カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

再アップ記事(茄子の短歌)

2008-04-30 12:30:17 | Weblog
 メモ。再アップします。。。

2007年8月25日の日記より:茄子と死・その2
http://blog.goo.ne.jp/be-toven/e/f88da0aa51992aadff7ebaf39e935296

 先日、堂園さんと吉川さんのうたを一首ずつ引いて「茄子と死」という日記を少し書き付けました。その追記です。

<前回の日記から>
 短歌研究新人賞候補作の欄に目を移すと、作者名に知っている方の名前がちらほら散見され、これまた興味深いです。。候補作のなかから、堂園さんの『やがて秋茄子へと到る』の一首を引かせて頂きます。茄子と死が素材として詠まれていて私の目を引きました。

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは  堂園昌彦

 茄子と死。吉川宏志さんの第二歌集『夜光』(2000年刊行)に、次のような一首があります。

死ぬことを考えながら人は死ぬ茄子の花咲くしずかな日照り  吉川宏志

 堂園さんの一首は、吉川さんの一首を踏まえたものなのか、あるいはそうではないのか、その辺りのことはわかりませんが、茄子と死、これらふたつの関連がふたりの歌人に詠まれたということが興味深いです。

<以下は今回の日記>
 吉川さんの「死ぬことを考えながら人は死ぬ茄子の花咲くしずかな日照り」のうたは、歌集『夜光』の中の「茄子の花」というタイトルの一連にあります。このうたの前には、

朝の蝉 安藤美保の事故死せし比叡の見ゆる町に暮らしつ  吉川宏志

の一首が置かれています。安藤さんは、大学院の夏の研究旅行で比良山を登山中、不慮の転落事故で亡くなられたのでしたが、まだ二十代前半というお年でした。亡くなられた後に遺歌集として歌集『水の粒子』が編まれました。とにかくうたをはじめとして文学に関する才能とセンスの非常に豊かな方だったようです。吉川さんの一首の「死ぬことを考えながら人は死ぬ」のセンテンスには、頭を強打して意識不明のまま亡くなられた安藤さんへの追悼の思いがつよく込められているように感じられます。

 ***

<2008年4月30日の日記>

 あらためて、堂園さんの秋茄子のうたを鑑賞してみたいと思います。

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは  堂園昌彦

 日ごろから茄子を使った料理が大好物の私は、「いつの季節でも茄子は大層美味」と思っている口ですが、世間では古来より「秋茄子は嫁に食わすな」という言い習わしがあるほど(注1)、秋の茄子の実はことに充実していて美味しいと言われています。 それだけに、堂園さんのうたの「秋茄子」は、「生命力の横溢」の象徴としてのとくべつな「秋茄子」なのではないかと思います。そんな丸々と実った茄子を両手に持って秋の日差しに当てて光らせながら、作中主体は、こんなに生命力にあふれている茄子であり僕たちなのに、死んでしまうのはなぜだろう? と立ち止まって考えています。普通に生きていると、私たちは自分が今この瞬間にも死んでしまうかもしれない儚い存在のひとつであることをついつい忘れてしまいがちですが、思いがけないところで「死」を思い出すと、そのあまりの深さと暗さに思わず立ち止まってしまいます。

 堂園さんのうたは、そんな「死ぬ」という事実をあらためて読み手に突きつけてきます。

 惹かれる一首です。

(注1)出典:Wikipedia「ナス」より。
この言葉は「秋茄子わささの糟に漬けまぜて 嫁には呉れじ棚に置くとも(夫木和歌抄)」という歌が元になっており、嫁を憎む姑の心境を示しているという説がある。
また、「茄子は性寒利、多食すれば必ず腹痛下痢す。女人はよく子宮を傷ふ(養生訓)」などから、嫁の体を案じた言葉だという説もある。
さらに、そもそも「嫁には呉れじ」の「嫁」とは「嫁が君(ネズミのこと)」の略であり、それを嫁・姑の「嫁」と解するのは後世に生じた誤解であるとする説がある(『広辞苑』第三版、「あきなすび」の項)。しかし「嫁が君」は正月三が日に出てくるネズミを忌んで言う言葉であり、「秋茄子わささの~」の解としては(季節が合わず)やや疑問ではある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

周防さんのシナリオ

2008-04-29 21:48:40 | Weblog
 最近の私の日常は、隣家の犬のはなちゃんの眼から見ると、決まった道をほぼ決まった時間に自転車で往復しているだけのように見えているかもしれません。しかし、それぞれの一日の濃さは、なかなかのものです。今日も、朝からお寺のお手伝いをさせて頂きましたが、いろいろなことがあり、考えさせられました。 それはともかく、『周防正行シナリオ作品集』(シナリオ・2008年5月号別冊)の173ページは興味深いです。

(前略)
放送委員「東、杉本君。西、青木君」
  青木がガチガチに緊張して土俵にあがる。
熊田「結局ここまでか」
  諦めの溜息が応援団から洩れる。
スマイリー「レッツゴー青木!」
  祈るような気持ちで見つめる秋平達。
  青木、蹲踞の姿勢で震えていた、と思うといきなり立ち上がって尻を押さえる。
熊田「バカ野郎、またゲリピーだ」
  青木、なんとか堪えると審判に促されて土俵中央へ。
  ところが再び襲うゲリピーの嵐。
  しかし頑張る青木。
  青木がなんとか両手をつくと、相手が突っ込んできた。
  その瞬間ケツを押さえた青木がゲリピーを押さえる為に、垂直に立ち上がる。
  すると頭から突っ込んできた相手のアゴの下に青木の頭がアッパーカットの様に決まってしまった。
林 「勝負あった」
  土俵の上にのびている北東学院の選手。
  唖然としている青木。
秋平「やった!! 初めて勝った!!」
  青木、尻を押さえたまま勝ち名乗りを受けた。
  我に返った青木は尻を押さえてトイレに走る。
熊田「(嬉しそうに)最後まで情けねー野郎だ」
放送委員「只今の勝負腰くだけ、腰くだけで、西、青木君の勝ち」
(後略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鞠ヶ奈呂陵墓

