カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

レンヌ・ル・シャトーのことなど。(メモ)

2006-02-28 12:56:45 | Weblog
 興味深い話のメモです。

                ☆

「ダ・ヴィンチ・コードは盗作」と提訴=出版差し止めの可能性も
 
【ロンドン27日】世界的ベストセラーとなった米作家ダン・ブラウン氏の小説「ダ・ヴィンチ・コード」は、自分たちの著書からアイディアを盗用しているとして、歴史学者2人がロンドンの裁判所に提訴し、公判が27日に始まった。
 訴えたのは、ヘンリー・リンカーン氏とともに1982年に「聖なる血と聖杯」を著したマイケル・ベイジェント、リチャード・リーの両氏。2人は「ダ・ヴィンチ・コード」の多くの部分は、「聖なる血と聖杯」を参考に書かれていると主張し、発行元の出版社ランダムハウスを訴えた。
 2人は著作権がさらに侵害されるのを阻止するため、差し止め命令を求める見通し。認められれば、ランダムハウスが「ダ・ヴィンチ・コード」を出版できなくなる可能性もある。
 オブザーバー紙によると、ランダムハウスの弁護団は裁判で、過去何世紀にもわたり、作家たちは互いに筋書きやテーマ、アイディアを借り合ってきたと強調。シェークスピアの戯曲も「真夏の夜の夢」を除くと、すべて他の作品からアイディアを拝借していると主張する方針。
 「聖なる血と聖杯」は、イエス・キリストとマグダラのマリアが結婚して1児をもうけ、現代も血統が続いている事実をカトリック教会が隠そうとしていると論じている。一方、「ダ・ヴィンチ・コード」も、バチカンがキリストに関する真実を覆い隠す努力をしていると述べている。
(時事通信) - 2006年2月28日0時43分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060228-00000000-jij-ent

                ☆

『Holy Blood, Holy Grail』(Paperback)
by Michael Baigent, Richard Leigh, Henry Lincoln
Publisher: Dell; Reissue edition (January 15, 1983)
ISBN: 0440136482

"We believed at first that we were dealing with a strictly local mystery-one confined to a village in the south of France..."

http://www.amazon.com/gp/product/0440136482/104-8768979-5943142?v=glance&n=283155

                ☆

以下は、http://www.voynich.com/seminar.htm に掲載されている文章です。

(以下、引用させて頂きます。)

11月15日に東大駒場の留学生会館で、「現代のミステリー」という題でホセ・ベルトラン・エスカビさんが講演を行いました。彼はスペインからの留学生で、現在東大の博士課程で学んでいます。当日の主催は「メンサ」という留学生の集まるサークルが行いました。見に来た皆さんも外国から人が多く、日本人は僕を含めて3人でした。(講演、ディスカッションは英語で行われました。一部通訳の人が付きました。)現在は彼はすでに博士課程を卒業してオランダへ行ってしまいました。
テープ起こしに関して:録音は会議用のものを使っただけですので、録音は状態があまり良くないことと、僕の英語のヒアリングがあまり良くないため、不明なところがあります、ご了承下さい。

**

「現代の不思議」
第一部 「The mystery of Rennes-le-Chateau」(110分)

急にお金持ちになった、レンヌ・ル・シャトー村の神父さんの話です。

ホセさんの講演→ディスカッションと続きました。

当日の様子(参加者は15人位でした。)
ホセさん:今日話す内容は二つあります。そして最初はレンヌ・ル・シャトーの話です。カタリ派と関係あるかは分かりません。とても奇妙なことが起こりました。いくつかの出来事が起こりました。奇妙な状況でです。それについて私はこれから話したいと思います。そして皆様にはそれについての興味深いコピーを用意してきました。えーと、すぐにもう少しの人がきますね。(5分待ち)

O.K.それでは始めましょう。私たちが今日話すのはミステリーについてです。それらは歴史的に不思議なミステリーであります。UFOやミステリーサークル(Crop Circle)、それに関係する愚かなことは話しません。私は私たちが知っているたくさんのことについて話しますが、しかし何が起こったのかは分かっていません。それが私がミステリーと呼ぶ理由です。予定では私が話をします。それについて説明します。その後誰でも話したい人がいれば、議論します。ではスピーチを聴いて下さい。誰でも興味を持てると思います。最初の一つは「レンヌ・ル・シャトーの謎」についてです。話の中でいくつかの資料を使います。そして何枚かの写真のコピーを配っておきました。初めに話すのはレンヌ・ル・シャトーについてです。レンヌ・ル・シャトーについては2枚のコピーを配ってあります。

What is a Rennes-le-Chateau? (レンヌ・ル・シャトーとは何?)

レンヌ・ル・シャトーとは南フランスにあるとても小さな村です。配った写真のNo.1に見える村がそうです。これがその村ですが、とても小さい。この小さな村で19世紀末に一連の奇妙な出来事が起こりました。レンヌ・ル・シャトー村では1885年頃に…、えーっと確かめるためにこの本(「Holy Blood, Holy Grail」のこと)を見ますね、1885年にこの小さなフランスの村に新しい教区司祭が赴任してきた。彼の名はベレンジャー・ソニエール(B駻enger Sauni鑽e)です。彼の写真があります。大きい紙の立っているこの男です。ソニエールは…

(新たに参加者が現れたので2, 3分中断。)

彼は典型的な村司祭で、つまり言いたいことは、その村はとても小さく、司祭はとても貧しい、つまり彼はお金をたくさん持ってはいなかった。1891年にソニエールはその村の古い教会を修理し始めた。そして彼は中が空洞になっている柱の中に木の筒に入っている4つの古文書があるのを発見した。書いてあるのは明らかに暗号であった。

