カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

あるレクイエムのこと

2006-06-30 23:06:35 | Weblog

 ある「レクイエム」風の音楽に関して、あの曲はいったい何だろうと思う、妙な記憶があります。
 そのメロディ自体は、あれはモーツァルト作曲「ピアノ協奏曲第23番イ長調KV488」の第二楽章Adagio、12小節目から第1ヴァイオリンとクラリネットによって演奏される、優雅で哀切な「ラーーーーソ#ーファ#ーミ#ーファ#ーソ#ード#ーーー・・・~」のメロディだとわかっているのですが、これがどういうわけか、小学生のころの私はずっと「レクイエム」のメロディだと思い込んでいました。少なくとも私の耳の記憶では、それは、教会の聖堂で厳かに演奏されていた「レクイエム」の一節でした。誰の葬儀の風景であったかは分かりません。ファゴット、第2バイオリン、ヴィオラ、チェロ&コントラバスの伴奏に乗せて、男声女声の合唱団があのメロディを「レーーーークィ・ェム・ェ----・・・~」と歌っていました。 ピアノ協奏曲ではなくて、本当に「レクイエム」でした。
 モーツァルトの作品の中にそういった合唱作品があるのかなと思い、CDコーナーなどで時々覘いてみるのですが、わかりません。。。私がいったいそれをどこで耳にしたものなのか、自分でも謎です。

 

 

誰のためともなく唄ひはじめるレクイエム太古のままに譜面もなくて

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夢日記など

2006-06-29 13:09:15 | Weblog
 メモです。

 今日6月29日は、瀧廉太郎の命日(1903年歿)、そしてルロイ・アンダーソンの誕生日(1908年生)だそうです。

1908年6月29日生(生誕 98年)アンダーソン Anderson,Leroy アメリカ
1903年6月29日没(没後 103年)瀧廉太郎 Taki, Rentaro 日本

夜の砂にピアノは呑まれてゆくものらし 瀧廉太郎の交響曲(シムフォニ)鳴らして  河村壽仁

***

 夢日記。

 今朝の夢。どこかの会議場にいる私。どうやら私は、日本のブナの森の重要性を軽視し、無闇に破壊することを許してきたこれまでの日本政府のやり方(?)を非難しているらしい。だが、私の意見に対して、日本政府代表者(?)はのらりくらりと答弁するのみで手応えはまったくなし。そのうちに少年少女合唱団が会議場のステージに登場し、耳に親しい、どこかで聞いたようなメロディの「スギの歌」を歌い始める。。。
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早稲田短歌会の歌会について(メモ)

2006-06-29 11:46:31 | Weblog
 今度、7月6日(木)に開かれる早稲田短歌会の歌会には、噂では(?)久し振りに佐佐木幸綱先生がお見えになるそうです。楽しみです。

***

今から数年前の「早稲田短歌」に掲載された記事から。(転載させて頂きます)

http://wasetan.fc2web.com/30/intview.html

「早稲田短歌」30号記念インタビュー
【佐佐木幸綱先生に聞く】

短歌会:今回は早稲田短歌の三十号を記念して先生にインタヴューをお願いしたわけですが、先生が早稲田短歌会にいらっしゃった頃と比べて、今の学生や若い方の短歌をどのようにお考えでしょうか。

佐佐木:当時の「早稲田短歌」を持ってくるのを忘れてしまって、申し訳ないのだけれども、歌の数では、ほぼ同じくらいですね。人数も二十人くらいのもので、大体同じような人数ですね。僕らの時は始終集ってたみたいね。ほとんど毎日歌会やったりね。今日歌会で喧嘩をすると、よし!明日もやろう、といって連続してやったりね。そういう感じでかなりのめり込んでいる奴が始終いたような感じがしますね。どういうことかと考えてみたのだけれど、僕らの頃は六〇年安保の前後だったから、時代のこととか社会の事とかが、かなり身近なテーマとしてあったんですね。自分のことでは喧嘩はしにくいけれども、社会の問題とか時代の問題とかだと共通項があるでしょう。そういうところでのめり込んだのかなって感じを持っています。君たちはみんなそれぞれの世界でがんばってやっていると思いますけれども、そういう社会性みたいなものがちょっと希薄かな、と感じます。まあ早稲田の諸君だけでなく今の時代って言うのが、そういうものなのでね。また短歌だけに限らず今の学生たちは、そういう状況の中にいるのかなって感じがしますね。

短歌会:時代的な共通項を持たない我々は、何を求めていったらよいのでしょうね。

佐佐木:君たちはどういう小説や評論を読んでいるのですか?そういう共通の話題というのがどういう形であるのかな。短歌会や友達同士ではどういう話題で話すのかね。

短歌会:具体的に文学のことについては、あまり話をしないですね。

佐佐木:文学なんて格好悪い?(笑)

短歌会:趣味が細分化されていてなかなか共通の話題で語り合うって事はないです。

佐佐木:ここ三四年の間に、ちょっと状況が変わってきたかな。それまでは、いわゆるネクラが嫌われる状況にあったんだよね。君たち高校生くらいだったかもしれない。とにかく明るくないとダメ。それが「ソフィーの世界」がブームになったくらいのころからね、哲学の事を考えてもそんなに格好悪くないかな、っていうムードが少し出始めたよね。僕のゼミの学生などにも、かえって、暗い方がかっこいいんじゃないかなんていうムードが出てきはじめたよね。一時期は文学なんかはほとんど読まない、本読む奴は暗くて嫌だっていう時代がずっと続いた。多少変わってきたのかなっていう気がしますね。

短歌会:共通の文学の話は難しいですね。

佐佐木:うーん、短歌の世界でもそうかもしれないね。誰もが、これは読んでる、っていうのが、今無いよね。情報量が増えて、好みが細分化され、個別化されているという気がしますね。音楽なんかもそうじゃない?大学一年と四年生じゃ、好きな音楽が違ったりさ、今の高校生と大学生とじゃ、音楽についての話が合わない。どの歌手が好きかなんて、全然変わっちゃってる。サイクルが早くなっている。宇多田ヒカルみたいに、ウワっと出てくるのも珍しいよね。

短歌会:六十年代の短歌の流れには一つの共通項として前衛運動というものがあったと考えられるのですが、今は映画にしろ、文学にしろ、音楽にしろ、前衛というものが何処にあるのか、わからない時代のような気がしますが…。

佐佐木:そうかもしれない。僕らのころ短歌の世界では『短歌』や、『短歌研究』など総合雑誌といわれるものがあって、あと結社雑誌があって、それとは別個に、同人誌がいっぱいあったんだよね。日本中で百くらいあったんじゃないかな。小さいものは一人で、多人数のだと五十人くらいで作っていたんじゃないかな。とにかく自分たちでやりたいことをやる。何をやりたいかというと、前衛的なことをやりたいんだよね。人がやっていないことをやりたい。大きな雑誌ではやりにくいから、とにかく自分たちで小さな雑誌が作ってそういう場を作ってやる。唐十郎さんの赤テントや寺山修司さんの天井桟敷だとか、小さい劇団を作って演劇の中で彼らはどんどん前衛的演劇をやっていたわけだけれども、同じような形だね。自分たちでメディアを作って、自分たちでやりたいことをやる。とにかく「前に行く」ということが信じられる時代だったのかもしれないね。

短歌会:今はなかなかそうは…

佐佐木:うーん。かえって古いことが新しいことだという逆説みたいなのが出てきているでしょう。クラシックなものやアンティークなものが、新しいみたいな感じが、出てきている。前衛的なものが、先の方に突っ走っているのが「なんだ」という感じがあるよね。

短歌会:学生短歌に限らず歌人の方にもそういった傾向があるんですか?