2008-04-28 12:29:30 | Weblog
 興味深い記事から、、、以下、メモさせていただきます。

《安徳天皇陵墓参考地》(鞠ヶ奈呂陵墓参考地)<画像>
http://www3.ocn.ne.jp/~kanko12/0001yoko.htm

 明治初年、高知県越知村戸長として赴任した佐川村の川添亥平が、村人を伴い、伝承の天皇陵墓の所在を探索し、鞠ヶ奈呂陵墓と思われる所を発見。明治16年(1883)宮内省より、陵墓見込地であるので、保護に留意するようにとの通達を受け、同18年(1885)陵墓領域5町8反5畝3歩(約5.8ha)が確定されました。立木とともに宮内省の管轄となって、祭祀、清掃等の経費が支出され、陵墓伝説地と称することになり、さらに、昭和元年(1926)、陵墓参考地になりました。陵墓は、原生の大小古木が生い茂る中、苔むした石段100余段を上った所にあり、昭和52年(1977)に宮内庁が改築。石材で二重の玉垣を巡らしています。

 ***

《安徳天皇 横倉山 御潜幸物語》
http://www3.ocn.ne.jp/~kanko12/antoku.htm

横倉山に眠る安徳帝
 神秘の山、越知・横倉山には安徳天皇の御陵があります。
 源平の乱を逃れた安徳帝、この横倉山が終焉の地となったわけですが、帝がここに至る経緯は涙なしには語れません。
 平家と源氏の戦いを描いた『平家物語』は、その冒頭で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、聖者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」と記しています。人の世のはかなさ無常感は、世の常とはいえ、この源平の乱に巻き込まれ、悲運のうちに短い生涯を終えた安徳帝こそは、最も悲劇の天皇だったといえます。

安徳天皇御即位
 安徳天皇は、わが国第八十一代の天皇。第八十代高倉天皇の第一皇子として、治承二年(1178)に生まれました。母は当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの平清盛の娘徳子、後の「建礼門院」です。
 誕生の折には祝いの牛車が六波羅の館を七重八重に取り巻き、歓声が都大路に響きわたりました。とくに祖父の平清盛の喜びようはひとしおで、彼のきもいりで、弱冠三歳で天皇の位につかれました。
 思えば、安徳帝の悲運はこのときにはじまったといえましょう。
「新帝今年三歳、あはれ、いつしかなる譲位かなと、時の人々申あはれけり」と『平家物語』にも記されています。
「奢る平家は久しからず」さしも唯我独尊の権威を誇った平家の運命も、新帝即位を境として衰えはじめ、源氏が打竹の勢いで台頭してきたのです。

悲しい都落ち
 源氏が台頭するなか、平清盛は熱病におかされ「源頼朝の首をわが墓に供えよ」と遺言して世を去りました。
 壽永二年(1183)、源氏の軍勢が都を包囲。平宗盛は都を逃げ出し、西奔の途につきます。このとき平家は自分たちの拠り所として安徳帝を連れ出すのです。
 午前六時に出立するというあわただしさで、三種の神器をもって都落ちしたわけですが、このとき帝はまだ六歳。ことの成り行きを知るはずもなく、遠くへ楽しい行幸でもするかのようにはしゃがれていたといわれます。
『平家物語』にも、そのもようがつぎのように描かれています。
「卯刻ばかりに既に行幸の御こしよせたりかれば、主上は今年六歳、いまだいとけなうましませば、なに心もなうめされけり。国母建礼門院御同興にまいらせ給ふ。内侍所、神璽、宝剣わたし奉る。『印鑰、時札、玄上、鈴かなどもとり具せよ』と平大納言下知せられけれども、あまりにあはてさはいでとりおとす物ぞおほかりける」と。

源平決戦前夜の脱出劇
 安徳帝は、壇ノ浦の決戦で入水自殺したとうわさされ、そのうわさをもとに『平家物語』でも、安徳帝の入水を書いて帝の最期としていますが、しかしこれには裏があります。
 壇ノ浦での源平最後の決戦を迎える前夜のこと。平家は四国屋島に結集、安徳帝は屋島の行宮にいました。負け戦は目に見えていたときです。土壇場にきて、平家の重臣たちの心ある者から、安徳帝を平家の道連れにさせてはならないという声があがりました。
「何とかしなくては」と策を練っていたおりもおり、平家の味方をして忠誠を誓っていた阿波山城山の豪族田口成良が、千人の軍を率いて屋島に馳せ参じました。
 重臣たちとこの田口成良が、帝の脱出劇を計ったのです。すなわち田口成良は、平家の運命これまでと見切りをつけ、源氏に寝返るとみせかけ自軍の中にひそかに安徳帝をまぎらせて、山城山に引き返す。このとき平家の方には安徳帝の身代りを残しました。
 このあと、壇ノ浦での源平最後の決戦は予想通り平家の完敗となり、ついには平家は滅亡しました。

三種の神器の行方
 間一髪で安徳帝は一命をとりとめたわけですが、この脱出劇はやがて源氏に見破られます。
 安徳帝の父方の祖父後白河法皇は、平家一門の横暴を怒って、源氏に平家追討を命じた当人です。平家に連れ出されている安徳帝のことを案じて、「どんなことがあっても帝を無事に都に連れもどすように。また三種の神器をもとに持ち帰るように」と源義経に命じていたのです。
 三種の神器は、それを持つ者が天皇と認められる三つの神器のことです。一つは天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、一つは八咫鏡(やたのかがみ)、いま一つは八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三つ。
 壇ノ浦の合戦のとき、鏡は天皇の乗る御座船に残されており、勾玉は波間に漂っていたのを引き上げて、後白河法皇のもとに届けられましたが、安徳帝の骸(なきがら)と天叢雲剣はついに発見することができませんでした。
 この宝剣は、のちに横倉山の「平家穴」から発見され、現在の楠神の里の宝物庫に祀られている「十握の宝剣」がそれではないか、といわれています。
 ところで、この三種の神器の宝剣と骸の不明によって、帝は四国に逃げ込んだにちがいないと、源氏の追手が迫ってくることになります。