彼はこれについて取り組み始めた。そして彼の上司に接触し、彼[上司]はすぐにソニエールを(暗号の)専門家に会わすためにパリへ派遣した。彼の名は…、ちょっと待って、今確認します、そう、アベ・ビエイル(Abbe Bieil)であり、彼はパリの神学校を統轄する人物であり、また古文書、古文字の分野では重要な人物であった。そして一応文章は解読された。現在でも(暗号が解読される前の)元の文章と(解読された)後の文章が残っていますが、何を意味しているのか全くわかりません。
そしてこの暗号が解読された1891年からソニエールが死亡した1917年の間に興味深いことが起こりました。

多額のお金について話します。

(テレコの電池の入れ替えのため数十秒失われています。)

一千万ポンドのお金、彼はそのお金を使って教会、彼自身の家や、召使いのための家を建て直し、そしてヨーロッパ中の人たちとの交流のためにお金を使った。そしてこのお金がどこから入手したものなのか、誰にも分かっていません。ある人は彼が発見した文書は宝の地図であったと思いました。しかし彼が実際の物としての金や、宝石を発見したと考えない方がいいでしょう。つまり一千万ポンドというとても多額のお金は金やその他を発見したものとして換算すると、莫大な量になってしまうからです。だから何らかの情報という形で発見したと考えられます。

もうひとつ興味深いことは司祭[ソニエール]はたくさんの王族達と付き合い始めました。彼はVIPたちを彼の家に招待しました。例えばフランスの王族や、ハプスブルグ家の人たちです。

そして1916年にはとてもすごい人が訪問しました。ドイツのハプスブルグ家の人が彼を訪れました。ハプスブルグ家というのはドイツの王家と密接に関係しています。そしてこのハプスブルグ家の王子(ヨハン・フォン・ハプスブルグ大公,Archduke Johann von Hapsburg)が1916年にフランスにいるソニエールを訪問しました。これはとても重要なことです。その当時フランスとドイツは戦争をしていました。そしてドイツ人であり、かつ重要な立場の人間がフランスを訪れたのです。この村の司祭を訪れた理由は全くわかりません。

このソニエールは多額のお金を使い続けましたが、1917年1月17日に脳卒中で倒れました。そして死んだのは1月22日です。
興味深いことがあります。脳卒中で倒れる前、彼は完全に健康そうに見えました。彼[ソニエール]には30年以上という長い間仕えてきた女性の召使いがいました。彼女[召使い]は(まだ健康であった)1月12日に彼女の主人[ソニエール]のためにほかの町まで棺を買いに行きました。

1905年にはとても興味深いことが起こっていた。この司祭[ソニエール]は前彼の上司とは良い関係であった。しかしこの司教が死に、新しい司教が赴任してきてソニエールに金の出所を尋ねた。彼は強硬な態度で答えることを拒絶したが、これはカトリック教会のような強固なヒエラルキーの中では驚くべきことであります。

その(ソニエールの上司にあたる)司教はソニエールを聖職売買(simony)の廉(かど)でローマに告発した。しかしその後ソニエールはバチカンとコンタクトを取り、バチカンは訴えのすべてを却下した。とても奇妙に感じたことと思う。カトリック教会の中で最下位の教区司祭が、上位の司祭の告発を覆すことはとても珍しい。しかも彼はバチカンに直接コンタクトを取ったのだ。そしてバチカンはそれを認め、告発を却下した。

そして彼は新しい教会や、その他の新しい建物を建てる際には、とても奇妙な文字で書かれたものを配置したりした。あまり教会らしからぬものが多数存在する。例えば新しく建てられた教会の入り口の上にはラテン語で文字を刻んだ。

TERRIBILIS EST LOCUS ISTE
(ここは恐ろしい場所)

この司祭[ソニエール]が死ぬ際、つまり脳卒中で倒れた後だが、ほかの教区から若い司祭が最後の告解のため呼ばれた。その若い司祭が病人の部屋に入り、しばらくの後ゆっくりと出てきたときには、彼[若い司祭]の顔は真っ青であった。彼はその後二度と笑うことはなかったということだ。そしてそれにも増して衝撃的であったのは彼[ソニエール]が臨終の際の秘蹟を受けることを拒否したことであった。
そして死に際し、今日の記録が間違っていなければだが、彼は告解による罪の赦しを得ることなく死んだ。これは司祭であるはずなのに、全く信じられないことだ。

そしてソニエールの葬式はまたまた奇妙なものであった。残されている記述によると、彼はひじ掛け椅子に座らされて埋葬されたということだ。そして彼の家の門の前に埋葬された。それから誰だか分からない会葬者の一団が村を訪れた。彼らは座っている彼の前に立ち、彼の着ている衣装を小さく切り取り持っていきました。その後彼は埋葬されました。その儀式にどのような意味があったのか誰にも分かりません。その村の住人はそれを目撃していたのですが、何が行われたのか全く理解できませんでした。

そして皆がソニエールの遺言状が読まれるのを心待ちにしていた。なぜなら彼はとてもお金持ちであり、たくさんのお金を使った。そして残された財産がいくらになるのかを期待していた。
そして遺言状が読まれたとき、みんなはがっかりしてしまった。なぜならソニエールが一文無しなのを宣言していたし、つまり彼はお金を全く持っていなかったのだ。そしてすべての彼の所有物は彼の召使いであった女性に譲られていた。
彼女は1953年まで生きていた。彼女は余生を静かに暮らしたということです。
第二次世界大戦後の1946年に新フランス政府は新しい通貨を発行した。そして戦争協力者、ナチの協力者、税金支払い忌避者の摘発が目的で、旧貨から新貨への切り替えの際にそのお金の出所を説明しなければいけないこととなった。

出された法律はこうである:何人も旧フランから新フランへの切り替えの際にはそのお金の出所を説明しなくてはならない。

そして目撃者によると、ソニエールの召使いは出所を説明し、お金を交換することよりも、庭で札束を積み上げて燃やすことを選びました。そして彼女は家の一軒を売って、そのお金で暮らしたということです。彼女は1953年に亡くなりました。

彼女が死ぬ少し前、彼女は家を購入した人に秘密を話すことを約束していました。それはお金持ちになれるだけではなく、権力をも手に入れることができるであろうものでした。しかし不幸にも1953年に彼女は突然脳卒中で倒れました。そして喋ることを失いました。もちろん書くこともできなかったのです。彼女はこの後すぐに死去し、彼はとても落胆しました。彼女は秘密を持ったまま死んでしまいました。