佐佐木:歌壇全体がそういう傾向にあるんじゃないだろうか。映画の世界とか、演劇の世界がそうだし、ファッションもレトロなものが面白がられたりするじゃない。大きくいうと自然に対する考え方というのかな、昔は自然を有効に破壊するというか、未開拓の地域に人間ができるだけ入ってゆく、これが前衛の一つのイメージだったよね。未開拓へつっこんでいく、未開拓なものの大きな要素として自然があったわけだ。だから荒地を耕して農地にするとかさ、密林を切り開いて街をつくるとかさ、そういうのがやっぱり新しい世界を生むことだったわけだけれども今ちょっとそういうことは違うんじゃないのかという感覚があるでしょ。

短歌会:むしろ守っていくという…。

佐佐木:ええ。そういう問題も関係があるんじゃないかという気がしますね。ただ前に行けばいい、切り開いて行けばいいかというとそうでもないぞというのがね、どこかに僕らの心の中にある。

短歌会:ただ対象としてどんどん切り開いていくのではなく、帰ってゆく場所としての…。

佐佐木:ただ、やっぱり基本的に青年は前に行った方がいいよな(笑)。あんまり、引き戻される青年というのはあまりかっこよくない。学生短歌の話に戻せば、できるだけ前に行きたいと考えるほうがいいんじゃないかと思いますね。

短歌会:若手歌人と呼ばれる人たちについては…。

佐佐木:一人をあげるなら、今度、現代歌人協会賞をとった、大口玲子さん。あの人は短歌会には入っていなかったけれども早稲田の文学部にいたんですね。彼女は、東南アジアにおける日本の位置みたいなことを考えているわけだね。東南アジアにおける日本とは何なのか、そういうテーマを持っている、それは否応なく時代性と社会性を持っているわけですね。彼女はうまい形でそういう主題と出会ったと思います。近藤芳美さんとは位置づけが違う。ただ懺悔すればそれで済むかって、そうじゃないだろう、やっぱり新しいこれからの関係を考えていく中で、歴史というものを考え直していかなくてはならない。昔の日本人とは違う札(ふだ)を出しながら、アジアの中の日本という考え方をしているんですね。

短歌会:じゃあ、かなり従来と違ってグローバルな歌のテーマになっているのでしょうか。

佐佐木:そうですね。かなり堅いものですね。

短歌会:僕らも短歌をやってて、自分の詠うときのテーマについて考えさせられるんですけど、社会的、政治的テーマを持った場合、それに対して短歌が表現形式として、はたして適当なものであるか否か、先生はどうお考えでしょうか。

佐佐木:最初っから負けることはないんじゃないかな。政治ほどエロティックなものはないっていう感じ方もあるはずだし、ね。これは西洋料理に合わない素材だといってもワカメだって西洋料理にできるかもしれないし、日本料理に合わないっていってもフォワグラを日本料理に取り入れる人がこの頃いるじゃない。本当はそういうふうに、素材によって分けることはないように思いますね。斉藤茂吉は思想的なものは短歌では詠えないって言っているけれど、それは気にすることはないような気がしますね。

短歌会:モチーフを決める際に、これは詠うまいというものがおありですか。我々の歌会でもこういうモチーフを用いるのはどうだろう、と問題になることがあるのですけれども。

佐佐木:うーん、僕は、そんなに無いですね。ただ、わりとそうかなと思っているのは、佐佐木信綱は、「短歌は愛づる心」だと言っています。愛するということでね。嫌いなものをわざわざ詠わなくてもいい、一生の間喰わないものがあったっていいよ。やっぱり、詠わないものがあってもそれはかまわないでしょうね。毎日ラーメンばっかり喰っているわけにもいかないけれどもしかし、一生一回もラーメン喰わなくったっていいもんな。

短歌会:できるだけ好きなものを詠って…。

佐佐木:ただ、好きか嫌いかわかんないからね、喰ってみないと。若いうちはできるだけいろんなものを詠ってみる方がいい。本当に嫌いなのか好きなのかわかんないもの。ま、俺くらいの歳になると、大体、自分の嫌いなものと好きなものとがわかってくる。若いころはいろんなものを喰った方がいいんじゃないかな。ただ、…ただ一つ。禁欲っていうものがあるじゃない。我慢する。一時、中野孝次さんが「清貧の思想」って言っていた。短歌は、基本的に非常に禁欲的なものだよね。ある種の禁欲主義が、飛躍とか爆発をもたらすこともある。若い人はいろいろやったほうがいいと思うんだけれども、そういう禁欲の意味みたいなものをどこかに思っていないと、なんでも取ればいいのか、なんでもやればいいのかというのとはちょっと違う気がしますね。とくにまあ、短歌とか俳句とか、定型のあるものをやる人は、そういう力学を、人間の心もそういうものだし、言葉っていうものは凝縮されることによって爆発力をもつような部分があるということを、いつか考えてみたほうがいいと思うね。ちょっと話は変わるけど能登半島に行ったときにね、もう随分前ですけれども、四十ぐらいの女中さんが、能登半島を出たことがないっていうんだよ。金沢も行ったことがないっていうんだよ。「TVで東京はどんなところだとか、大阪はどんなところだとか見ているし、特に行きたくもないし」ってことを言っているんだね。そういう風な、能登半島だけで終わる一生っていうのも、ありだなと思った。これは寺山修司さんがよく言っていて、「現実の旅よりも、想像力のほうがずっと遠くに行けるんだ」って言い方でね。そういう逆説はどこかで自分たちの論理の中に組み込んでおかないと、それでまたそれをどこかで自分の行動原理の中にそういうのを入れておきたいね。

短歌会:なんだか歌枕の魅力のようですね。

佐佐木:歌枕はそうですね。

短歌会:早稲田短歌を読んでの感想をお願いします。

佐佐木:二十九号の近藤君の評論。自分のお母さんが亡くなったことと、斉藤茂吉の「死にたまふ母」と重ね合わせた評論。三十枚ぐらいあるのかな。よく書けていると思いました。やっぱり自分の問題とどこかで通じていないとね。自分の心の問題とどこかシンクロしてくるところがないと、ただ調べて書いたって面白くないからね、そういう点でかなりこれは、問題意識がきちんと体に刺さっている感じがして面白く読みました。ただアララギ的な視点だけで茂吉を見たり赤彦を見たりしていますね。茂吉の短歌を丁寧に一首ずつ読んでいるんだけれども、アララギとは違う読み方が出てきた方がよかった。個人でだけではなくて、サークルでやってあげるべきだと思うんだよね、こういう見方もあるんだよとか。そういうことこそやっぱり一人で勉強しているのではなくて、サークルを作っている意味なんだろうと思うしね。

