興味深い記事から、、、以下、メモさせていただきます。
《安徳天皇陵墓参考地》(鞠ヶ奈呂陵墓参考地)<画像>
http://www3.ocn.ne.jp/~kanko12/0001yoko.htm
明治初年、高知県越知村戸長として赴任した佐川村の川添亥平が、村人を伴い、伝承の天皇陵墓の所在を探索し、鞠ヶ奈呂陵墓と思われる所を発見。明治16年(1883)宮内省より、陵墓見込地であるので、保護に留意するようにとの通達を受け、同18年(1885)陵墓領域5町8反5畝3歩(約5.8ha)が確定されました。立木とともに宮内省の管轄となって、祭祀、清掃等の経費が支出され、陵墓伝説地と称することになり、さらに、昭和元年(1926)、陵墓参考地になりました。陵墓は、原生の大小古木が生い茂る中、苔むした石段100余段を上った所にあり、昭和52年(1977)に宮内庁が改築。石材で二重の玉垣を巡らしています。
***
《安徳天皇 横倉山 御潜幸物語》
http://www3.ocn.ne.jp/~kanko12/antoku.htm
横倉山に眠る安徳帝
神秘の山、越知・横倉山には安徳天皇の御陵があります。
源平の乱を逃れた安徳帝、この横倉山が終焉の地となったわけですが、帝がここに至る経緯は涙なしには語れません。
平家と源氏の戦いを描いた『平家物語』は、その冒頭で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、聖者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」と記しています。人の世のはかなさ無常感は、世の常とはいえ、この源平の乱に巻き込まれ、悲運のうちに短い生涯を終えた安徳帝こそは、最も悲劇の天皇だったといえます。
安徳天皇御即位
安徳天皇は、わが国第八十一代の天皇。第八十代高倉天皇の第一皇子として、治承二年(1178)に生まれました。母は当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの平清盛の娘徳子、後の「建礼門院」です。
誕生の折には祝いの牛車が六波羅の館を七重八重に取り巻き、歓声が都大路に響きわたりました。とくに祖父の平清盛の喜びようはひとしおで、彼のきもいりで、弱冠三歳で天皇の位につかれました。
思えば、安徳帝の悲運はこのときにはじまったといえましょう。
「新帝今年三歳、あはれ、いつしかなる譲位かなと、時の人々申あはれけり」と『平家物語』にも記されています。
「奢る平家は久しからず」さしも唯我独尊の権威を誇った平家の運命も、新帝即位を境として衰えはじめ、源氏が打竹の勢いで台頭してきたのです。
悲しい都落ち
源氏が台頭するなか、平清盛は熱病におかされ「源頼朝の首をわが墓に供えよ」と遺言して世を去りました。
壽永二年(1183)、源氏の軍勢が都を包囲。平宗盛は都を逃げ出し、西奔の途につきます。このとき平家は自分たちの拠り所として安徳帝を連れ出すのです。
午前六時に出立するというあわただしさで、三種の神器をもって都落ちしたわけですが、このとき帝はまだ六歳。ことの成り行きを知るはずもなく、遠くへ楽しい行幸でもするかのようにはしゃがれていたといわれます。
『平家物語』にも、そのもようがつぎのように描かれています。
「卯刻ばかりに既に行幸の御こしよせたりかれば、主上は今年六歳、いまだいとけなうましませば、なに心もなうめされけり。国母建礼門院御同興にまいらせ給ふ。内侍所、神璽、宝剣わたし奉る。『印鑰、時札、玄上、鈴かなどもとり具せよ』と平大納言下知せられけれども、あまりにあはてさはいでとりおとす物ぞおほかりける」と。
源平決戦前夜の脱出劇
安徳帝は、壇ノ浦の決戦で入水自殺したとうわさされ、そのうわさをもとに『平家物語』でも、安徳帝の入水を書いて帝の最期としていますが、しかしこれには裏があります。
