カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

ある父親と息子のこと

2005-05-30 10:21:47 | Weblog

■2005/05/30 (月) ある父親と息子のこと

 父と子。

(津田永忠)
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/tudarekisi.htm

「その才、国中に双ぶものなし」と光政をして言わせしめた岡山藩きっての英才・永忠。

http://www.renkeijiku.net/roman/html/roman/okayama/oka_m06.html

                ☆

『しゅうほう早島』より
http://www.town.hayashima.okayama.jp/portal/shuhou/10/ura.html

干拓の歴史を訪ねて VOL.13
備前・備中国境争論3 -梶坂佐四郎こと津田永元-

 沖新田の南に広がる干潟の開発を計画した浪人、梶坂佐四郎。彼は一体どのような人物だったのでしょうか。岡山藩の出来事を記録した『池田家履歴略記』から佐四郎の人物像を見てみましょう。
 梶坂佐四郎、実の名は津田八助永元。そして彼の父親の名は津田永忠。そうです、梶坂佐四郎は、後楽園や閑谷学校を造った津田永忠の息子だったのです。その彼がなぜ浪人になって早島に?
 頃は元禄十一年(1698)、当時岡山城下では博打が大流行していました。ある日、博打場で捕えた婆さんの取り調べに永忠が立ち会ったところ、婆さんは「他人を調べる前に、まずお前さんの息子を調べてみよ。いつも私の賭場に顔を見せているぞ」と永忠に言いました。面目を失った永忠は、すぐに息子八助を糺したところ、悪行を白状したため屋敷の座敷牢に押し込めました。ところが1年余り経った時、八助は番人をだまして逃亡、行方知れずになってしまいました。怒った永忠は、八助の弟重吉に探索を命じますが、ついに行方はわかりませんでした。そして、八助が梶坂佐四郎と名を変えて早島に住んでいることが分かったのは、永忠が亡くなってからのことでした。なぜ八助が早島にやって来たのか、その事情はよく分かりませんが、児島湾の干潟開発に関係あるのでは、という話しもあります。
 その後、佐四郎は備前への出入りも許されますが、後の目論見のため備前と備中の海面争論が起こると、備前が不利になる裁定がくだったため再び備前への出入を禁止されてしまいます。しかも評定のある江戸への道中には女性を同伴するという放蕩ぶりだったといいます。

                ☆

 岡山県早島町の日蓮宗古刹、妙法寺に、津田永元(梶坂佐四郎)、妻、娘たちのお墓があります。

(早島・不老の道のガイド)
http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phhayasi.html

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生者と死者と

2005-05-29 10:24:34 | Weblog

■2005/05/29 (日) 生者と死者と

  世の中には、「お墓に死者がいる」派と「お墓に死者はいない」派の二つの考え方をする人々がいるようです。後者の代表は、たとえば、作家・芹沢光治良です。芹沢さんは、小説作品の中で明確にそのことを述べられています。死んだらあの世の世界に行ってしまうから、お墓にはいないのだ、という趣旨です。それは、ひとつの死生観といえるかもしれません。

 急にお墓のことが気になりだしたとします。そういうときは、死者から生者に、お参りに来なさいというメッセージがおくられている場合があるらしいです。生者はお墓にお参りに出かけていって、お墓で、あの世からやってきて待ち受けている死者に会い、何らかのメッセージを受け取ります。

 もちろん、出会う場所は、特段お墓でなければいけないというわけではないようです。たとえば、宮沢賢治は、《銀河鉄道の夜》の中で死者と生者が最初に出会う場面、つまり、ジョバンニが銀河鉄道に乗り込む場所として、墓地を選択してはいません。

                ☆

 最近、いろいろ気になることがあって、久しぶりにお参りに行かなければとの思いが高まり、昨日の晩、思い切って、出かけることにしました。バス車中2泊、実質行動日1日で、お寺とお墓をまわります。

 バス車中2泊というのは、環境に慣れるまで結構たいへんだということがよくわかりました。私自身そんなに軟(やわ)ではないはずなのですが、行きの車中では座席を殆ど倒せなかったこともあってあまり眠れませんでした。その分、帰りに猛烈な睡魔に襲われるパターンか。。。

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投歌メモ

2005-05-28 10:29:12 | Weblog

■2005/05/28 (土) 投歌メモ

《題詠マラソン2005投歌メモ・お題No039:紫》

(秘密結社《王党派メロン》の通称、親方は、姫様から「パンとお酒のつまみみたいな料理ばかりでもう嫌。飽きたわ。新鮮なお魚の料理を食べたい。でも、あなたがたにはそういう料理は作れないわよね」と挑発されて、そこまで言われるのだったら姫様には何が何でも素敵な魚料理を召し上がっていただこうと決心して、手下に新鮮な魚を買って来いと命じた。手下が持ち帰ってきたのは見事なマグロであった。親方と手下たちは、アジトの狭い調理場にこもって、ひじをぶつけあいながら調理を始めた。姫様と一緒に誘拐されてきた姫様お傍仕の爺は、袂(たもと)から恭しくテーブルクロスを取り出す)

姫様はキッチン喧騒に鼻歌を 爺は紫クロスをひろげぬ  河村壽仁

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日高堯子歌集《牡鹿の角の》より

2005-05-24 10:32:19 | Weblog

■2005/05/24 (火) 日高堯子歌集《牡鹿の角の》より

日高先生の第二歌集《牡鹿の角の》(砂子屋書房、1992)。古本屋で見つけて手に入れました。時々ぱらぱら見ています。そのなかの一首。

不思議なリズムに駱駝ひと列すぎしのちしづかなわれが遺されてゐる 日高堯子

 この初句から三句まで読んでいると、私の胸には、砂漠のような土地を隊商の列が通り過ぎてゆく光景が浮かびます。

 ボロディンの交響詩《中央アジアの草原にて》や喜多郎の《シルクロード》の音楽が、どこか遠くでかすかに鳴っているような気もします。

 砂漠の道に横たわる悠久の時間の存在感に圧倒されつつ、「私」が時間の流れから取り残されて立ち尽くしている光景。《遺されてゐる》とありますので、私は、生きている人間の私ではなくて、《砂漠の石くれ》のような存在なのかもしれません。歌集の中の位置から推測すると、この一首は、富士山の裾野のサファリパークで詠まれた一連の一首のようですが、この作品では明らかに、作中主体の《こころ》は砂漠にあり、《眼》は遥かな砂漠の道を見ていると私には思えます。

 好きな一首です。

                ☆

 今日は、作曲家別宮貞雄氏の生誕83年に当たる日だそうです。

 別宮さんは、フランスの作曲家ミヨーの弟子で、その作品は、エスプリと美しさに充ちた、聴きやすく親しみやすい音楽が多いです。

 私が大好きな作品は、交響曲第三番《春》と交響曲第五番《人間》とピアノ協奏曲などです。

 別宮さんは長いこと中央大学で《音楽》の講義を担当されていました。13年前、私は別宮さんの最終講義にもぐりに行ったことがあります。別宮さんは、最終講義ということで、ご自分の音楽人生について1時間30分語られました。自作の音楽の録音も時折掛けながらの講義ですごく面白かった記憶があります。

 別宮さんが、今後もますますご健康にあられて、素敵な作品をどんどん発表してくださる事を、楽しみにしています。

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