短歌会:先生の時代にも、そういう事を話し合ったりなさいましたか。

佐佐木:そうですね。随分、小野茂樹さんとか、太田比呂史さん、藤田三男さんなど、有力メンバーがいましたからね。小野さんは『地中海』で、太田さんは『未来』、藤田さんは『槻の木』でした。すでにそういう結社で活躍している人がいたな。そうするとそういうところの情報を持ってくるからね。互いにぶつかりあって。

短歌会:早稲田短歌にいながら結社にいた、ということですね。

佐佐木:そうですね。かなりみな短歌漬けだったんじゃないかな。週三日くらい活動していたんだよね。面白い奴は、学校に来ると、ずっと部室にいるんだね。全然授業に出ないで、ちょっと出席取ってくるから、とか言って十分くらい言ってさ、あとずーっとそこにいるんだよ。一週間ほとんど部室にいた人もいるよ。それでもう、土曜とか日曜とかは結社に行ったり何かしてさ。短歌漬けの人が随分いたんじゃないのかな。まあ、当時は出席もいい加減だったし(笑)。

短歌会:そんなに短歌が盛んだった時代があったんですか。

佐佐木:うーん、社会的に盛んだったわけではないですよ。好きな奴の熱中度だね。当時はね、一番勉強になったのはね、コピー機が無かったから、みんな、本を借りて、手で移すんだよね。そうすると憶える。当時お金がなかったもんだから、みんな歌集買ったり、雑誌買ったりできなくてさ、それで、何人かで一冊ずつ買って、後は写したんだよ。それで「おまえ家に持って帰ると持ってこなくなるから、ここで写せ。」とかって言われて、昼頃からずっと写したりする(笑)。暇だったし。麻雀はよくやったかな。だからそんなに暇では無かったけれども(笑)かなり短歌漬けになっているっていう奴は多かったね。

短歌会:その頃は男性が多かったのですか?

佐佐木:そうですね。女の人はあんまり…そうでもないか。十人の内二、三人。だってとにかく品が悪かった人だもの(笑)短歌会は(笑)殴り合いはするしね。議論で負けると飛びかかったり(笑)。一週間に三回ぐらい、月十回ぐらいやった。ときどき誰かが泣くんだよね。やられちゃって(笑)。次来るときは復讐心に燃えて歌会やるわけですね。負けると悔しいから「お前これ読んでないだろ」とか「これ読んでいなけりゃ話にならない、ひっこめ!」とか(笑)そんなことやっていたんだよ(笑)。むちゃくちゃだったな(笑)。

短歌会:短歌会では、必死になって恥をかくという経験が少なくなっていますが…

佐佐木:丁寧みたいだね。後記なんか見ているとみんな随分丁寧で、「○○さんは」とかさ、丁寧な感じがする。それはそれでいいのかもしれないな。僕らのころはまだ多少封建時代の名残が残っていたから、先輩後輩がわりとうるさかったしね。

短歌会:先生は、血気溢れた学生短歌を求めていらっしゃるのでしょうか?

佐佐木:え、求めている?どうかねぇ?(笑)そりゃまあみんなの作る雰囲気だね。ただ同じ仲間だと飽きてくるわけだな。そうすると、よその学校に行ったね。男が多かったから、一生懸命交渉して、女子大へ行った。女子大っていうのは当時はなかなか男を入れなかったんだよね。「男性用トイレがないけどもいいですか?」とかね。守衛さんのところで全員名前書かされたりしたこともあったな(笑)。そういう中から大学歌人連盟というのが生まれた。岸上大作なんかも一緒だけどね。岸上も短歌漬けだったね。結局十校ぐらいは集まったのかな。それで会合やったりなんかしましたけれどね、今はなかなか横の連絡が無い。

短歌会:当時は大学の短歌会同士の交流があったのですか。佐

佐木:ええ、少しはありましたね。 短歌会:今はもう本当に大学短歌会は絶滅に近いですからね。

佐佐木:「京大短歌」は学生だけじゃないみたいだね。確かに状況は変わってきているわけだ。個人でやっている人とか結社に入っている人とか…、学校では集まりにくいんだな。だからこそ今、早稲田でやってみるのも良いんじゃないですか。

短歌会:結社に所属することと違って、学生サークルであることのメリットみたいなものは何でしょうか?

佐佐木:それはやっぱり自分たちだけで勝手なことが言えるのがいいんじゃないかな。僕らの時も、一応、窪田章一郎先生が短歌会の部長でいらっしゃったけれども、コンパの時しか来なかったですね。そしてコンパの時に先輩が大勢来ましたね。やっぱりみんな好きだったのかな、暇だったのかな。寺山修司と最初に会ったのは短歌会の忘年会コンパの時ですね。篠弘さんも来てくれましたね。年に一回くらい先輩や先生が来て、あとは自分たちでやっている。前衛的な作とか実験的な作とか、そういうのはなかなか結社誌は載っけてくれない。自分たちの雑誌だったら何を載っけてもかまわない。まあ、細かいことはいいとして、今の早稲田短歌を読んだところ、遊びが少ないと思いますね。雑誌の作り方もそうだし、それから、作品も。語呂合わせみたいなものも多少ありましたけどね。もっといろんな遊びを考え出してもいいんじゃないか。例えば、こんなのは別に遊びっていうほどじゃないけど、全部上から下へ書くことはない。下から上に書くのでもいいしね。横書きもね。もっといろいろな遊び方があってもいい。問答みたいに二つの歌をセットにするのもかまわないし、ふたり共同で作品を作ってもかまわないしね。少しみんな遊びを工夫した方が面白いんじゃないかね。遊びの中から前衛的な新しいものが生まてくるはずだ。ただここ十年くらいでは、最近は会員が多いんじゃないですか。
短歌会:八十八年頃は八名くらいだったそうです。

佐佐木:猪熊健一君たちの頃はまだ『サラダ記念日』が出て間もない時代だったから短歌ブームみたいなものがちょっとあった。でもそんなに学生はいなかった。

短歌会:これからは、もう少し遊びを取り入れて楽しい早稲田短歌を作って行こうと思います。

佐佐木:遊び、っていうのは、日常、常識から遠くに行くことですから。…(二十九号の途中で切れている短歌作品を見て)途中からないんだよね。こういう切れちゃうやつとか、完結しない作品なんかは、結社誌では載せてもらえない。こういうのはやっぱり学生短歌でしかできないですね。あと単語で、僕が知らない単語がもっとあっていいな。学生言葉でもいいんだし、専門のテクニカル・タームでもいいんだけれども、そういうのがもっと出てきてもいいよね。それからやはり、大学生活に取材したものが出てきてもいいんじゃないかね。それから、非常にクラシカルな人がいてもいいな。ちゃんと文語が使えるとか。文語、古語をきちっと使える二十代の人が出てくるのが歌壇に出る一番の早い道だと思うね。そこが現代歌壇の弱い所なんでね。