壇ノ浦での源平最後の決戦を迎える前夜のこと。平家は四国屋島に結集、安徳帝は屋島の行宮にいました。負け戦は目に見えていたときです。土壇場にきて、平家の重臣たちの心ある者から、安徳帝を平家の道連れにさせてはならないという声があがりました。
「何とかしなくては」と策を練っていたおりもおり、平家の味方をして忠誠を誓っていた阿波山城山の豪族田口成良が、千人の軍を率いて屋島に馳せ参じました。
重臣たちとこの田口成良が、帝の脱出劇を計ったのです。すなわち田口成良は、平家の運命これまでと見切りをつけ、源氏に寝返るとみせかけ自軍の中にひそかに安徳帝をまぎらせて、山城山に引き返す。このとき平家の方には安徳帝の身代りを残しました。
このあと、壇ノ浦での源平最後の決戦は予想通り平家の完敗となり、ついには平家は滅亡しました。
三種の神器の行方
間一髪で安徳帝は一命をとりとめたわけですが、この脱出劇はやがて源氏に見破られます。
安徳帝の父方の祖父後白河法皇は、平家一門の横暴を怒って、源氏に平家追討を命じた当人です。平家に連れ出されている安徳帝のことを案じて、「どんなことがあっても帝を無事に都に連れもどすように。また三種の神器をもとに持ち帰るように」と源義経に命じていたのです。
三種の神器は、それを持つ者が天皇と認められる三つの神器のことです。一つは天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、一つは八咫鏡(やたのかがみ)、いま一つは八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三つ。
壇ノ浦の合戦のとき、鏡は天皇の乗る御座船に残されており、勾玉は波間に漂っていたのを引き上げて、後白河法皇のもとに届けられましたが、安徳帝の骸(なきがら)と天叢雲剣はついに発見することができませんでした。
この宝剣は、のちに横倉山の「平家穴」から発見され、現在の楠神の里の宝物庫に祀られている「十握の宝剣」がそれではないか、といわれています。
ところで、この三種の神器の宝剣と骸の不明によって、帝は四国に逃げ込んだにちがいないと、源氏の追手が迫ってくることになります。
利発な色白の帝
阿波山城山に落ちのびた安徳帝は、御年八歳でした。屋島から脱出前に、母建礼門院とのお別れのときには、母君に抱かれて泣きじゃくっていた帝も、山城山にきてからは、自分の立場をしっかりとわきまえられ、母君のことは一言も口にしませんでした。
ましてや、「都に帰りたい」とは決して言いません。
その一途なけなげさが、帝の身近に仕える従臣や尼僧たちの涙をよけいさそいました。
帝のお姿は、黒々とした御髪を左右に束ねて両耳あたりまで垂らし、顔は眉目秀麗、色白で気品がありました。帝の姿がそこにあるだけで、周りが照りかがやき、逆に重臣たちの心が慰められたといいます。
しかし、山城山での帝の生活は二ヶ月で打ち切られることになりました。なぜなら、平家ゆかりの人びとが都で捕らえられ、幼い子まで根絶やしに処刑されているといううわさとともに、源氏が新帝を立て、安徳帝を追跡する追っては四国路へ入ったとの確かな情報がもたらされたからです。
帝の四国路での逃避行がはじまりました。
苦難の逃避行
「もしも安徳帝が源氏の手に渡れば、すでに新帝を擁している源氏は帝のお命を奪うだろう」と話し合った従臣たちは、帝をより安全な場所に移すことになり、山城山をあとにします。田口成良も、「どこまでも君のお供をさせていただきまする」と城を捨て、三百余の供の一行に加わりました。
敵の目をあざむくためには、村人の目を避けねばなりません。夜間、山城山を出た一行は、人里離れた険しい四国山地へ分け入って行きます。道なき道を行くのです。
都育ちの帝にとって、この行軍はたいへんこたえたようです。一行は東祖谷山に到達し、ここにしばらく留まりました。祖谷はいまも現代の神秘といわれる険しい山岳地帯。しかしここも危なくなり、次へ移ることになりました。