利発な色白の帝
 阿波山城山に落ちのびた安徳帝は、御年八歳でした。屋島から脱出前に、母建礼門院とのお別れのときには、母君に抱かれて泣きじゃくっていた帝も、山城山にきてからは、自分の立場をしっかりとわきまえられ、母君のことは一言も口にしませんでした。
 ましてや、「都に帰りたい」とは決して言いません。
 その一途なけなげさが、帝の身近に仕える従臣や尼僧たちの涙をよけいさそいました。
 帝のお姿は、黒々とした御髪を左右に束ねて両耳あたりまで垂らし、顔は眉目秀麗、色白で気品がありました。帝の姿がそこにあるだけで、周りが照りかがやき、逆に重臣たちの心が慰められたといいます。
 しかし、山城山での帝の生活は二ヶ月で打ち切られることになりました。なぜなら、平家ゆかりの人びとが都で捕らえられ、幼い子まで根絶やしに処刑されているといううわさとともに、源氏が新帝を立て、安徳帝を追跡する追っては四国路へ入ったとの確かな情報がもたらされたからです。
 帝の四国路での逃避行がはじまりました。

苦難の逃避行
 「もしも安徳帝が源氏の手に渡れば、すでに新帝を擁している源氏は帝のお命を奪うだろう」と話し合った従臣たちは、帝をより安全な場所に移すことになり、山城山をあとにします。田口成良も、「どこまでも君のお供をさせていただきまする」と城を捨て、三百余の供の一行に加わりました。
 敵の目をあざむくためには、村人の目を避けねばなりません。夜間、山城山を出た一行は、人里離れた険しい四国山地へ分け入って行きます。道なき道を行くのです。
 都育ちの帝にとって、この行軍はたいへんこたえたようです。一行は東祖谷山に到達し、ここにしばらく留まりました。祖谷はいまも現代の神秘といわれる険しい山岳地帯。しかしここも危なくなり、次へ移ることになりました。
 「尼よ、われをこのさきいずの地へ倶してゆかんとするぞ。もうイヤじゃ。」
 帝のはじめての弱音でした。よほど行軍がこたえていたからでしょう。この帝のお言葉から、ソヤ(祖谷)と呼ばれていたこの地がイヤと呼ばれるようになったと伝えられます。

偽墓と飢餓の岩窟
 祖谷を出立した一行は、土佐国上韮生村(かみにろうむら)の西熊山にしばらく御潜在になり、その後、在所村に移りました。
 ここでは一計を案じて、源氏の追跡を断つため帝がここで崩御されたことにして、偽りの御陵を造りました。
 その後、吉野川沿いに、森村、平家平、本川村などを転々としたあと、稲叢山を越えて大森川流域の礫ヶ滝までたどりつきました。
 滝の下にある岩窟は、身を隠すにはいい場所でしたが、冬場で、何百人もの食料を手に入れることができず、従臣のうち五十八人を餓死で失いました。
 残された人びとは、泣く泣く川石を集め、滝に近い大森山山頂に「五十八人社」という塚を立ててその霊を弔いました。
 ここでは、今でも五十八人社へ、平家の印であった赤旗を供える風習が残っています。

椿山でのあやしき旅僧
 帝はその後、安全な場所を求めて、池川郷椿山にたどりつきました。国王山山頂の洞窟を御在所として住みつくことになりましたが、ここは天然の要害ともいえるところでした。
 従者はこのとき最初は三百余人がわずかに八十余人に減っていました。いま「王人の跡」と呼ばれているところに行宮を造営し、従者の邸も建てました。今日、地名として残っているガジヤガ谷、コマトヂ、ユバ(弓場)、バンバ(飯場)、上ヤシキ、下ヤシキなどの地名はその名残りです。
 ある日の昼すぎ、弓場にいた滝本軸之進のもとへ、若い旅僧が訪ねてきました。誰知るはずもない地、旅僧は唯者ならぬ目であたりを見回しながら、「この山里の谷川で水を飲んでいると、川上より立派な椀が流れてきたので、不思議に思ったのです。それで獣道をたどってここまできたのですが、やはり都人が世を忍んでいられる様子ですね」と言います。そして、鋭い一瞥を国王山行宮に放つと、名前も告げずに立ち去りました。平素、風の音にも神経をとがらしている軸之進は、「さてはあやしい。源氏の密偵では・・・」
 軸之進は、刀をたずさえると急ぎ、あやしい旅僧の後を追いました。そして不飲ヶ谷の悲劇が起こります。この地には、旅僧の魂を弔うために、「氏仏堂」が建てられています。

御嶽山、横倉山へ
 この事件後、帝は一行とともに峰伝いに西へ、奥名野川から別府郷高瀬に向かいました。この道筋は急斜面が多く、従臣が帝の手を引かれた場所として「手引(ていき)」の地名が残っています。
 高瀬から別枝へ着いた一行はここの地頭や豪族に守られてしばらく潜幸していましたが、より安全な場所を探します。
 平知盛は別枝の豪族西森甚助のすすめで、地元の人が御嶽山と呼ぶ「横倉山」へ調査に出向きました。そして、こここそが要害の地と悟ったのです。
 加えて、横倉霊場の修験者別府真義坊義秀、清泉坊親康は、「われらも帝をお迎えし、生命をかけてお守りしよう」と固い約束をしたのでした。
 帝の一行は、こうしていよいよ最後の安住の地となった越知・横倉山に行宮を構えることになりました。