短歌会:短歌会には歌を始めたばかりの者も多いのですけれども、そういう者に対してアドバイスをお願いします。

佐佐木:いっぱい読むのがいいと思いますね。何を読むかは先輩に聞く。とにかくたくさん読むのがいいのじゃないのかな。やっぱり誰か書いていたけれど、歌会は、自分の作品がどう言われたかが問題なのではなくて、どう読んだかでね、きちんと読めなければ、作れないから、歌が一番上手になる秘訣はきちんと読めるようになること。それには数を読むことと、深く読むこと、自分の独自の読みができるかどうかですね。そのために評論や歌会を利用すればいい。

短歌会:先生の作歌のエネルギーの源がありましたらお願いします。

佐佐木:『呑牛』は毎日作ったんだよね。あれからほとんど毎日作りますね。二日酔いの時は別だけど(笑)。今朝なんかも午前三時頃起きて三首作った。早く酔っぱらって寝るけどね(笑)。年間五百首くらい短歌作ってますね。歌人か歌人じゃないかという境目は、これは冗談だけれども、年間千首、そして短歌で年収一千万円と言いふらしている。これ以下の奴は歌人というなって言ってんだけどね(笑)。『呑牛』は六百十五首か。僕が学生の頃作った歌を調べてくれた人がいるんですけれども、五百から八百首ぐらい毎年作ってますね。たくさんできる人、非常に数が少ない人もいていいけれど、特に若い人は、爆発的に作った方がいいと思いますね。

短歌会:短歌会へのメッセージをお願いします。

佐佐木:ほとんどコンパのときしか顔を出さなくて申し訳ないのだけれど、ここ二,三年は人数も多いようだし、活動も活発なようだとの感想をもっています。集団は、とにかく元気と活気だからね。注文があるとすれば、「早稲田短歌」をもう少し挑戦的、挑発的な雰囲気にしてほしい、ということぐらいかな。僕のときは「二七号室通信」という小回りの利くメディアを作って、既成歌壇を挑発し、先輩歌人たちに挑戦した。若さの魅力を持つ学生短歌の再出現を待っている人も多いはずだから、がんばってほしいと思います。コンパのときはぜひ声をかけてほしいな。

―インタビュー・了―

***

早稲田短歌会公式HP
http://wasetan.fc2web.com/
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柿の話(メモ)

2006-06-28 13:03:15 | Weblog
【次郎柿の原木 献上柿として有名!】

 甘柿の王様「次郎柿」は、弘化年間、 森町五軒町(現栄町)の 松本治郎さん(1813-1887年)が、太田川の洪水で一本の柿の幼木を持ち帰り、裏庭に植えたのが始まりです。 この柿は四角いめずらしい形の甘い柿でしたが明治3年の火災で焼失しました。 しかし、その後再び生えた柿は、以前より甘い実となって、今では柿の王様「次郎柿」として知られています。 この木は、今も現存し、県の天然記念物に指定されています。 また、次郎柿の献上は、明治41年から行れています。

http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/kankou/bunkazai/jirou.html

***

【次郎柿の原木:側溝が根の成長阻害、移植を検討 保存会総会で報告--森町 /静岡】
(2006年6月27日更新 毎日新聞記事)

 森町にある次郎柿の原木(県の天然記念物、樹齢約160年)の移植が検討されていることが1日、同町内で開かれた次郎柿原木保存会(友田和夫会長、会員167人と17団体)の今年度総会で報告された。同会相談役、竹田康治さん(79)が「家庭排水の側溝が原木脇にあり根の成長を妨げている」と述べた。保存会は県などと相談するが移植は樹勢回復を待つため数年先になりそう。
 原木は約10年前から幹に空洞がみつかるなど傷みが激しくなり04年4月、保存会が結成された。県柑橘(かんきつ)試験場西遠分場長を務めた竹田さんが、枝の先端を幹に接木して栄養分の経路を作ったことなどで昨秋、60個の実が収穫できた。
 原木周辺には民家が接近。排水溝のコンクリート壁が根元を遮断している。竹田さんは「外観は元気だが、このままでは根が十分に発育しない。民家側から数メートル動かしたい」と語る。保存会では慎重に検討するという。
 次郎柿は江戸時代末、松本次郎吉が川原で柿の幼木をみつけ自宅で育てたのが始まりとされ地元が「世界で一本の木」として守ってきた。【舟津進】

http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/shizuoka/archive/news/2006/06/02/20060602ddlk22040046000c.html
***

【柿カレー】

柿を入れた変わり種カレー。

《5人分》
 柿・・・・・・・ 1個
 玉ねぎ・・・・・・・ 1個半
 じゃがいも・・・・・・・ 1個
 肉・・・・・・・ 200g
 サラダ油・・・・・・・ 大さじ1
 市販のカレールー・・・・・・・ 100g
 水・・・・・・・ 800ml

1.鍋にサラダ油を熱し、適当な大きさに切った肉、じゃがいも、玉ねぎをよく炒めます。
2.水を加え、沸騰したら8等分に切った柿を入れます。
3.あくをとり、材料がやわらかくなるまで煮込みます。
4.カレールーを入れ、再び煮込んで出来上がり。

《ワンポイント》

※ 柿は細かく切ったものをいれてもOK。

http://www.homecoming.jp/cook/cook.asp?ID=97

***

柿料理のレシピ集など
http://www.homecoming.jp/season/040901/index.asp

***

【柿(上)・濃厚な甘み「次郎」】
(読売新聞記事・「農のくに再発見」より)

 果肉のだいだい色がまぶしい柿が、特別な味付けも、飾りもないまま、ほのかな甘い香りを漂わせていた。今年4月にオープンした東京プリンスホテル・パークタワー(港区)内のてんぷら店「天芝」。小泉首相も時折訪れるという有名店に、9~10月の約2か月間、季節のデザートとして登場した静岡産の次郎柿だ。
 遠藤尚人料理長(46)は「濃厚な甘みと香りがあり、それでいて実がしっかりしている」と次郎柿の魅力を語る。「天芝」のオープン前は、東京プリンスホテル内のてんぷら店「福佐」で常連客の作家五木寛之さん、歌手五木ひろしさんらに腕を振るっていたという。
 「牡蠣(かき) 岩手」「アスパラ 長野」など、全国から仕入れた食材を産地名と共に壁掛けの札で紹介し、「料理は食材でほぼ決まる」と言う遠藤料理長。秋の料理の締めとして、手を加えずに出される次郎柿。店の食材へのこだわりがうかがえる。
 森町の次郎柿は、献上柿として知られる。1908年の明治天皇の行幸をきっかけに、毎年のように次郎柿が皇室に献上されてきた。「まずは安全が第一。そして召し上がって喜んで頂けるよう、とにかく甘い柿作りを目指しています」
 曽祖父の代から献上を続け、4代目となる同町森、農業太田忠兵さん(66)は、皇室への献上を続けたことが、次郎柿の品質を高めたと胸を張る。
 次郎柿と並んで、静岡で忘れてはならない柿がもう一つある。長泉町の四ツ溝柿だ。愛鷹山のふもとが主産地で、文字通り溝が四つある。次郎柿より二回りほど小さく、ハート形で縦に長いのが特徴。何より甘柿の次郎柿と異なるのは、渋柿という点だ。脱渋後の、甘柿とはまた違った甘みと、シャキシャキとした独特の歯ごたえが食通に好まれてきた。
 財団法人地域活性化センター(東京都中央区)の公式ウェブショップ「特産品倶楽部」。都道府県や市町村が推薦する各地の産品を紹介するサイトの中で、「お歳暮特集」として、四ツ溝柿が売り出されている。長泉町では、四ツ溝柿をジャムに使ったパンも考案されており、「四ツ溝柿を使った定番の土産品を作りたい」と関係者も意欲的だ。
 四ツ溝柿は、全国に広がる次郎柿とは正反対に、県内消費が大半を占めてきた。しかし、ここに来て、地元では、次郎柿に勝るとも劣らない、この柿を外に向かってアピールしようと懸命だ。町産業環境課は「四ツ溝柿を売り込んで長泉町を少しでもPRしたい」と取り組みを本格化させる。
 他に類を見ないほどの甘さが魅力で、高級和食店や皇室への献上など、華やかな話題に事欠かない次郎柿。渋をぬくことによる独特の味わいで、知る人ぞ知る、まさに渋い存在感を示してきた四ツ溝柿。好対照な二つの柿が地域でしっかりと受け継がれてきたことが、静岡の農の懐の深さを物語っている。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/kikaku/074/13.htm