そんなわけで誰も何が起こったのか、お金はどこからきていたのか、ソニエールのお金は何であったのか、知っている者はいません。しかし私たちは資料や、新聞や、写真や、文書、手紙などからたくさんの情報を知ることができます。しかしそれらを一つにまとめ、何が行われたのかを知ることはできません。知っているのは原因ではなく結果だけです。

多くの学者はソニエールが発見したものは宝石のような(物質的な)宝物を見つけたのではなく、情報のようなものであったと考えています。そして彼はそれを使い誰かを脅していたと考えています。しかし謎の多くは闇に包まれていて、その村で何が行われたのかという説は様々な観点からたくさん出されています。

そして奇妙な点があります。ある研究者がソニエールについてのことをバチカンの資料室を調べました。しかしその研究者はバチカンの資料庫にいったのですが、たったの一行すらソニエールの名前を見つけることができませんでした。これはとても奇妙なことです。なぜならバチカンは世界中にいるすべての僧侶の名前と住んでいる場所を記録することになっているからです。

そして私たちは彼が確かに存在していたことを知っています。写真や、文書や、その他の情報から、彼は司祭として活動していたこと、その村の司祭として存在していたことを疑う余地はありません。しかし公式の記録ではその村には1885年から1917年まで司祭は存在していなかったことになっています。
そこに何が起こっていたのか誰も分かりません。全く奇妙です。例えば世界を揺るがすほどではないにせよ、何か重要な事態が行われていたと考えられます。

それではどなたからでも質問、コメント、意見など何でも受け付けます。(実際にはここからディスカッションが始まりましたが、僕の英語能力を超えていますので、今回はやめておきます。多くは残された暗号文についてや、秘密とは何か、誰を恐喝していたかなどです。)

僕自身の理解を深め、そして時間ができたときにそれらについては追加していきたいと思います。

これ以上知りたい方はこちらを参考にして下さい:
題名『HOLY BLOOD, HOLY GRAIL』
著者 Michael Baigent, Richard Leigh, and Henry Lincolin
出版社 Dell Readers Service, 1983
英国BBC放送のテレビ番組作成に伴い書かれた本です。変なミステリーではなく、きちんと調査された証拠を元に書かれています。ただしどこまでが真実で、どこからが推測か分かりません。特に秘密結社のあたりについては疑わしい限りだと思うのですが…。現在はペーパーバック版が$7.50で売っています。

なお去年1997年には上記の書の日本語訳本が出版されました。
題名『レンヌ=ル=シャトーの謎』イエスの血脈と聖杯伝説
著者 上に同じ 林和彦[訳]
出版社 柏書房
値段4,800円です。
素晴らしい本ですので、興味がある方は一読をお勧めいたします。

なお、続編としまして、同じ作者で『THE MESSIANIC LEGACY』も出版されています。
著者 Michael Baigent, Richard Leigh, and Henry Lincolin
出版社 Dell Readers Service, 1986, $7.50です。

**

第二部 「The Most Mysterious Manuscript in the World "Voynich Manuscript"」(80分)
ホセさんの講演→僕の植物の話→ディスカッションと続きました。
(後略)

(以上で、引用部分を終わります。)
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啄木展

2006-02-27 13:58:24 | Weblog
 啄木が好んだという薔薇の透かし絵にちなんだ短歌メモから。。

空に浮かぶ薔薇透かし絵に絵筆もて色を塗りをり 若き詩人は 河村壽仁

                ☆

 一昨日、銀座千疋屋本店に用事があって銀座まで足を伸ばした折、源 吉兆庵のビルに『石川啄木展開催』の看板が掛かっているのを見つけたので、覗いてみました。

http://www.kitchoan.co.jp/what/index.html#takuboku1

生誕記念菓子企画展「石川啄木展」開催
 
 平成18年2月1日(水)~2月27日(月)の期間、源 吉兆庵銀座店8Fギャラリーにおいて、生誕記念菓子企画展「石川啄木展」を催します。
 石川啄木(本名 石川一)は、明治19年(1886)2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(現在の玉山村日戸)に生まれました。
 27年間の短い生涯の中で、詩集『あこがれ』、歌集『一握の砂』を刊行し、三行書きの表現や生活派短歌の形式を築きました。本展では啄木の生涯を通じて、交遊のあった人々をご紹介いたしております。

■会場 源 吉兆庵 銀座店
    8F ギャラリースペース
■住所 東京都中央区銀座7-8-9
■お問い合わせ (03)3569-2360
■開催期間   平成18年2月1日(水)~2月27日(月)
       午前10時~午後7時(最終日は午後4時まで)
■入場無料

                ☆

 六畳あるかないかぐらいの狭いギャラリーの展示室には、啄木の書簡を中心に展示されていました。その書簡は、啄木が好んだという薔薇の透かし絵が入った葉書で、最近青森で発見され、啄木全集にも未収録、とのことでした。

 啄木が薔薇好きだったというのは初めて知った事だったので、なかなか興味深かったです。
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メモ:第22回100万円大賞ラジオCMコピー大会

2006-02-27 00:15:37 | Weblog
メモです。

第22回100万円大賞ラジオCMコピー大会
http://www.joqr.co.jp/copy/

賞  金 グランプリ(1本)=100万円・審査員賞(7本)=10万円・優秀賞(11本)=3万円・リスナー大賞(1本)=10万円 
募集作品 協賛広告主(19社)の課題にもとづく20秒のラジオCM用コピー。 
応募資格 プロ・アマチュアを問いません。 
応募形式 インターネット・携帯から応募できます。インターネットでの応募は当ページ左の[応募する]をクリック。携帯の場合は文化放送携帯サイト「モバイル文化放送」内に応募フォームがあります。また、郵送の場合は一作ごとに表紙をつけ、ホッチキスでとじてください。表紙には課題企業名・商品名を記入の上、応募者自身の住所、氏名、年齢、職業、電話番号を必ず明記すること。何作でも応募可。
審 査 員 伊藤アキラ氏・川崎徹氏・鴻上尚史氏・麻生哲朗氏・天野祐吉氏の5名。