蹴鞠場も設けて
 文治三年(1187)八月、帝は八十余人の従臣とともに、横倉山山頂に建てられた行宮へ移りました。
 屋島を出てすでに二年の逃亡潜幸生活が続き、帝は十歳になっていました。
 横倉山は神秘の山で、巍々たる山容は、東の嶽、中の嶽、西の嶽の三嶽からなり、昔から「三嶽山」とも呼ばれています。
 千古この原生林に覆われた要害の地。壷中の小天地であって、山青く、水清く、世を忍ぶには究竟の場所でした。そこに建てられた行宮は、温かい里人や豪族の援助もあって、これまでの潜幸地の中で一番立派な行宮でした。
「天の高市」と呼ばれる杉原神社前には、従臣の住む二十五軒の住居も建てられました。いま「平家穴」とよばれる近くの洞窟は、まさかの場合の隠れ場所にするとともに、槍や薙刀などの武器庫としました。
 やつれた帝の顔に、ふくらみと笑顔が戻ったのは、ここへきてからのことでした。
 行宮に落ち着いた帝のために、都と同じく、規模は小さいながら蹴鞠場、練馬場、弓練場もおいおいに設けられました。
 帝は蹴鞠がことのほか好きで、その上達もめざましく、三日にあけず蹴鞠遊戯を楽しまれました。

山鳩色の御衣で元服
 十五歳で元服したのもこの行宮でした。天皇しか召すことができない山鳩色の御衣を召し、御髪は上に束ね、黒い冠を載いた姿は、幾多の苦難をかいくぐってきた帝だけに、たいへん凛々しく、惚れぼれする姿たっだと語り伝えられています。
 あるとき帝はシ尼僧に、不意にこんなことを口にしました。「尼やそちは都が恋しゅうないか」と。尼僧は胸ふさがるおもいで、「いいえ、ちっとも。帝のおそばにいられますもの。でも帝は都がさぞ恋しゅうございましょう」と言うと、「恋しゅうないといえば嘘になる。だが世には時節というものがあろう。春にはうぐいすが鳴くように、必ずその日がやってこうよう。そちも望を捨てずに待つことじゃ」 大人びた言葉の奥に、帝の底知れぬ深い悲しみを見たといいます。

水よく舟を浮かべる日まで
 正月には、四国山地の各地に散在する平家の落人たちが、姿を変えてひそかに行宮をおとないました。
 平家の重臣だった坂東太郎経繁は、源平の乱のあと、高吾北地方に逃れ、この地の豪族に手厚く迎えられていました。彼は平家再興を三嶽大権現に祈願しつづけている一人でした。帝の横倉山御潜幸を喜び、毎年正月には、平家の赤旗をひそかに持って行宮に馳せ参じていました。
 行宮では、ほそぼそながら、宮中での新年儀式がおごそかに執り行われました。帝は山鳩色の御衣を召し、冠を載いた正装で、並いる従臣たちを前に言葉をかけました。
「荀子の王制論に、こんな言葉がある。君は舟、庶民は水、水よく舟を浮かべ、水また舟をくつがえすと。今は舟がくつがえったときといえよう。しかし、やがてまた水よく舟を浮かべるときがやってこよう。その日までお互いに力を合わせようぞ」
 これを聞いた経繁の胸は、打ちふるえたといいます。経繁はその後、高吾北地方の支配者となった片岡氏の祖先といわれ、このときの万感の思いを子々孫々に語り継いでいます。

無念の崩御
 帝は、毎朝近くの畝火山に登り、東に向かって神武天皇を遥拝し、都への復帰を祈願しました。最後まで希望を捨てなかった帝でしたが、長年の山暮しはやがて帝の体をむしばみ、病床に伏せる身となりました。従臣たちは八方に手をつくし、神仏祈願して水垢離までしましたが、その甲斐なくついにおかくれになりました。
 宝算二十三歳という無念の崩御でした。
 帝の遺体は、帝がありし日に蹴鞠を楽しんだ「鞠ヶ奈路」に奉葬されました。残された従臣たちは、その後一人として山を下りる者がなく、死ぬまで陵盛をしました。そして、一人、また一人と御陵のそばの墳墓となり、死してなお御陵を見守りつづけ、今日に至っています。

帝の遺跡をを今に伝えて
 まるで帝の召された山鳩色の御衣のような、紫のかすみたなびく霊峰横倉山は、いまも安徳帝の史跡を抱いたまま、千古の面影を伝える。
 苔むした帝の御陵や、それをとり巻く七十余基の従臣たちの墳墓、平家の守護神を祀る杉原神社、三種の神器の一つと目される宝刀が出土した「平家穴」。供御水を汲んだ「安徳水」(日本の名水百選)など、これらの史跡に接するとき、七百五十余年昔の安徳帝の悲運がひしひしと胸を打つ。
 帝の御陵は、歴代天皇の御陵と同型のもので、昭和元年、安徳天皇御陵参考地として国から指定を受け、高知県下唯一の宮内庁所管地として陵墓守が置かれ祭祀料も下賜されている。
 横倉山は県立自然公園にも指定。秋にはコスモスの花が咲き乱れ、そのけなげな花弁は、この地に倒れた悲運の安徳帝をしのばせている。
(以上本文作成:土佐文雄氏)越知町商工会発行パンフレットより。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジンギスカンキャラメル

2008-04-27 20:38:33 | Weblog
昔、一粒百メートルというキャラメルがありましたが、これなどは、案外、一粒二百メートルぐらい行かれるのかもしれません!?でも、私にとっては見ているだけで十分な気もします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々に夢のメモ