**

【柿(下)・進化する渋抜き】
(読売新聞記事・「農のくに再発見」より)

 柿のルーツは、中国渡来説、日本原生説など諸説紛々だ。しかし、いずれにしても、原種は渋柿で、甘柿は変異によって生まれた少数派。だからこそ、長泉産の四ツ溝柿のように、渋をぬいてまで、渋柿を食する文化が国内で定着し、受け継がれてきたわけだ。
 柿の渋みは、含有されているタンニンの混合物が原因だ。水分に溶けると、味覚神経に作用し、渋みを発生させる。渋ぬきは、このタンニンを水に溶けない状態にするもので、甘柿では得られない、甘くて軟らかい、ほっぺたが落ちるような味わいが生まれる。
 その渋ぬきと言えば、かつては、湯や焼酎につけ込む素朴な作業だった。しかし、現在は、特製ビニールシートで柿を密閉し、そこへ液化炭酸ガスを注入する方法が主流となっており、四ツ溝柿も同様だ。
 地元のJAなんすんでは、一歩進んで「一石二鳥」方式を軌道に乗せ始めた。熟成する直前に、ポリエチレン袋で真空パックし、柿から自然発生する炭酸ガスを利用して渋ぬきするとともに、1か月余の長期保存を可能にしている。
 二代にわたって四ツ溝柿を栽培している「下山柿園」(長泉町元長窪)も、炭酸ガス方式を採用している。農園主の下山哲夫さん(56)は「10月から12月にかけての収穫に限られているが、将来は、年中食べられるようにしたい」と新たな栽培方法を模索中だ。

〈森町は「次郎」アピール〉

 先人の知恵とも言うべき渋柿の渋ぬきだが、裏を返せば、この手間暇がいらない甘柿が国内に広がったのは必然といえる。次郎柿の生産量は国内では富有柿に次いで多く、ともに「甘柿の横綱」と称される。
 県内では浜松市が最大産地だが、森町は次郎柿のふるさととして全国にアピールしようと懸命だ。次郎柿を原料にしたワイン、ようかん、もなかなど、数多くのアイデア産品を生み出す中で、その象徴となってきたのが、県の天然記念物に指定されている「次郎柿原木」だ。
 その由来をひもとくと、1840年代の弘化年間にさかのぼる。松本治郎氏が、近くの太田川はんらんで堤防に流れ着いた一本の柿の苗木を持ち帰り、家の裏庭に植えた。すると、まさに「桃栗三年柿八年」の言葉通り、8年後に実を結んだ柿の味は、甘い水分をたっぷり含んだ、極上のものだった――。
 1870年に一部焼失したが、再び発芽して成長したのが、現在の原木だという。一時は、樹勢の衰えなどから枯死の危機も叫ばれたが、昨年4月に町民有志が「次郎柿原木保存会」を結成。樹木医の指導も受けながら保存運動を進め、今年は約60個の実がつくまでに回復した。
 ルーツが定かでない柿は、フランスでは「KAKI」と呼ばれ、愛好されている。成長とともに自然にタンニンの渋みを甘みに変える次郎柿、人の手で渋みをぬく四ツ溝柿とも、静岡が世界に出しても恥じない「KAKI」に違いない。(横堀裕也)

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/kikaku/074/14.htm
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メモ二題。「メンコン蛙」と「笹原」のこと。

2006-06-27 14:47:16 | Weblog
 メモ二題。「メンコン蛙」と「笹原」のことです。



 まずは、北原白秋の歌に出てきた「メンコン蛙」のことです。

 北原白秋歌集『黒檜』から。

土もぐるメンコン蛙(がへる)眼ばかりを上のぞかせて吼ゆとふかなや  北原白秋

ラヂオにはメンコン蛙(がへる)くくみ啼き鳴る瀬のうつつ螢が飛ぶも  北原白秋

 韓国語の「メンコンイ」がかなり怪しい気がします。。。

***

ソウルアカデミーブログ
http://seoulac.exblog.jp/1905305

第 45号 ソウルアカデミー ニュース ■□■
□■今週の知っとく単語、会話及び韓国文化―李 芝善先生

「じむぐりがえる」

 皆さんは「メンコンイ」というフランス語のような韓国語を聞いたことがありますか?
 メンコンイとは何だと思いますか?日本は韓国よりも早く田圃から彼らの歌声が聞こえて来ますが、ちょうど今頃ですね。メンコンイとはメンコンイ科の両生類の一つで、「じむぐりがえる」のことを言います。普通の蛙とは泣き声が違いますので、皆さんも聞いたらすぐ分かると思います。体は4cmほどで、背中は青みを帯びた黄色です。頭と胸に薄い黄色の柄があり、蛙に似ていますが、もっとずんぐりしてみずかきがありません。夜に土中から出て活動し、曇った日や雨が降る時メンコンメンコンという音を出します。
 この言葉にはもう一つの意味がありますが、見た目が鈍い感じからでしょうか…。愚な人、または、不器用で、言葉が息苦しい人などを冷やかし調でいう言葉ですが、親しい関係でも、自分自身にも使えます。不器用なところが魅力で、かわいい時に使ってみてください。使い方によっては、悪い言葉にもなりますので、使う時には親しみを込めて言いましょう。(了)