「尼よ、われをこのさきいずの地へ倶してゆかんとするぞ。もうイヤじゃ。」
帝のはじめての弱音でした。よほど行軍がこたえていたからでしょう。この帝のお言葉から、ソヤ(祖谷)と呼ばれていたこの地がイヤと呼ばれるようになったと伝えられます。
偽墓と飢餓の岩窟
祖谷を出立した一行は、土佐国上韮生村(かみにろうむら)の西熊山にしばらく御潜在になり、その後、在所村に移りました。
ここでは一計を案じて、源氏の追跡を断つため帝がここで崩御されたことにして、偽りの御陵を造りました。
その後、吉野川沿いに、森村、平家平、本川村などを転々としたあと、稲叢山を越えて大森川流域の礫ヶ滝までたどりつきました。
滝の下にある岩窟は、身を隠すにはいい場所でしたが、冬場で、何百人もの食料を手に入れることができず、従臣のうち五十八人を餓死で失いました。
残された人びとは、泣く泣く川石を集め、滝に近い大森山山頂に「五十八人社」という塚を立ててその霊を弔いました。
ここでは、今でも五十八人社へ、平家の印であった赤旗を供える風習が残っています。
椿山でのあやしき旅僧
帝はその後、安全な場所を求めて、池川郷椿山にたどりつきました。国王山山頂の洞窟を御在所として住みつくことになりましたが、ここは天然の要害ともいえるところでした。
従者はこのとき最初は三百余人がわずかに八十余人に減っていました。いま「王人の跡」と呼ばれているところに行宮を造営し、従者の邸も建てました。今日、地名として残っているガジヤガ谷、コマトヂ、ユバ(弓場)、バンバ(飯場)、上ヤシキ、下ヤシキなどの地名はその名残りです。
ある日の昼すぎ、弓場にいた滝本軸之進のもとへ、若い旅僧が訪ねてきました。誰知るはずもない地、旅僧は唯者ならぬ目であたりを見回しながら、「この山里の谷川で水を飲んでいると、川上より立派な椀が流れてきたので、不思議に思ったのです。それで獣道をたどってここまできたのですが、やはり都人が世を忍んでいられる様子ですね」と言います。そして、鋭い一瞥を国王山行宮に放つと、名前も告げずに立ち去りました。平素、風の音にも神経をとがらしている軸之進は、「さてはあやしい。源氏の密偵では・・・」
軸之進は、刀をたずさえると急ぎ、あやしい旅僧の後を追いました。そして不飲ヶ谷の悲劇が起こります。この地には、旅僧の魂を弔うために、「氏仏堂」が建てられています。
御嶽山、横倉山へ
この事件後、帝は一行とともに峰伝いに西へ、奥名野川から別府郷高瀬に向かいました。この道筋は急斜面が多く、従臣が帝の手を引かれた場所として「手引(ていき)」の地名が残っています。
高瀬から別枝へ着いた一行はここの地頭や豪族に守られてしばらく潜幸していましたが、より安全な場所を探します。
平知盛は別枝の豪族西森甚助のすすめで、地元の人が御嶽山と呼ぶ「横倉山」へ調査に出向きました。そして、こここそが要害の地と悟ったのです。
加えて、横倉霊場の修験者別府真義坊義秀、清泉坊親康は、「われらも帝をお迎えし、生命をかけてお守りしよう」と固い約束をしたのでした。
帝の一行は、こうしていよいよ最後の安住の地となった越知・横倉山に行宮を構えることになりました。
蹴鞠場も設けて
文治三年(1187)八月、帝は八十余人の従臣とともに、横倉山山頂に建てられた行宮へ移りました。
屋島を出てすでに二年の逃亡潜幸生活が続き、帝は十歳になっていました。
横倉山は神秘の山で、巍々たる山容は、東の嶽、中の嶽、西の嶽の三嶽からなり、昔から「三嶽山」とも呼ばれています。
千古この原生林に覆われた要害の地。壷中の小天地であって、山青く、水清く、世を忍ぶには究竟の場所でした。そこに建てられた行宮は、温かい里人や豪族の援助もあって、これまでの潜幸地の中で一番立派な行宮でした。
「天の高市」と呼ばれる杉原神社前には、従臣の住む二十五軒の住居も建てられました。いま「平家穴」とよばれる近くの洞窟は、まさかの場合の隠れ場所にするとともに、槍や薙刀などの武器庫としました。