2008-04-27 06:16:49 | Weblog
 一見、飫肥(おび)に似ているけれども二文字めがちがう、飫帯(おび)という名前の城下町。城跡にできた、町を代表する立派なパン工場。地震でパン工場も被害を受ける。工場の設計を担当した東方の三博士が呼ばれる。「寒肥え(さごえ)を施せば大丈夫でしょう」ということになる。パン工場の親方と町のチンピラとの喧嘩。チンピラの墓が作られる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤治郎先生の作品による勉強会(メモ)

2008-04-26 19:35:27 | Weblog

 昨晩は、学校の短歌会部室で恒例の短歌勉強会がありました。きのうのテーマ作品は、加藤治郎先生のふたつの歌集「サニー・サイド・アップ」と「マイ・ロマンサー」。司会・レポーターは、現代短歌のなかでは加藤先生の作品がいちばん好きだというモチヅキ君。。ニューウェーブとはなんぞや、ライトバースってなに、を絡めつつ、2歌集から抄出した36首を鑑賞しました。「加藤先生の作品には、男らしくない男の視点が特徴的」などの意見が出ました。そんな勉強会で私が感じたこと、気付いた(?)ことの雑駁なメモです。。

抽斗(ひきだし)に硫黄のにおいして母よちいさき瓶に錠剤の鳴る  加藤治郎(「サニー・サイド・アップ」所収)

勉強会資料の第一首。これは、寺山修司氏の「そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット」を踏まえた作品ではないかと思いました。「硫黄」から、なんとなく戦争のこと(硫黄島のことなど)を想起させるような気もするのですが。。

もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに  加藤治郎(「サニー・サイド・アップ」所収)

有名な性愛のうたとして知られた一首。小野茂樹氏の「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」 を踏まえているのではないかとふと思いました。「くせに」という甘い語尾も、小野さんの作品にあったようななかったような。。。まだ確認していません。。

たれの子も産める体のかなしさに螢光に照る葡萄をほぐす  加藤治郎(「サニー・サイド・アップ」所収)

この一首の「かなしさ」は、河野裕子先生の、たとえば「産むことも生まれしこともかなしみのひとつ涯とし夜の灯り消す」(「ひるがほ」所収)を踏まえているのではないかと思いました。なんとなく、河野先生の作品のモチーフ「母と子」(おんなうたのモチーフ?)を、加藤先生は意図的に「女男」に詠み換えられているのかもしれません。 。「葡萄」は、春日井建氏の「童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり」(「未青年」所収)や、岡井隆氏の「掌(て)のなかへ降(ふ)る精液の迅(はや)きかなアレキサンドリア種の曙に」(「蒼穹の蜜」所収)にあるように、男性性のメタファとして利いているような気がします。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水晶ドクロ譚

2008-04-25 12:28:17 | Weblog
 興味深いです。。。

画像:パリのケ・ブランリ美術館が所蔵する水晶ドクロ(クリスタル・スカル)(ケ・ブランリ美術館提供)(朝日新聞記事より)

《インディもびっくり 水晶ドクロは19世紀独製》
(2008年04月24日22時42分朝日新聞記事)

 【パリ=国末憲人記者】中米マヤ、アステカ文明の遺物といわれる水晶ドクロ(クリスタル・スカル)をテーマに、日本でも公開される映画「インディ・ジョーンズ」シリーズの新作「クリスタル・スカルの王国」の封切りを記念して、パリの国立ケ・ブランリ美術館は5月から、所蔵する水晶ドクロを展示する。ただ、所蔵品は調査の結果、19世紀のドイツ製の偽物と判明。関係者を驚かせている。
 水晶ドクロは、実物大の人間の頭蓋骨(ずがいこつ)の形に水晶を削ったもの。同館によると、世界で12個確認されている。同館所蔵の水晶ドクロは高さ11センチ、重さ2.5キロの透明水晶製。アステカ王国の神話で死の世界を支配する神「ミクトランテクトリ」を体現したものと言い伝えられ、同館の前身の博物館に19世紀、冒険家から寄贈された。
 しかし、同館が昨年研究機関に依頼した調査で、表面に機械を使用した跡が判明。ブラジル産の石を使って1867~86年にドイツ南部の工房で制作されたとの結論となった。同館は展示で、その経緯も含めて紹介する。
 水晶ドクロについては「手で磨くと制作に300年かかる」「全部で13個あり、2012年に集めないと世界が滅亡する」などの伝説、迷信がある。映画は、神秘の力を持つ水晶ドクロを巡り主人公のインディ博士とソ連軍が戦う物語という。
 ケ・ブランリ美術館は、アジア、アフリカ、中南米などの非西洋文明に光を当てる美術館としてシラク前大統領が建設を推進。06年にセーヌ河岸に開館した。水晶ドクロの公開は5月20日~9月7日。ドクロをモチーフとしたアフリカやニューギニアの作品も同時に展示する。映画は、日本で6月21日から全国でロードショー公開される。