締め切り 2006年2月28日(火)当日消印有効。 
課  題 「広告批評」2006年1月号(好評発売中)で発表。 
発  表 2006年5月4日(木)午前8時30分~11時までの文化放送特別番組「第22回ラジオCMコピー大会スペシャル」(司会/野村邦丸・水谷加奈)および「広告批評」5月号(5月1日発売予定)。 
著 作 権 入選作を文化放送にて完パケCMに制作。著作権はスポンサーに帰属。また、コピー大会に応募された全ての原稿はスポンサーに渡ります。予めご了承ください。
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ブラームスの言葉から

2006-02-26 19:43:17 | Weblog
アーベル著『我、汝に為すべきことを教えん』(春秋社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393931661/503-5342282-5823902

その「第六章」から。

メモです。

「霊感と職人芸を併せ持っていなくては、作品は決して生き永らえることはない。」
「天才の最良の定義とは、聖書のヨハネ十四、十の聖句『己にあらず、父われに在して御業をおこなひ給ふなり』に気付いている者ということができるだろう。」
「私は、宗教的には考えても、神学的には考えない。神学は人の手になるものだが、宗教は神の手による。例えば、肉体の死後の生命に対するあの普遍的な信仰は宗教だが、信条や教理はすべて神学だ。」
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「ジョゼッペ・カスチリョーネ」のことなど。

2006-02-24 13:38:32 | Weblog

 メモです。

 惹かれる歌のこと。

 永田和宏歌集『百万遍界隈』(青磁社)より。

どれもどれもふくみわらいをしているよおたまじゃくしが水槽に太(ふと)る 永田和宏

 読みながら思わず笑いがこぼれてきそうになりました。上句のやわらかで温かいリズムとテンポがじつに心地いいです。やさしい童謡のような味わいのある一首で、好きな作品です。

濡れながら若者は行く楽しそうに濡れゆくものを若者と言う 永田和宏

 三句四句結句での、「楽しそうに濡れゆくもの」こそが「若者」なのだ、と規定している部分が非常に魅力的だと思います。「楽しそうに濡れゆく」からは、ある映画で見たことがある、雨の中、傘も差さずに外に出てきてゲラゲラ笑いあっている若者たちの姿がなんとなくイメージされました。面白い作品だと思いました。

ジョゼッペ・カスチリョーネ老い深くして支那服の膝に射す陽は斜めに射せり 永田和宏

 初句の「ジョゼッペ・カスチリョーネ」に思わず目を惹きつけられました。歴史上の人名を詠み込んだ作品として、すごく魅力的なうただと思います。惹かれます。

                *

「ジョゼッペ・カスチリョーネ」(上の画像は彼の作品の一つだそうです)

 16世紀に中国で活躍したイタリア人の画家。中国名は郎世寧。本名はGiuseppe Castiglione。27歳のときに中国に渡り生涯中国で画家として活躍した。

                *

華世旅行社有限公司のサイト
http://www.chinaworld.com.hk/hkint/hi_0046.html

『第46回●シルクロードからきた花嫁』(by 東 紫苑さん)


<乾隆帝のウィグル妃・香妃>

清朝初期、イタリアのカスチリョーネという宣教師がいたが、今でも西洋絵画の写実的な技法で多くの絵が残されている。カスチリョーネの作品と伝わる「香妃戎装像」という絵がある。女性が鎧兜に身を固める勇ましい絵だ。民国時代、承徳の避暑山荘の蔵から出てきたこの絵には「事略」がついていた。
「香妃は回部の王妃なり。姿色美し。生まれて体に異香あり・・・。」
に始まる香妃の物語である。
「香妃はウィグル部の王妃であった。美しく、生まれながらのかぐわしい体臭があったので、香を焚きしめる必要がなかった。このため人々は彼女を『香妃』と呼んだ。」

<シルクロード、ホージャ兄弟の乱>

乾隆二十二年(一七五七)、新疆ウィグル部カシュガルでホージャ兄弟による反乱が勃発。香妃はホージャ兄弟・弟の方ホージャ・ジハーンの妃だった。その美貌は北京の皇帝の元にまで伝わっていたので、乾隆帝は興味津々だ。清軍はホージャ兄弟をパミール山中に追いつめその首級を取ったことで、反乱は平定された。反乱軍の首謀者だったホージャ一族の女たちは皆生け捕りにされて北京へ送られた。その中に香妃も入っていたのだ。清朝から総大将として派遣されてきた兆恵は、部下たちのうわさで、香妃の美しさを知り、召見し、やはり息を呑んだ。これは乾隆帝がさぞお待ちかねだろうと考え、北京に早馬を走らせた。
「陛下、ホージャ・ジハーンの妃を生け捕りました。噂にたがわず絶世の美人です。」
乾隆帝はその到着を今か今かと待ちこがれた。北京で乾隆帝に謁見した香妃は泰然としており、堂々と胸を反り返らせている。勇者のような威圧感さえあり乾隆帝はその魅力にすっかり夢中になってしまった。ぜひとも自分の物にしたいが無理強いはいけない。先ずは宦官をやって説得に当たらせた。ところが香妃は毅然と言い放つではないか。
「国を滅ぼされ、夫を殺された私にこわいものなんてありません。陛下がどうしても無理強いなさるなら身に付けている白刃を飲んで死にます。」
泡を食った宦官は、転がり逃げるように皇帝に報告に行った。乾隆帝は苦笑いだ。
「おやおや・・。勇ましいことじゃ。まあ良いわ。しばらく落ち着くまでお仕えしなさい。」
ちなみにカシュガルは昔から、シシカバブの鉄串や刃物の産地として知られている。小さな護身刀はいつでも身につけていたのだろう。

