ノイエ・ヴィンターフェルト通り56a」とは、当初引っ越すつもりで『Ost=Asien』の編集部(玉井喜作)にこの住所を連絡したが、付近に行ってみて気が変わり、一つ北のノルレンドルフ通りに決めた、ということなのであろうか。あるいは、わずか3週間足らずの滞在にもかかわらず、1度下宿を変えたのであろうか。この点は現在不詳である。(後略)
短歌メモから、五首。
ライプツィヒ桶屋組合謹製瀧廉太郎下宿の嗽用水桶
明治三十六年六月二十九日午後五時。その日は月曜日であつた由
明治三十六年は一九〇三年。一一八年前の昨日が命日
大分市稲荷町三三九番地の庭に焚き火の煙立ちぬ 焼(く)べられてゆく数多(あまた)の紙束
ライプツィヒ桶屋組合親方仕事場のまあたらしき嗽用水桶
アーサー・M・エーブル (Arthur M. Abell)著、吉田幸弘訳の『大作曲家が語る 音楽の創造と霊感』の中で、ブラームスの言葉として綴られている内容について、巷間では〈あれはアーベル氏の全くの創作である。書かれていることがブラームスの宗教観とあまりにも違いすぎ、信用に値しない。〉などの意見もあるらしいが、私は、ひそかに、あのブラームスのことばは充分信用に値する内容ではないかと思っている。というのも、だいぶ昔のことになるが、小学校三年の頃、どういうわけか、晩年のブラームスのからだに自分が入り込んでコンサートへ出掛けた夢を見、ブラームスの音楽への純粋な思いを垣間見たことがあるからだ。コンサートホールの座席に座ったブラームスは、自分が譜面に書き留めた音楽がオーケストラによって美しく素晴らしく感動的に演奏されるのを聴きながら、天の音楽の女神ミューズが自分を器としてたくさんの聴衆の心に触れる素晴らしい音楽を降ろしてくださったことへのひたすらな感謝と純粋な至福の思いに満たされていた。ブラームスの心の中には、自分が世間に名を残したいとかお金持ちになりたいとかの気持ちがまったく見当たらなかった。そのことが、夢から覚めても非常に印象深く記憶に残った。アーベル氏の本に出会ったのは大人になってからだが、読みながら、あのときのブラームスの思いが鮮やかに蘇ってきた。そして、あれは嘘ではなかった、とあらためて思った。
今回、歌会に出した歌は以下。素材はフィクション。連作にしてみようかなというかそかでささやかな構想がちょびっと湧いてきている。
ライプツィヒ桶屋組合謹製滝廉太郎下宿の嗽用水桶
以下、wikipedia記事「青山與三右衛門信昌(加賀藩士青山家祖青山吉次の父)」中の項目「資料」の記述より。
1987年に作家堤清二氏が母親操(旧姓青山)の実家の古文書を解読した折り、そこに、信昌を與三右衛門の弟とする記述があった由。すなわち、
青山與三右衛門(天文16年(1547年)9月22日討死)……織田信秀(信長の父)に仕えた信長の補佐をした。
青山與三左衛門信昌(大永6年(1526年)〜永禄7年(1564年))38歳没……與三右衛門の弟。織田軍記四家老の一人で信秀と信長に仕えた。稲葉山にて戦死。
(なお、この古文書を所有していた青山家は、江戸時代に別家から養子を迎えたため信昌の血縁ではなくなっていたが、信長の家老の名が與三左衛門信昌であったと代々口伝していた由。また、この青山家は江戸時代には蜂須賀家に仕えていた。)
じつは、青山家と我が家も遠くで繋がっているらしい。すなわち、青山吉次と山崎長徳娘の次男のさらにその次男が山崎家へ戻って山崎権丞家を興し、その山崎権丞の何代目かが曾々々祖父の父親の父親になるようだ。そもそもは、十何代遡れば何千人もの先祖が数えられるわけだから、堤さんとも遠くで繋がろうとも珍しくもなんともない話だが。。。
間奏曲。