http://www.asahi.com/culture/update/0424/TKY200804240257.html

 +++

超常現象の謎解き・《Crystal Skull 水晶ドクロ》
http://www.nazotoki.com/crystal_skull.html

(伝説)
1927年、探検家のフレデリック・アルバート・ミッチェル・ヘッジスと養女のアンナは、マヤ文明の遺跡を発掘していた。ちょうどアンナの17歳の誕生日、ルバアンタンという滅び去った町の廃墟にあった祭壇の下で、何か光り輝くものが埋まっているのをアンナが発見した。掘り起こしてみると、それは水晶で作られた人間の頭蓋骨だった。アンナは1970年代後半、この水晶ドクロを「ヒューレッド・パッカード社」へ分析を依頼。結果は、頭蓋骨と下アゴは1つの同じ水晶から作られており、工具を使った形跡は全く見つからなかった。同社の社内誌『メジャー』では、工具なしでこの水晶ドクロを作った場合、300年はかかると見積もられた。まさに、オーパーツ(場違いな人工物)と呼ぶにふさわしいものである。さらにアメリカ先住民の伝説によれは、世界には全部で13個の水晶ドクロが存在し、それらが全て集まったとき、「人類の起源、目的、運命に関する情報、そして生命と人類の謎への解答」を知ることができ、世界は救われるのだという。アンナの水晶ドクロも、この伝説の13個のドクロのうちの1つと言われており、近い将来すべての水晶ドクロが集められ、人類が大いなる叡智を手に入れる日もそう遠くはない。
(謎解き)
アンナ・ミッチェル・ヘッジスの水晶ドクロといえば、現在確認されている水晶ドクロの中でも、群を抜いて精巧であることで有名だ。しかし、伝説で言われている肝心の発見談というのが、実はかなり怪しいのだ。以下で詳しくみてみよう。
まず根本的なことだが、アンナは発掘の現場に本当に居たのか? という疑問がある。というのも、ヘッジス一行が探検の際に撮った写真がいくつも残っているのだが、その中にアンナが写っている写真が一枚もないのだ。さらに、大発見であるはずの水晶ドクロの写真も一枚もない。
また、探検の主要メンバーのひとりであったトーマス・ガン博士が、1931年に『マヤの歴史』という本を出版しているが、その中にアンナ・ミッチェル・ヘッジスの名前はもちろん、水晶ドクロに関する記述も一切ない。
さらに、ルバアンタンで発掘調査を行い、この遺跡の全貌を解説した本を出版したノーマン・ハモンド博士も、「あらゆる文書記録を見るかぎり、歴然としているのですが、彼女がルバアンタン現地に行ったというのは絶対にありえないことなのです」と言い切っている。
極めつけは、アンナが水晶ドクロを発見したのは1927年、自分の17歳の誕生日の当日だと語っているが、ヘッジス一行は1926年にイギリスに帰国していたことがわかっているのだ。17歳の誕生日にはイギリスに戻っていたというのに、ルバアンタンでどうやって「発見」したというのだろう。
アンナが語っている発見談が、極めて疑わしいものだということは上で紹介したとおりだが、水晶ドクロが実在していることは確かである。
では、ルバアンタンで発見していないとすれば、水晶ドクロは一体どこで手に入れたのだろうか?
これについて、超常現象調査の専門家であるジョー・ニッケルが詳しく調べている。ニッケルによれば、水晶ドクロの来歴は次のようであるという。
1943年、シドニー・バーニーという美術商が、問題の水晶ドクロをロンドンのサザビーズに競売に出した。しかし彼は、希望していた価格では売れなかったので、自己落札して買い戻してしまった。その後、1944年にミッチェル・ヘッジスが400ポンドで水晶ドクロを買い取った。このことはロンドン美術館の記録にも残っており、アンナ自身も認めている。
しかし彼女によれば、「父が借金のカタとしてドクロを預けていたら売られそうになったので、慌てて買い戻した」のだという。
だが、この言い訳には無理がある。なぜなら1936年に、大富豪だったミッチェル・ヘッジスの父親が死んで、莫大な財産を彼が譲り受けているからだ。その財産をほんのわずか使うだけで、「1944年よりもずっと前に」彼はバーニーから、水晶ドクロを取り戻すことができたはずだ。
ここまで、発見談、入手先、と見てきたが、次は水晶ドクロに対して行われた分析について見ていこう。
伝説にも書いたとおり、70年代後半にヒューレッド・パッカード社が分析をしたことは事実である。しかし、他にもう一度「ヘッジス・スカル」は調べられたことがあるのだ。
1980年、アメリカのフランク・ドーランドが、アンナから6年契約で水晶ドクロを借り受け、これを実際に調べた。
このときの調査では「水晶ドクロの歯の部分の表面に機械を使って磨いた跡」が、はっきり残っていることが判明した。また、このときの調査にも参加し、実際に水晶ドクロの現物を調査したノーマン・ハモンドは「あのドクロの頭部とアゴの部分に開いているクギ穴は、明らかに金属ドリルを使って開けたものだ」と断言している。
もし「ヘッジス・スカル」が、アンナの言うとおりマヤ遺跡の祭壇の下で発見されたのなら、金属工具の跡があるというのは凄いことだろう。
しかし上で見てきたように、この肝心の発見談が極めて疑わしい・・・というかホラ話だというのは歴然としている。
フランク・ドーランドの推測では、「ヘッジス・スカル」はまず古代の職人たちによって―ドーランド自身は、バビロニアかエジプトの職人集団だと考えている―「大ざっぱに成形加工された」のだという。
その方法は、考古学でいうところの「押圧剥離」(おうあつはくり)によって、ドクロ形に彫り削り、その後、研磨を行うというものだったと彼は考えている。
そして、ずっと後の時代になって、下あごの部分が切り離されて、さらに彫り削られ、その結果この部分だけに機械的な研磨の跡がはっきりと残ることになった、と推測している。
ちなみに、オーパーツを扱った本などで「ヘッジス・スカル」が紹介されるときは、ヒューレッド・パッカード社の分析結果についてはよく書かれるが、フランク・ドーランドの分析や、ジョー・ニッケルの調査はまず載ることがない。謎をデッチ上げるつもりがないなら、ぜひ彼らの調査結果も載せてほしいものである。
【追記】
2005年4月9日に放送された「世界ふしぎ発見」の中で、ミッチェル・ヘッジスが発見した水晶ドクロとして、「ヘッジス・スカル」が紹介されていた。しかし、番組の中で紹介されていた映像は「ヘッジス・スカル」ではなく、実は以下で紹介する「ブリティッシュ・スカル」だった。なぜ、違うドクロの映像を偽って流したのか? おそらく、「ヘッジス・スカル」があるカナダまで行く取材費をケチったのだと思う。番組は、これまでに「ブリティッシュ・スカル」のあるイギリスには何度も行っているので、その時ついでにドクロを撮影してきたのか、もしくは別の番組がたまたま撮影していた映像を流用したのだろう。どちらにせよ、セコイ演出で誤魔化したのは事実だ。「どんな技術を使えば、これだけ精密なドクロを作り出すことができるのか?」ともっともらしいことを言いながら、紹介する映像に、19世紀に作られたニセモノであることがわかっている「ブリティッシュ・スカル」を使うあたりは、オカルトネタを扱うときの、この番組らしいトホホぶりがよく出ていた。(・・・とはいえ番組自体は好きだけど)
最後に、おまけとして「ヘッジス・スカル」以外の水晶ドクロもご紹介しよう。どれも、なかなかの個性派ぞろいだ。