やつれた帝の顔に、ふくらみと笑顔が戻ったのは、ここへきてからのことでした。
行宮に落ち着いた帝のために、都と同じく、規模は小さいながら蹴鞠場、練馬場、弓練場もおいおいに設けられました。
帝は蹴鞠がことのほか好きで、その上達もめざましく、三日にあけず蹴鞠遊戯を楽しまれました。
山鳩色の御衣で元服
十五歳で元服したのもこの行宮でした。天皇しか召すことができない山鳩色の御衣を召し、御髪は上に束ね、黒い冠を載いた姿は、幾多の苦難をかいくぐってきた帝だけに、たいへん凛々しく、惚れぼれする姿たっだと語り伝えられています。
あるとき帝はシ尼僧に、不意にこんなことを口にしました。「尼やそちは都が恋しゅうないか」と。尼僧は胸ふさがるおもいで、「いいえ、ちっとも。帝のおそばにいられますもの。でも帝は都がさぞ恋しゅうございましょう」と言うと、「恋しゅうないといえば嘘になる。だが世には時節というものがあろう。春にはうぐいすが鳴くように、必ずその日がやってこうよう。そちも望を捨てずに待つことじゃ」 大人びた言葉の奥に、帝の底知れぬ深い悲しみを見たといいます。
水よく舟を浮かべる日まで
正月には、四国山地の各地に散在する平家の落人たちが、姿を変えてひそかに行宮をおとないました。
平家の重臣だった坂東太郎経繁は、源平の乱のあと、高吾北地方に逃れ、この地の豪族に手厚く迎えられていました。彼は平家再興を三嶽大権現に祈願しつづけている一人でした。帝の横倉山御潜幸を喜び、毎年正月には、平家の赤旗をひそかに持って行宮に馳せ参じていました。
行宮では、ほそぼそながら、宮中での新年儀式がおごそかに執り行われました。帝は山鳩色の御衣を召し、冠を載いた正装で、並いる従臣たちを前に言葉をかけました。
「荀子の王制論に、こんな言葉がある。君は舟、庶民は水、水よく舟を浮かべ、水また舟をくつがえすと。今は舟がくつがえったときといえよう。しかし、やがてまた水よく舟を浮かべるときがやってこよう。その日までお互いに力を合わせようぞ」
これを聞いた経繁の胸は、打ちふるえたといいます。経繁はその後、高吾北地方の支配者となった片岡氏の祖先といわれ、このときの万感の思いを子々孫々に語り継いでいます。
無念の崩御
帝は、毎朝近くの畝火山に登り、東に向かって神武天皇を遥拝し、都への復帰を祈願しました。最後まで希望を捨てなかった帝でしたが、長年の山暮しはやがて帝の体をむしばみ、病床に伏せる身となりました。従臣たちは八方に手をつくし、神仏祈願して水垢離までしましたが、その甲斐なくついにおかくれになりました。
宝算二十三歳という無念の崩御でした。
帝の遺体は、帝がありし日に蹴鞠を楽しんだ「鞠ヶ奈路」に奉葬されました。残された従臣たちは、その後一人として山を下りる者がなく、死ぬまで陵盛をしました。そして、一人、また一人と御陵のそばの墳墓となり、死してなお御陵を見守りつづけ、今日に至っています。
帝の遺跡をを今に伝えて
まるで帝の召された山鳩色の御衣のような、紫のかすみたなびく霊峰横倉山は、いまも安徳帝の史跡を抱いたまま、千古の面影を伝える。
苔むした帝の御陵や、それをとり巻く七十余基の従臣たちの墳墓、平家の守護神を祀る杉原神社、三種の神器の一つと目される宝刀が出土した「平家穴」。供御水を汲んだ「安徳水」(日本の名水百選)など、これらの史跡に接するとき、七百五十余年昔の安徳帝の悲運がひしひしと胸を打つ。
帝の御陵は、歴代天皇の御陵と同型のもので、昭和元年、安徳天皇御陵参考地として国から指定を受け、高知県下唯一の宮内庁所管地として陵墓守が置かれ祭祀料も下賜されている。
横倉山は県立自然公園にも指定。秋にはコスモスの花が咲き乱れ、そのけなげな花弁は、この地に倒れた悲運の安徳帝をしのばせている。
(以上本文作成:土佐文雄氏)越知町商工会発行パンフレットより。