宮廷は狭い社会だ。この異国の美女の噂はあっという間に知れ渡った。これを耳にはさんで眉をしかめたのは乾隆帝の生母である太后である。乾隆帝は有名な孝行息子なので母に言われたことには逆らえない。
「陛下、あのウィグルから連れてきたという女は何ですか。刃物を振り回してるそうじゃありませんか。物騒な。大事な息子に何かあったらどうするんですか。」

それでも乾隆帝は母后をなだめたが、太后はやはり安心できない。妖しい異国の女に大事な息子の寝首でもかかれたらえらいこっちゃ。ある日息子の留守をねらって自分の住む慈寧宮に香妃を呼びつけた。
「おまえは皇帝にも屈せず、一体どうしたいんだえ?」
「ただ死ぬことだけが望みです。」
「そうかい。では死を賜おうぞ。」
太后は次の間の梁に紐をぶら下げさせ、香妃の自殺の用意をしてやった。乾隆帝が帰ってきたときにはもう香妃は冷たくなっていたのだ。茫然自失の皇帝は深く悲しみ、その遺体を百人の兵士に守らせて遥かカシュガルまで送り返したという。その隊伍は三年かかってカシュガルに到着した。香妃はカシュガル郊外にある香妃墓に今も安らかに眠っている・・・。

<もう一人の香妃=容妃>

以上がカスチリョーネの絵から広く世間に伝わった香妃伝説である。ところが清朝の史料に「香妃」の名はない。その代わりに容妃というウィグル族の妃がいたことが記録に残っている。今ではこの容妃が香妃である、というのが定説だ。容妃はカシュガルのアリ・ホージャの娘で名はジャムツム。(ウィグル族に姓はなく、名前のあとに父親の名前をつけて姓の代わりとする。)法名はシパルハン、これはウィグル語で「芳香漂う」という意味である。香妃の名はこれに由来している可能性が高い。つまり容妃はホージャ・ジハーンの一族ではあったが、その妃ではなかったのだ。しかも兄のトルドはホージャ兄弟の反乱に反対し、清軍に加わってホージャ兄弟と戦っている。反乱が平定された後その戦功により北京に招待され、晋国公に封ぜられたのだ。そしてそのまま一族で北京に定住した。妹である容妃もこのとき随行している。

乾隆二十五年(一七六0)、容妃、二七歳で入内。和貴人に封ぜられる。ちなみにこのとき乾隆帝五十歳だ。二七歳といえば、当時としては姥桜である。これは作者の勝手な勘ぐりだが、初婚ではないと思っている。当時十代後半で確実に嫁に行く時代に二七歳まで独身であったとなれば、この女性はよほど問題ありだ。しかし容妃の清宮での立ち振る舞いはスマートでバランスが取れている。よってどこかしら問題があった女性とは思いにくい。あるいはこの反乱で本当に夫を亡くしているかもしれないし、ウィグル女性は今でも再婚にはおおらかだから、自然に嫁いだのかもしれない。ともかくこの縁談は政略結婚のにおいが濃厚だ。乾隆帝はウィグル人女性を後宮に入れて寵愛すればウィグル族の心をつかむことができ、辺境の安定につながる。ウィグル族側としても反乱に破れた以上は、中央でなるべく勢力を得たい。そんな双方の思惑の象徴が容妃だったといえる。

<容妃の金髪>

容妃は乾隆五十三年(一七八八)、五四歳で亡くなり、今は天津の北、清東陵の裕陵に眠る。八二年に中国政府の発掘調査があったとき、容妃の遺体には黄金色の頭髪が残っていたという。さらに骨格検査の結果、ウィグル人の体格的特長を備えていることが確認された。そして棺の上にはウィグル文字でコーランの一説が刻み付けられていたのだ。容妃が本当にウィグルからきたことが確認されたわけだ。

乾隆帝は容妃が民族の習慣を維持できるようにいろいろ気を配った。ウィグル式の宮殿を建てて住まいに提供、ウィグル人コックを召して毎日ウィグル料理を食べさせた。このウィグル料理は時には宮廷のほかの人をも楽しませている。王侯や大臣を呼んだ宴会にシシカバブが供されたことが記録に残っているのだ。さらにウィグル雑技団を時折宮廷に呼んでは皆で鑑賞した。実はこのホージャ兄弟の反乱後、容妃兄弟だけでなくかなり多くのウィグル人が北京に強制移住させられている。乾隆帝は西長安街の南側(現在の人民大会堂の辺り)に回回営(回人居住区)を設け、モスクも建てた。容妃が宮廷でホームシックにかかってはいけないから、と宝月楼に上ることを奨励した。宝月楼はちょうど回回営の向かいにあり、そこに上れば同族たちの住む町が眺められるのだ。ちなみに宝月楼は今の中南海の新華門である。

ではカシュガルの香妃墓に眠っているのは誰?・・・と思う人もいるだろう。この時に連行されてきたウィグル女性が容妃一人だけではなく、大量にいたに違いない。そして各皇族、大臣、官僚の家に分けられた中、命張って抵抗した女性もいただろう。香妃伝説はそんな多くの香妃らを集大成したものだ。そしてカシュガルの香妃墓に眠っているのもそんな香妃らの一人に違いない。(了)
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オーラの泉のこと

2006-02-23 13:33:11 | Weblog
《星が生まれて消えるまで》ブログ
http://blog.so-net.ne.jp/k-tantan/archive/c142527

 ↓

オーラの泉 柏木由紀子さんの回
http://blog.so-net.ne.jp/k-tantan/2005-12-25
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雑記メモ:永田先生のうたのこと、列聖調査のことなど