「E T・スカル」
フロリダに住む、ホカ・ヴァンディーテンが所有。先鋭な頭蓋と大きな眼窩が、異星人を連想させるので「ET」と名づけられた。伝説の13個の水晶ドクロのうちの1つと言われるが、入手先はロサンゼルスのディーラーである。
【引用元】『Crystal Skulls -2』
http://www.crystalinks.com/ crystalskulls2.html

「マヤ・スカル」と「アメジスト・スカル」
「マヤ・スカル」はマヤの神官が所有していたという話から、この名で呼ばれている。「アメジスト・スカル」(紫水晶ドクロ)は紫色の石英を基に作られていることから、この名が付いた。紫色の原因は、不純物として鉄が含まれているため。1912年にグアテマラで発見されたという。ただし、これら2つのドクロにまつわる「マヤの神官が所有」、「グアテマラで発見」などの話は証拠がなにもない。しかも1988年以降は行方がわからなくなっている。

「ローズ・スカル」
「ローズ・スカル」(バラ水晶ドクロ)は、ホンジュラスとグアテマラの境界の近くで発見されたという(証拠なし)。色がビンクなのは、不純物として鉄を含んでいるため(含有量によって、紫色からピンク色まで変化する)。「ヘッジス・スカル」よりわずかに大きい。アゴは外れるようになっている。
【引用元】『Crystal Skulls -2』
http://www.crystalinks.com/ crystalskulls2.html

「マックス・スカル」
「マックス・スカル」は、テキサス州ヒューストン在住のジョアン・パークスが所有している。ジョアンによれば、1973年にノルブ・チェンという自称ヒーラーと知り合い、1980年に彼が亡くなる際にドクロを譲り受けたという。発見場所は中米にあるグアテマラの墓らしい。名前の由来だが、自分から「マックス」と名乗ったという。ただしテレパシーで。その強烈なキャラクターで人気の高いマックス君。実は私もファンである。もしテレパシーを使えたら、中米起源だと言っていたのに、なぜアメリカ名なのかと小一時間問い詰めてみたい。
【引用元】『“MAX”. The Texas Crystal Skull』
http://www.v-j-enterprises.com/maxcs.html

「シャ・ナ・ラー・スカル」
所有者は、サンフランシスコ在住のニック・ノセリノ。「クリスタル・スカル国際協会理事長」という、もっともらしい肩書きを持っている。また自称超能力者でもあり、1959年にメキシコの山中で「心霊考古学」という意味不明な能力を駆使して「シャ・ナ・ラー」を見つけたという。前出のマックス君によれば、ジョアン夫人に再三「コンタクトを取れ」と言っていた男とは、ニック・ノセリノのことだという。
【引用元】『The Forbidden Zone』
http://www.tobew.com/main_html/X_gallery.htm

「呪いのスカル」
アメリカのスミソニアン博物館所蔵。実際の人間の頭蓋骨より大きく、内部は空洞。しかし重さは14キロもある。名前の由来は、前の所有者に度重なる不幸があり、結果的に自殺してしまったことからきている。スミソニアン博物館へは、その所有者の弁護士だった人物から寄贈された。ちなみに「スカルの目を覗き込むと不幸になる」と言われているが、このドクロを研究し、毎日、目を覗き込んでんでいるジェーン・ウォルシュ博士は「何も不吉なことは起こってないわ」とお気楽に答えている。1996年に行われた大英博物館の分析では、19世紀以降に作られたニセモノという結果が出た。
【引用元】『The Forbidden Zone』
http://www.tobew.com/main_html/X_gallery.htm

「パリ・スカル」
「パリ・スカル」は、パリ人類学博物館に所蔵されている。やや小ぶりで、高さは11センチ、重さは2.7キロ。下顎は外れない。頭の天辺から底まで、垂直な穴が開いているのが特徴。1878年に、アルフォンス・ピナールという人物が博物館に寄贈した。
【引用元】『Crystal Skulls -2』
http://www.crystalinks.com/ crystalskulls2.html

「ブリティッシュ・スカル」
「ブリティッシュ・スカル」は、現在イギリスの大英博物館が所蔵している。
【引用元】『www.OfSpiritandSoul.com』
http://www.ofspiritandsoul.com/skulls.html