***
***

 次いで、「笹原」のことです。

 宮柊二歌集『多く夜の歌』の「父最期」の一連より。

花をもて埋(うづ)めし父のなきがらを一夜(ひとよ)守(も)りつつ蛙(かはづ)ききけり  宮柊二

笹原の笹のつばらに朝日来てこの静けさの悲しき朝かも  宮柊二

***

【塚本邦雄 著『百珠百華 葛原妙子の宇宙』(砂子屋書房、2002年)巻頭の「百韻朗朗」より】

 先蹤(せんしょう=先人の事跡)のない文学はない。(中略)藤原俊成に「紫式部、歌よみの程よりも物書く筆は殊勝の上、『花宴』の巻は殊に優あるものなり。源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり」なる名言(一喝)を吐かせた、『六百番歌合』のお題「枯野」における、左方、藤原良経の歌「見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに」に対する、右方人(みぎかたうど)の陳難(=相手方の歌に対する非難、難癖、文句)「『草の原』聞きつかず(=このような歌で『草の原』が使われるのを聞いたことがない)」にしても、右方人は必ずしも俊成の一喝に恥じてばかりいる必要もなく、あれは「先蹤」の複雑微妙な存在と本歌取りのむづかしさを洞察した俊成に劣らぬ名言であった、と考えようによってはいえるのではあるまいか。すなわち、「草の原」が源氏物語出典の言葉であることぐらい、時の右方人も十分に承知していたはずだ。(中略)「源氏見ざる歌よみ」どころか、十分に読破していたからこそ、「草の原」が、源氏物語の「花宴」では瑩域(えいいき)・墓所として用いられており、「花宴」に出てくる朧月夜内侍の歌など、そのように解釈しなければ意味不明になると理解していた。だからこそ、右方人は「墓所(くさのはら)聞きつかず」と言ったのだ。古歌に「草の原」を一首の中にまじえた例は三十や五十ではきかないだろう。もちろん源氏物語以前にも多々あったはずだ。右方人のあの発言は、「花宴」で最もクローズアップされた「墓」の忌詞(いみことば)風表現としての用語をば、事もあろうに、歌合歌に用いるとは「聞きつかず」、と幾分の諷刺の気持ちも込めて発せられたものだ。そして、さらに皮肉な事に、詠んだ当人である良経自身も、この「草の原」に、源氏物語風、忌詞風の意味など、いささかも期待してはいなかったと思われるのだ。(後略)

***

 深読みかもしれませんが、宮さんの二首目、「草の原」=墓、という源氏物語にある忌み言葉的用法を踏まえて、「笹原」を詠まれたのではないか、とふと思いました。どうなのでしょうか。。。
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短歌鑑賞(?)メモ

2006-06-26 08:14:14 | Weblog
 近藤先生の「或る楽章」と小野さんの「五線紙」。

 つい先日に亡くなられた近藤芳美先生の初期歌集『早春歌』昭和23年 には、瑞々しい感性の横溢した、美しい面白い作品が多く、読んでいて楽しいです。たとえば、こんな2首に惹かれます。

枯枝の影をふみつつ歩み行く吾の今宵を知る人はなし  近藤芳美

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき  近藤芳美

 1首目の、不思議で、秘密めいた雰囲気は、読み手にいろいろな想像をさせます。。。2首目の「或る楽章」のうたは、私にあるうたを思い起こさせます。小野茂樹さんの歌集『羊雲離散』昭和43年 の中の次のうたです。

五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声  小野茂樹

 いずれも「音楽」的な作品で、惹かれます。

***

 五島美代子さんの自選歌集『そらなり』昭和46年 の中の一首。

ベートヴェンが見たりし月夜こよひひそかにこの国照らせり敗れし国を  五島美代子

 このうたは、戦争が終わって間もない頃のコンサートの帰りの様子を詠われたものだと思いました。作中主体がベートーヴェンの第九(私は漠然とそう想像しました)を口ずさみながら歩く夜道には、月光(つきかげ)がやわらかく照らしていて、周囲の焼け跡の様子がぼおっと浮かび上がっているのかもしれません。戦争に敗れて得られた平和をこのように詠まれていることに、ドキリとしました。惹かれる一首です。
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日録風メモ

2006-06-26 07:55:11 | Weblog
 昨夜は、ながら族しながらNHKFMを聴いていると、『サウンド・ミュージアム』という番組が坂本龍一氏の特集をやっていて、ゲストが中沢新一氏。話のテーマが〈縄文について〉。面白くておもわず耳を傾けてしまいました。なんとなく耳に残ったことのメモ。

 東京タワーもエッフェル塔も死者のためのお墓の塔である。意図してなのかせずなのかわからないけれども、塔が建てられている場所はそういう場所。

 沖縄や隼人や青森(六ヶ所、三内丸山)は、縄文文化の中心地であった。基地問題で揺れる沖縄。原子力問題で揺れる六ヶ所。

 弥生人が入ってきて縄文人を駆逐した。マイノリティとしての縄文人の歴史と文化と神話。

 映画モスラに見られる縄文の神話との符合の不思議。

 こういう話、ぜひ詳しく本にしてもらいたいです。面白いです。

***

 ただ今、午前3時。気分転換に、と歌集を開いてみるのですが、草木も眠る丑三つ時のせいか、身体が言霊に感応しやすいです。。やや危うい感じがします。

 日高尭子先生の歌集『樹雨』より。

古蒲団蔵(くら)に冷えゐつこの中に眠りし骨肉もみな死にはてき  日高尭子
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カメ(メモ)

2006-06-24 15:19:03 | Weblog
画像:去年175才の誕生日を迎えたときのハリエットと、自然保護論者スティーヴ&テリー・アーウィン夫妻(REUTERS/Australia Zoo/Ho提供)
http://ameblo.jp/tokyoline/day-20051124.html

《インドの動物園、推定年齢250歳のゾウガメが他界》
(2006年03月24日11時37分朝日新聞)

 [コルカタ(インド) 23日 ロイター] インドのコルカタ動物園では23日、推定年齢250歳のアルダブラゾウガメが肝不全のため死亡した。
 地元当局によると、この亀はもともと、18世紀中頃に英領インドの基礎を築いた英軍人ロバート・クライブのペットとして飼われていたものだという。
 また、ベンガル語で唯一無二を意味する「Addwaitya」と名付けられたこの亀について、科学的な裏付けは今のところ示されていないものの、地元関係者は世界最高齢だったと主張している。
 西ベンガル州のバーマン森林相は「この亀が150歳以上だったことを証明する書類はあるが、信頼できる筋からの証言などを集めた結果では、250歳を超えていたと考えられる」と語った。

http://www.asahi.com/culture/enews/RTR200603240032.html

*

《Welcome to Central Zoo Authority's Website》
http://www.cza.nic.in/

Striving to enact legally enforceable standards and norms of upkeep and management of animals in zoos.... this premier organization of India

*

《推定250歳のカメ、インドの動物園で死亡》
(AP通信)

 インド、西ベンガル州コルカタ(旧カルカッタ)発――推定年齢250歳というアルダブラゾウガメが肝不全のために当地の動物園で死亡したと、インド当局が23日(現地時間)に発表した。
 このアルダブラゾウガメは、18世紀半ばにイギリスによるインド支配の基礎を築いた有名な英陸軍将校、ロバート・クライブのペットだったと、西ベンガル州の大臣は述べている。
 地元の関係者によると、このカメは「アドワイチャ」(Addwaitya)――ベンガル語で「唯一のもの」という意味――という名前で、世界で最高齢の動物だったということだが、科学的根拠は示されていない。
 「歴史的文献には、このカメは、東インド会社のイギリス人将校、ロバート・クライブのペットで、その広大な屋敷で数年間を過ごしたと書かれている。その後、およそ130年前に動物園に連れてこられた」と、西ベンガル州環境森林省大臣のジョゲシュ・バーマン氏は述べた。
 「われわれの手元には、このカメが150歳を超えていたことを証明する文書がある。だが、信頼できる筋からの文書など、その他の証拠をつなぎ合わせてみると、このカメは250歳を超えていると思われる」と、バーマン氏は述べた。
 バーマン氏は、このカメの幼年期については詳細な記述が残されていると述べ、それによるとこのカメはイギリス人水夫によってセイシェル諸島から持ち込まれ、当時東インド会社内の軍隊で頭角を現わしていたクライブに贈られたとみられると語った。
 23日、カメがいなくなった動物園の囲いは物悲しい雰囲気に包まれていた。
 「われわれにとって悲しい日だ。あのカメがいなくなって、これからはとても寂しい思いをするだろう」と、動物園の飼育係は述べた。
 アルダブラゾウガメは、インド洋のセイシェル諸島にあるアルダブラ島で発見された。平均体重はおよそ120キログラム。この種のカメはすべての動物の中で最も長生きだと考えられており、100歳を超える個体も多い。
 [日本語版:天野美保/長谷 睦]