2006-02-23 10:18:09 | Weblog
永田和宏歌集『百万遍界隈』(青磁社)のことなど。

 今朝、数日来枕頭に置いたままにしていた永田先生の歌集『百万遍界隈』を開くと、まず目に飛び込んで来たのは「天狗舞」のうたでした。

天狗舞は金沢の酒降る雪のさやさやと唇(くち)に触るる辛口 永田和宏

 天狗舞という日本酒のコマーシャルのようなうたです。そのままラジオコマーシャルになりそうです。面白い一首。

 次いで、その隣りのページに見えた《茂吉の墓》の連作から。

右大臣大久保公の碑のまえに茂吉之墓と小さく記す 永田和宏

夫(つま)の死後三十年を楽しみて生きし輝子にその墓あらず 永田和宏

                *

<実りのとき 都立青山霊園>のサイト
http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/shuukyou/aoyamaboti/aoyamaboti.html

《都立青山霊園の齋藤茂吉の墓》
 大久保利通の巨大な墓に隠れるように、歌人齋藤茂吉の墓がありました。何度も探し直してやっとみつけることができました。
 子規の弟子伊藤左千夫に入門、左千夫が明治41年歌誌アララギを創設した以降、ともにアララギで積極的に活動しました。
 齋藤茂吉はクリスチャンであったと聞いたことがありますが、葬儀は築地本願寺で行なわれたそうです。

                *

 永田先生のうたにある「輝子にその墓あらず」は文字通り<輝子にその墓はない>ということ、つまり、「茂吉之墓」に輝子夫人は一緒に入っていないという意味だと思います。

 そう考えたとき、ふと、府中の多磨霊園の傍らの齋藤病院(茂吉の子息齋藤茂太氏の病院)のごく近く、<府中カトリック墓地>にある遠藤周作氏の墓のことが思い浮かびました。

*府中カトリック墓地(東京都府中市天神町4-13-1 Tel.042-369-6261):多麿霊園西門を出て、浅間山通りを西へ900m行き、左側です。

 この墓には遠藤周作氏と遠藤氏の母と兄とが一緒に眠っているそうなのですが、さきほどの「茂吉之墓」のうたの「その墓あらず」と遠藤氏の墓とは対照的だと思ったのです。

                *

 永田先生のうたからもう一首。

 惹かれるうたです。

母を知らぬわれに母無き五十年湖(うみ)に降る雪ふりながら消ゆ 永田和宏

                ☆

 列聖調査。

 興味深いカトリックの列聖調査の話。

 メモ。

<森の教会>のサイト
http://www12.ocn.ne.jp/~orchid/KyoukaiTOP.html

◆チマッティ神父の列聖調査◆
 ここで現在、聖人に挙げるべき調査活動をしている一人の事例を参考に紹介します。その方はまだ列福にまで至っていませんが多くの長い調査を経て、列福、列聖を待っている段階です。この様子を少しでも知っていただければ幸いです。その方の名はチマッティ神父です。
 神父はサレジオ会の神父として長く日本に滞在し、日本で帰天しました。(カトリックでは死亡することを天国に召された、帰った、という意味で「帰天」という言葉を使います)
 次の調査経過文は東京調布市にあるサレジオ神学院の資料からの抜粋ですが、多少手を加えてあります。
 師 (カトリックでは神父のことを「師」と表現します。たとえば、山田神父は山田氏ではなく「山田師」と表現します) の死後、とくにイタリアや日本は、その列福・列聖調査を始めるべきだという要請が強くなってきました。
 1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成したとき、チマッティ神父のご遺体は、棺を開けないままで、府中カトリック墓地からその地下聖堂に移されました。 師の列福・列聖調査を始めるべきだという要請が強かったのは、師のあまりにも世俗離れした行動と言動のためでした。

●まず資料集めから始めます。
 列福調査には、まず資料を集め、そして、付き合った生き証人の証言が必要となります。チマッティ神父の場合、広く活動したので日本とイタリアでその情報を収集する必要がありました。この任務をはたしたのは、師の最後の3年間、サレジオ神学院の院長だったA.クレヴァコーレ神父でした。神父は、1995年12月28日まで列福運動の担当者を務めました。

○950の作曲と5700通の手紙
 仕事を手がけたら、集まってきた資料の膨大な数に驚かされました。チマッティ神父の著作、本と記事、方々から出てきた作曲、人びとがよせてきた手紙、師が収集し整理した化石、鉱石、貝類、植物の標本の数々は、師の活動と趣味の広さを物語っていました。 今、師の資料館には950ほどの作曲が集められています。その中に、オペレッタは49、ミサ曲は19、聖体讃美式のためのTantum ergoは83、マリアさまの歌は約200、日本語の作曲約400などです。これらの曲を分類し、整理したのは、同じファエンツァ出身の音楽家Ino Savini氏、そして、教え子のRoberto Bosco氏でした。 手紙の数は5700通を越していました。ほとんどイタリア語です。日本語のものは原則としてローマ字ですが、戦時中、監視の厳しい時、カタカナで書いたものもありました。 今も、新しい手紙がよせられることがあります。これほどたくさんが保存されたのは、受けとった人びとがチマッティ神父を尊敬していたことの証拠です。師の心とその霊性を知るために、これらの手紙は類のない貴重な文献となります。ただいま、日本に関係あるものの翻訳が始まっています。

●証言の収集
 生き証人の証言は、列福調査に欠かせません。中には、自発的な証言が多く、東京やトリノの司教から任命された調査委員会の前で行われた公式証言もあります。これらを通して、チマッティ神父について知られていなかったエピソードや、生き方の細かいところまで知ることができます。死後10数年以内に得られた証言ですから、その信憑(ぴょう)性は高いといえます。

●調査終了
 東京教区の調査が正式に始まったのは1976年11月26日。終了したのは1978年1月24日でした。この日、調布サレジオ神学院の聖堂で当時の白柳誠一大司教と調査委員をはじめ、多数の聖職者、サレジオ会員、シスター方が参列し、まとめられた資料50巻がローマの調査委員会に送られました。

○トリノ教区での調査が終了したのは1978年6月3日でした。 その後、教皇から任命された調査委員会の判断を待つことになりました。

●ご遺体は腐敗していなかった
 教会法の規定により、調査修了の前、司教、調査委員、医師団の立会いの元で、ご遺体を検案することになっています。チマッティ神父の場合、1977年11月18日、調布サレジオ神学院地下聖堂で棺を開け、検案を実施しました。列席者はみな驚きました。二人の医師の記録はこう記しています。 「遺体はミイラ状態に非ず、死蝋状態に非ず、白骨化せず、全身にやや湿潤す。死臭は存せず、ただし、特別の匂あり。皮膚は弾力性あり、…軟部組織は柔軟にして弾力性あり、…緒関節は他動的にほどんど正常範囲まで運動可能なり…。以上の所見を総合して、死後12年を経過したる死体としては、われわれ二人の医学常識によっては説明する事は不可能なものである事を認めたい。」 遺体は新しい服を着せられ、新しい石棺に安置されました。 列福には奇跡を必要とします。これは一つの奇跡です。今は教皇庁からの判断を待っています。

最後に白柳誠一枢機卿のお話を紹介します。

白柳枢機卿
「チマッティ神父様は、本当にドン・ボスコの精神を持ち続けた人だと思います。ですから、その活動において非常に活発であり、すごい判断力に富んでいました。また、その基礎には本当に祈る人、がありました。彼の祈る姿は多くの人に感銘を与えました。私もその姿に接したことがあります。現代社会は、聖なる人を求めています。特に教会はそうです。教会は言葉だけでなく、生き方を通して、神の愛を証することが必要です。そういう意味でチマッティ神父様は本当に聖徳高かった。ですから、一日も早く列福されることを心から期待しています。そのためには、皆様方がチマッティ神父様のお取り次ぎを願って特別なお恵みを頂いたとか、奇跡的なことがあったとかで、そういうことがあったならば、それをぜひ関係者に報告して、それがまたチマッティ神父様の列福を早めることになると思います。」

<チマッティ神父の略歴>
1879.7.15 イタリア・ファエンツァでチマッティ神父誕生 同日にカテドラルで洗礼を受ける。洗礼名は「ヴィンチェンツォ・エンリコ・ガスパーレ」。
1899.9 王立トリノ大学自然化学部に入学 - 下級生の音楽と生活指導担当し、 必要に応じて、国語・ラテン語・数学・化学・物理学・農学・教育学も教える。若い会員に人気!ピセッタ神父シンプの下で神学の勉強も始める。
1903.7 自然科学農学部の博士号を修得。
1923.7.18 日本への宣教事業がサレジオ会海外事業開始50周年記念事業となる。日本への宣教師の団長に任命される。
1925.12.29 ジェノワ港からイツ船「フルダ 号 」で9名が出港。船上で後の一橋大学初代学長上村専禄らと出会い、日本語を習い、友情を結ぶ。司祭V.Cimatti, A..Cavoli, G.Tanguy, A.Margiaria, P.Piacenza, L.Liviabella, 修道士L.Guaschino, A.Merlino, G.De Mattiaらと共に来日。
1941.12.20 東京三河島教会の主任司祭となる。
1943.9 イタリア人宣教師は敵国人と見なされ、警察の監視下に置かれる。三河島教会で監禁される。
1944.9 三河島教会の主任司祭を辞め、練馬の神学校へ移る。
1946~ 数々の作曲やコンサートを行う。国分寺サレジオ学園の園歌を作曲。
1952.2.21 調布サレジオ短期大学校の初代学長となる。
1962.3 調布サレジオ神学院院長を退任する。
1965.10.6 朝6時15分に帰天。享年86歳3ヶ月。
1965.10.8 下井草教会で葬儀。府中カトリック墓地に埋葬される。
1976.11.26 東京教区で列福調査が開始される。 生き証人の証言を聴取。
1977.11.18 東京大司教と2人の医師の下で遺体検証が行われる。その結果、遺体が腐敗していないことを確認する。
1978.1.24 日本での列福調査が終了。ローマへ資料を送る。
1978.6.3 トリノ市でイタリアの列福・列聖調査終了。
1981.6.3 チマッティ神父の著書の調査終了。
1991.12.21 ヨハネ・パウロⅡ世教皇から「尊者」の称号を授与される。
1996.5.12 姉・シスター・ラファエラ・チマッティが列福される。
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雑感など

2006-02-22 23:09:41 | Weblog
 雑感など。

                ☆

 『東京藝術大学オーボエ専攻生による同仁教会演奏会』を聴きました。

日時:2006.2.22(水)17時半開場/18時開演 入場無料
会場:同仁キリスト教会(東京メトロ有楽町線「護国寺」駅6番出口より徒歩8分)

 本当に素敵な演奏会でした。

 バッハ、ヘンデル、シューマンなどの作品から、アンドレ・プレヴィン作曲の『トリオ』などまで、多彩な曲が並ぶ面白いプログラムでした。

 出演された皆様、お疲れ様でした。

 最後のバッハの『シャコンヌ』が終わり、会場を出て帰途につきながら、まだ心の中では『シャコンヌ』が鳴りつづけていました。私を含めて多くのひとが泣きたくなるほど感動する音楽というのは。。。ということをなんとなく考えていました。人のこころを感動させて泣かせる音楽というのは、ただ単に哀切なメロディを流せばいいということではないのだなとぼんやり思いました。私は趣味で譜面を書くことがありますが、私がいままで書いた譜面にはまったく価値がないなと思われました。すべて破棄してもいいなというぐらいの気分になりました。与謝野鉄幹の〈ひとを恋ふるうた〉の一節、

ああ、われ、コオルリッジの鬼才なく、バイロン、ハイネの熱なきも。。。

が思わず口を衝いて出てきました。。。

 なんとなくふわふわしたまま家につくと、バッハの『シャコンヌ』の自筆譜をなにはともあれまずは無性に眺めたくなったのでした。。。
コメント (2)
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ハンガリー医学生募集の記事・武満さんの展覧会予告

2006-02-22 10:44:00 | Weblog
 メモ。

《ハンガリーに来たれ医学生 学費格安、選抜は熱意重視》

 医師を目指す熱意ある学生よ来たれ-。ハンガリーの国立大3校の医学部がこのほど、日本からの留学生計約30人を受け入れることになった。入学選抜では成績以上に“心意気”を重視。日本の私立大より格安の学費も魅力だ。
 受け入れるのは、セメルイス、セゲド、ペーチの各国立大。対象は高卒か今春卒業見込みの学生で、入学は今年9月。予備コース(1年間)と医学部(6年間)でいずれも各5人ずつ募集する。
 医学部は、TOEFL500点以上の英語力が必要だが、予備コースは高校の成績など書類審査と面接で選抜。医学部の授業に対応できる英語力や基礎学力を1年間かけて身に付けた後、医学部に進級する。
(共同通信) - 2006年2月21日7時21分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060221-00000027-kyodo-soci

                *

【東京オペラシティアートギャラリー】

(企画展)武満徹 ─ Visions in Time 展

<会期:2006年4月9日[日]~6月18日[日]>

 東京オペラシティ文化財団の芸術監督でもあった武満徹の没後10年を記念して、コンサートホールとアートギャラリーが連動し開催するプロジェクト「武満徹 ─ Visions in Time」。このプロジェクトのメインとなるのが本展です。
 単に作曲家、音楽家という枠にとどまらない多彩な活動を展開した芸術家、文化人であった武満徹の創作世界を多角的に紹介していきます。自筆楽譜やスケッチをはじめ、自身が描いた絵、クレー、ルドンなど武満がインスピレーションを受けた美術作品や、交友のあった美術家たちとの共同作品などを展示。さらには音楽を担当した映画上映やゲストトーク、ミニコンサートなどを予定しています。

http://www.operacity.jp/ag/exh/index_sch.php

開館時間:11:00 ─ 19:00(金・土は20:00まで/入館は閉館30分前まで)

休館日:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、展示替期間中、全館休館日(2月第2日曜日、8月第1日曜日)、年末年始
   ※休館日は展覧会により異なる場合があります。

入場料金:未定(本日現在)

*東京オペラシティアートギャラリーは、とかく忙しい都市でのライフスタイルに合わせ、夜間の開館時間を一般的な美術館の開館時間と比べて延長いたしました。そのほかできるだけ多くの方々に親しんでいただけるよう、閉館1時間前に入場料が半額となる「夜割」などをはじめ、さまざまな割引制度がご利用いただけます。 コンサート前やお食事の後に、ギャラリーの中で、美術に囲まれたゆったりとした時間を心ゆくまでおくつろぎください。
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下落合みどりトラスト基金のこと(メモ)

2006-02-22 09:36:27 | Weblog
 メモです。

 【下落合みどりトラスト基金】のサイトから。

http://www.jsc-com.net/shimoochiai/news/029.htm

(以下は記事の引用です)

                ☆


 現在、E邸の屋敷につきましては、なんとか解体・移築が延期されていますが、工事はいつ開始されるか予断を許さない状況となっています。しかし、現時点でもなお、新日本建設株式会社には減額の意思はまったくなく、要求額(10億8,000万円)と想定買い取り予算額(7億5,000万円)との間には、いまだ3億円の開きがあります。

 わたしたちは考えられる限り、あらゆる努力と各方面への働きかけとをつづけていますが、最終的には中山弘子新宿区長の決断にかかっているといえます。その最後のひと押し/バックアップには、「トラスト基金」の活動ばかりでなく、区民や一般市民のみなさまが強く保存を要望しているという数多くの署名が必要となります。(区長へ提出予定の要望書は、ページ下段に掲載しています)

 すでに、新日本建設に対する署名をいただいている方々も、改めて中山新宿区長あての署名が必要となります。たいへんお手数とは存じますが、いま一度ご署名にご協力いただければ幸いです。

 なお、署名のやり方は、新日本建設(株)のときと、まったく同じ手順です。

■署名の宛先:下落合みどりトラスト基金

shimoochiai.mt@wood.dti2.ne.jp (中山弘子新宿区長あてメール署名)

■署名の方法

●庭園・建築・環境・動物などの学術分野において、文化財や自然を研究されている専門家の方

住所、氏名のほか、所属や専門分野を記載のうえ、上記メールアドレスまでお送りください。

(例) 下落合大学 ○○研究室

●一般のみなさま

住所、氏名をお書き込みのうえ、上記メールアドレスまでお送りください。

                *

《下落合「旧E邸」の保存を求める要望書》

東京都新宿区 区長 中山 弘子 様

                     下落合みどりトラスト基金

                         代表 栗林 義信

 平成16年11月に下落合4丁目9番の集合住宅建設計画が公表されて以来、私どもは様々な角度から保存を模索して参りました。区議会への陳情書、中山区長様への買い入れの要望書ならびに署名、基金活動、専門家による鑑定、業者との交渉などです。活動を続けるなかで、『旧E邸』が如何にすばらしく、保存に値するものであることを実感しております。

 東京大学 藤森 照信教授(建物調査: 建築史家・工学博士)、慶應義塾大学 石川 幹子教授(環境情報学部)、東京環境工科学園技術士の大崎清見氏(庭園調査)、長岡造形大学大学院 上山良子教授(庭園調査:ランドスケープアーキテクト)など専門家の報告をまとめますと、当屋敷や庭園の歴史的重要性、独創性、保存状態および南斜面という立地のよさは、新宿区はもとより都内でも類を見ない貴重なもので、文化財として後世に残すに価するというものでした。

 さらに、おとめ山公園から野鳥の森公園、薬王院と続く緑地帯の一角をなす当地は、東京都絶滅危惧種など貴重な動植物の存在や、文化財保護法に基づく埋蔵文化財包蔵地(新宿No.4遺跡)の隣接地でもあります。すなわち、この『旧E邸』は次の世代に新宿区が何としてでも残さねばならない宝物です。

 間もなく、この屋敷の解体、移築、全ての森の伐採が始まろうとしています。区長のご英断こそが、唯一の保存の手段であり、多くの区民や全国の賛同者も強く望んでおります。後世に誇れる公園にするため、何卒宜しくお願い申し上げます。
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