この「ブリティッシュ・スカル」も伝説の13個のドクロのうちの1つと言われているが、1996年に大英博物館で行われた調査で、19世紀以降に作られたニセモノという分析結果が出た。そもそも、このドクロは1897年にジョン・エヴァンズという人物から大英博物館が買い取ったことがわかっている。それより前のことに関しては、スミソニアン博物館のジェーン・ウォルシュ博士が詳しく調査しているので少し紹介しよう。
彼女の調査によれば、元々の持ち主はユージン・ボバンという古美術収集家で、彼は1886年にドクロをニューヨークのオークションに出した。そしてその年の12月、ニューヨークの宝石店「ティファニー」の共同経営者だった、エリスという人物がドクロを買い取った。その後、「ティファニー」からジョン・エヴァンズがドクロ買い取り、それを大英博物館に売ったという。ちなみにユージン・ボバンが水晶を入手した先は、ドイツのイーダル・オーベルシュタインという町ではないかという説が有力視されている。この町は中世以来、世界的に知られた石細工の中心地で、多くの水晶加工職人が住んでいる。水晶ドクロは、現代の精巧な技術力をもってすれば、ここで紹介したチャチなドクロより(マックス君ゴメン!)ずっと精巧な水晶ドクロであっても、イーダル・オーベルシュタインに限らず簡単に作れてしまうのは事実だ。そして、これらが特別展示品などではなく、普通に商品として売られているのも最早驚くに値しない話なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「扶桑歌」

2008-04-25 10:09:21 | Weblog
画像:明治45年日本で出版された「扶桑歌」の楽譜の一部(瀬戸口軍楽長校閲・音樂社編輯局編曲・音樂社蔵版「扶桑歌~分列式行進曲~」音樂社編輯局、明治45年(1912年)3月20日発行)


元NHKアナの志村正順さん死去 天覧試合など実況
(2008年04月24日20時21分朝日新聞記事)

 志村 正順さん(しむら・まさより=元NHKアナウンサー)が07年12月1日、心不全で死去、94歳。東京都出身。
 36年、NHKに入局。43年、東京・神宮外苑であった出陣学徒壮行会を実況し、ラジオ史に残る名中継と言われた。戦後、スポーツ中継を担当し、59年に天皇が観戦したプロ野球の巨人―阪神戦のテレビ中継で巨人・長嶋茂雄選手のサヨナラ本塁打を伝え、大相撲では「栃若時代」を中心に活躍。プロ野球の小西得郎さん、大相撲の神風正一さんら名調子の解説者を迎えて中継するスタイルを確立した。
 69年にNHKを定年退職し、NHK中央研修所の顧問を務めた。05年、放送関係者として初めて野球殿堂入り(特別表彰)した。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0424/TKY200804240247.html

 ***

[學徒出陣](15分・モノクローム・1943(昭和18)年文部省作品)
 昭和18年10月21日に神宮外苑競技場で催された「出陣學徒壮行大会」の公式記録映画。当時のニュース映画で話題を呼んだ、悲壮感ただよう雨中の行進シーンを含め、当日のプログラムを正確に記録した貴重な映像である。
http://www.geocities.jp/chakorinpa/kokusaku/kokusaku16.html

 (前略)
 軍楽隊がルルー作曲の『陸軍分列行進曲』(『抜刀隊』の行進曲バージョン)を演奏していますが、指揮者は楽団を背にして競技場中央を向いています。ヘンなの・・・ 
 校旗を先頭に学徒たちが入場してきます。かなりの雨で、ゲートルを巻いた足元は水溜りが出来ています。スタンドもいっぱいですが、誰も傘などさしていません。雨にぬれるに任せています。一部テントのようなものがありますが、ここに要人の席があると思われます。
 学徒たちは学生服にベルトを巻きつけ、銃剣を肩に持ち、足元はゲートルを巻いた姿で行進してゆきます。軍服でないためか、また整然と行進しつつも学徒たちの身長、体格はまちまちなためか、物々しさはありません。メガネの人が半数近くと多いのが印象的です。
「我らはこの式場を進みつつ、ふと戦場につながる道を考えた。戦場に勇戦奮闘する諸先輩の、誰がこのような光栄ある壮行会をもうけられただろうか、と」
 カメラはスタンドの様子も映します。赤十字の旗につづき、女学生たちが映ります。みな神妙な面持ちで行進をみつめています。学校ごとに席をとっているのでしょうか、制服ごと、校旗ごとにまとまっています。
 (後略)

 ***

「陸軍分列行進曲」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%88%86%E5%88%97%E8%A1%8C%E9%80%B2%E6%9B%B2

 (前略)
 陸軍軍楽隊の招聘教官(所謂『お雇い外国人』)として来日した仏軍軍楽教官シャルル・ルルー によって1886年(明治19年)に作曲された。
 ルルーはこの行進曲を作るに先立ち、西南戦争における警察官部隊の活躍に題材をとった軍歌「抜刀隊」と、「大日本帝国天皇陛下に献ず」と註した「扶桑歌」という二つの曲を作っていた。
 後にこの二つの曲がアレンジされて一つの行進曲となり帝国陸軍の行進曲として使用された。
 (中略)
 「扶桑歌」を使用した前奏部は、変ロ短調(編曲によってはヘ短調)の勇壮な曲である。
 力強い印象の中にも、戦場を志向する憂愁と当時の西欧から見たエキゾチシズムが織り込まれた名曲である。
 (後略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とくべつなマカロニサラダ

2008-04-24 17:14:37 | Weblog
西武新宿線下落合駅のすぐそばのお肉屋さん。ミート松坂さん。ここのマカロニサラダは、食べる機会があるたび、椎名誠さんではありませんが、おおおお、この味だ!!と感激します。口のなかになにかとくべつな素晴らしい味わいが広がるような気がするのです。それがいったい何なのかはよくわかりません。なにかこころが温かくなってすこぶるおいしくて幸せになれるのです。そのお店が、今月30日で閉店してしまうと今日聞きました。ご主人と奥様曰く、隠退だそうです。残念でたまりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ショパンのピアノ

2008-04-23 19:57:12 | Weblog
 京都教育大学附属高校の短歌のお好きな先生と生徒さん、卒業生の方たちを中心として運営されている短歌のページ(どこの誰でも参加OKです)の、短歌リレー会場に私が書き込ませて頂いた一首。。。

ショパンのピアノ鍵盤は今も熱帯びて窓際にあり発熱の日より

「熱帯びて」と「発熱」の辺りがまだなんとなく動きそうです。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする