■2005/05/30 (月) ある父親と息子のこと
父と子。
(津田永忠)
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/tudarekisi.htm
「その才、国中に双ぶものなし」と光政をして言わせしめた岡山藩きっての英才・永忠。
http://www.renkeijiku.net/roman/html/roman/okayama/oka_m06.html
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『しゅうほう早島』より
http://www.town.hayashima.okayama.jp/portal/shuhou/10/ura.html
干拓の歴史を訪ねて VOL.13
備前・備中国境争論3 -梶坂佐四郎こと津田永元-
沖新田の南に広がる干潟の開発を計画した浪人、梶坂佐四郎。彼は一体どのような人物だったのでしょうか。岡山藩の出来事を記録した『池田家履歴略記』から佐四郎の人物像を見てみましょう。
梶坂佐四郎、実の名は津田八助永元。そして彼の父親の名は津田永忠。そうです、梶坂佐四郎は、後楽園や閑谷学校を造った津田永忠の息子だったのです。その彼がなぜ浪人になって早島に?
頃は元禄十一年(1698)、当時岡山城下では博打が大流行していました。ある日、博打場で捕えた婆さんの取り調べに永忠が立ち会ったところ、婆さんは「他人を調べる前に、まずお前さんの息子を調べてみよ。いつも私の賭場に顔を見せているぞ」と永忠に言いました。面目を失った永忠は、すぐに息子八助を糺したところ、悪行を白状したため屋敷の座敷牢に押し込めました。ところが1年余り経った時、八助は番人をだまして逃亡、行方知れずになってしまいました。怒った永忠は、八助の弟重吉に探索を命じますが、ついに行方はわかりませんでした。そして、八助が梶坂佐四郎と名を変えて早島に住んでいることが分かったのは、永忠が亡くなってからのことでした。なぜ八助が早島にやって来たのか、その事情はよく分かりませんが、児島湾の干潟開発に関係あるのでは、という話しもあります。
その後、佐四郎は備前への出入りも許されますが、後の目論見のため備前と備中の海面争論が起こると、備前が不利になる裁定がくだったため再び備前への出入を禁止されてしまいます。しかも評定のある江戸への道中には女性を同伴するという放蕩ぶりだったといいます。
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岡山県早島町の日蓮宗古刹、妙法寺に、津田永元(梶坂佐四郎)、妻、娘たちのお墓があります。
(早島・不老の道のガイド)
http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phhayasi.html