《250-Year-Old Tortoise Dies》
(Breaking News from AP:Associated Press09:30 AM Mar, 23, 2006 EST)

KOLKATA, India -- A giant aldabra tortoise thought to be around 250 years old has died in the Kolkata zoo of liver failure, authorities said on Thursday.

The tortoise had been the pet of Robert Clive, the famous British military officer in colonial India around the middle of the 18th century, a local minister in West Bengal state said.

Local authorities say the tortoise, named "Addwaitya," meaning the "The One and Only" in Bengali, was the oldest tortoise in the world but they have not presented scientific proof to back up their claim.

"Historical records show he was a pet of British general Robert Clive of the East India Company and had spent several years in his sprawling estate before he was brought to the zoo about 130 years ago," West Bengal Forest Minister Jogesh Barman said.

"We have documents to prove that he was more than 150 years old, but we have pieced together other evidence like statements from authentic sources and it seems that he is more than 250 years old," he said.

The minister said details about Addwaitya's early life showed that British sailors had brought him from the Seychelles islands and presented him to Clive, who was rising fast in the East India Company's military hierarchy.

On Thursday, the tortoise's enclosure wore a deserted look.

"This is a sad day for us. We will miss him very much," a zoo keeper said.

Wild Aldabra tortoises are found in the Aldabra island in the Indian Ocean Seychelles islands. They average about 120 kg. It is believed that tortoises are the longest lived of all animals, with life spans often surpassing 100 years.

http://www.wired.com/news/wireservice/0,70480-0.html

***

《世界最高齢176歳のカメ死亡 オーストラリア》
(2006年06月24日10時21分朝日新聞)

 ギネス・ワールド・レコーズ(ギネスブック)に生きている動物としては世界最高齢と記載されていた176歳のガラパゴス・ゾウガメ「ハリエット」が22日、飼育されていたオーストラリア東部ブリスベン近郊のオーストラリア動物園で死んだ。豪AAP通信によると、死因は心臓発作とみられる。
 ギネス・ワールド・レコーズには、ハリエットはメスで1830年11月15日にガラパゴス諸島で生まれたと書かれている。進化論で知られる英国の生物学者ダーウィンが1835年に捕まえ、英国に連れ帰ったといわれ、その後、ダーウィンが豪州に向かう友人に贈ったとされる。
 1960年代まで約100年の間はオスと間違われ、「ハリー」と呼ばれていた。88年にオーストラリア動物園に引き取られた。体重約150キロ、体長1メートルの悠然とした姿で来園者に親しまれていた。
 動物園の経営者は「彼女は偉大な老婦人だった」と死を悼んでいる。
 世界最長寿のカメとしては、65年に188歳で死亡したマダガスカルのカメがギネスに登録されている。

http://www.asahi.com/international/update/0624/004.html
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memo

2006-06-24 13:06:56 | Weblog
 あれから15年も経つとは驚きです。あの頃、学校で教えて頂いていた恩師の先生がちょうどラシュディ氏の小説『恥』を翻訳出版され、「僕も命を狙われるかもしれない。。。しかし、ラシュディ氏の小説を日本に紹介することは大事なことだと思っています。彼の作品は、文学作品として評価できるものです。」と授業中にしづかにきっぱりと仰っていたのが印象的でした。

 あの忌まわしい事件が、ある狂信的な一部の人たちによる言論封殺抹殺を企む見せしめ的犯行であったのかどうかよくわかりませんが、いずれにしても、犯人が一日も早く逮捕されて法廷の場できちんとした裁きを受ける日が来ることを願ってやみません。。。

 以下、メモです。

***

弁護士落合洋司氏(東京弁護士会)の「日々是好日」#1149951489
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060610#1149951489

【会の参加者でイラン情勢に詳しい元新聞記者、佐藤陸雄さん(66)から5月、情報がもたらされた。米シンクタンク研究員で中東情勢の権威、ケネス・ポラック氏の著作を翻訳していたところ「悪魔の詩の日本語翻訳者は(イランの武装組織の)イスラム革命防衛隊に暗殺された」との記述があった、というのだ。】(朝日新聞記事)

 日本在住の者によったのか、あるいは外国から送り込まれた刺客によったのかはわかりませんが、上記のような背後関係があったということには、うなずけるものがあります。
 若い頃は、よくイラン人の被疑者を調べることがありましたが、イランの、イスラム法による裁判の刑はものすごく重い(日本では「残虐な刑罰」と言われるものかもしれません)と言って、ひどく恐れている者がいた記憶があります。
 犯人検挙が難しいとしても、せめて、どのような組織がどのような意図で実行したのかだけでも解明されれば、ご遺族の救いになるのではないかと思います。

***

《悪魔の詩:翻訳者殺害…手がかりなく、時効まで2週間余》
(2006年6月24日10時21分毎日新聞記事)

 イスラム教を冒とくしたと議論になった小説「悪魔の詩」の翻訳者で筑波大助教授だった五十嵐一(ひとし)さん(当時44歳)が殺害された事件は、7月11日午前0時に15年の時効となる。有力な手がかりはなく、事件は多くの謎が残されたまま。時効成立まで2週間余となった五十嵐さんの妻雅子さん(58)は「少しでも新たな情報がほしい」と訴えている。【三木幸治、栗本優】
 五十嵐さんは91年7月11日夜、茨城県つくば市の筑波大構内で殺害された。研究室のある7階エレベーターホールで鋭利な刃物で首など十数カ所を切られた遺体が見つかった。現場には五十嵐さんとは別のO型の血痕や中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5センチ)が残っていた。県警は外国人の犯行の可能性もあるとみて調べたが、目撃証言や物証が少なく、捜査は難航した。
 今年に入り、元CIA(米中央情報局)のケネス・ポラック氏が著作「ザ・パージァン・パズル」の中で「(五十嵐さんは)イラン革命防衛隊によって暗殺された」と指摘していることが分かった。同防衛隊はイランに三つある軍隊の一つで、反体制派やテロ組織の壊滅が任務といわれる。この本の日本語版は7月12日に小学館から出版される。県警もこの情報を把握しており、仮に犯人が国外に逃亡している場合はその期間だけ時効が延びる。
 毎年7月に五十嵐さんの回想会を開いてきた雅子さんは「夫は二十数カ国語を話す博学で行動的な人だった。事件を風化させたくない」と訴えている。
 ▽悪魔の詩 英国人作家、サルマン・ラシュディ氏が88年に出版した小説。当時、イランの故ホメイニ師は「マホメットとイスラム教を冒とくする内容だ」と批判、著者に死刑を宣告した。91年7月3日には同小説のイタリア語版翻訳者が「イラン人」を名乗る男に頭などを刺され重傷を負う事件も起きた。

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060624k0000e040020000c.html

***

「悪魔の詩」翻訳者殺害7月時効 手がかり求め遺族奔走
(2006年06月10日15時47分朝日新聞記事)

 イスラム教を侮辱したとして物議を醸した小説「悪魔の詩」の翻訳者で、筑波大助教授の五十嵐一さん(当時44)が91年、筑波大構内で刺殺された事件が今年7月で時効を迎える。「国際テロ」の疑いでの捜査も進められたが、真相は不明のまま。遺族は、もどかしさを募らせている。
 犯行現場では、五十嵐助教授とは違うO型の血液が検出され、階段には血だらけの足跡が残されていた。足跡は27.5センチの中国製カンフーシューズと判明。つくば中央署の捜査本部は製造元や販路を割り出すため、中国の公安当局に照会したが、特定できなかった。
 犯行日は五十嵐助教授の夏休み前最後の出勤日。犯人は入念に下見をしたか、助教授をよく知る人物ではという見方も浮上。交友関係をつぶす捜査が進められた。
 事件の10日ほど前には、イタリアでも翻訳者が襲撃される事件があり、捜査本部は関連に注目。つくば市内のイスラム教徒の居住状況なども調べたが、直接の犯行声明などがなかったこともあり、決め手を欠いた。
 当初100人で始まった捜査態勢は次第に縮小。他県で逮捕された外国人が「事件について情報を持っているらしい」という情報が年に1~2件寄せられる度に捜査員を派遣したが、犯人特定にはつながらなかった。
 妻の雅子さんは、東大生時代に一さんと知り合って結婚。事件当時は中学生の長女と小学生の長男の子育て中だった。
 事件後、茫然(ぼうぜん)自失の状態が続いたが、子どもを養うために大学教員の世界に飛び込んだ。今は帝京平成大学で比較文学の助教授を務め、笑いを取り入れた講座の全学的な展開に奔走する。
 夫の業績を風化させたくないと、7月の命日前後には都内で「しのぶ会」を欠かさず開いてきた。毎年、学者仲間ら百数十人が集う。
 会の参加者でイラン情勢に詳しい元新聞記者、佐藤陸雄さん(66)から5月、情報がもたらされた。米シンクタンク研究員で中東情勢の権威、ケネス・ポラック氏の著作を翻訳していたところ「悪魔の詩の日本語翻訳者は(イランの武装組織の)イスラム革命防衛隊に暗殺された」との記述があった、というのだ。
 犯人が海外にいるのなら時効は停止する。「有力な手がかりになるかもしれない。会を開いてきてよかった」と期待する。
 自宅の書斎には、イスラム文化を愛した夫が、かつてイランで買い込んだ膨大なペルシャ語の文献数百冊が眠る。事件後、独学で何とか文字が読めるようになった。
 「だって悔しいじゃない。形見の本の題名もわからないなんて」。ただ事件が解決しない限り、本の整理に手をつける気にはなれないでいる。

   ◇

 〈キーワード・筑波大助教授殺人事件〉 91年7月12日朝、筑波大学人文・社会学系A棟7階エレベーターホールで、五十嵐助教授が血まみれで倒れているのが発見された。内臓に届く深い刺し傷が数カ所あり、首はほぼ切断された状態だった。五十嵐さんは、イスラム教を冒涜(ぼうとく)しているとしてホメイニ師から死刑宣告された英国人作家サルマン・ラシュディの小説「悪魔の詩」を翻訳。90年2月の翻訳出版会見では、会場にいたパキスタン人から抗議を受けた。

http://www.asahi.com/national/update/0610/TKY200606100227.html
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短歌の読み、善行の前に、豚肉の紅茶煮(メモ)

2006-06-23 18:12:48 | Weblog
「青磁社」サイト:週刊時評2006年6月19日(by歌人・吉川宏志氏)
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_060619.html

 吉川さんは
「『正論』七月号の「負け犬サヨクの癒し場発見! 『朝日歌壇』」(中宮崇)という文章を読み、いろいろと考えさせられた。(中略)短歌は誰でも気軽に作れるという特徴があるので、詳しく調べることをせずに、誤った情報や思い込みをそのまま表現してしまう危険性があるのである。自戒すべきことだろう。(中略)ただ、中宮氏の言説にも危うさを感じる点がある。(中略)短歌を読む場合も、細部に言いがかりをつけるような読み方をすべきではない(後略)」
と書かれていますが、「細部に言いがかりをつけるような読み方」の箇所でドキリとしました。

 歌会に出て、たまたま順番で、ある歌についてコメントを求められたときに、どうしても読みきれなくて苦し紛れに「言いがかり」めいたことを言ってしまったことは、残念ながら何回もあります。
 思わず反省させられた言葉でした。。。

                ☆

 糸井重里氏の「ほぼ日」の文章より。

 メモです。

***以下は糸井重里氏の「ほぼ日」の文章よりの引用です***

 「自分たちはいいことしてる」と思っていると、絶対にろくなことはありません。「いいことをしてない人」に強く働きかけようとしたり、いいことをしているのだからと図々しく声高になったりしやすくなります。いや、まだ自分はそんなふうになっているとは思わないのでありますが、そうなる可能性があるぞ、と。ほんとに気をつけようと思います。

 『善いことは、我慢できなくなったらしなさい、でも、すこし恥ずかしいと思うくらいの気持でやらせてもらうのがいい。それができないくらいなら、しないほうがいいかな?』
 <セイフティ・マッチ氏の銀の言葉より>

***以上引用おわり***

 この言葉、じつに素敵な箴言だと思います。

 典拠とされている「セイフティ・マッチ氏の銀の言葉」についてもっと知りたいと思い、調べてみました。どうやら実在しない文献名であるようです。
「セイフティ・マッチ」氏についても、その正体は

「セイフティ・マッチ」→「安全・マッチ」→「ライター(火を点けるもの)」→「ライター(物書き)」

ということらしく、どこかの「物書き」氏のことを指すようです。

 どうやら糸井さん一流の愉しい言葉遊びであるようです。。

                ☆

 メモ。

 すごくおいしそうです。夏にぴったりの料理と言えそうです。

***

 以下は、ある知り合いの方がMLに書かれていた簡単なレシピです。。。

《豚肉の紅茶煮》

 たっぷり塩胡椒をした豚肉のロースかモモ肉の固まりを、一塊分をばらしたニンニクと一緒に鍋で焼いてから、紅茶のティーバッグと一緒に煮るのです。豚肉の脂が抜けてさっぱりした食感になります。洋芥子をつけて、生野菜のサラダと一緒に食べます。今日の生野菜はレタス、きゅうり、トマトです。

 茹で汁の方は濃厚なスープなので、今日は玉ねぎとナスとトマトを入れました。あとで食べるときに葱のみじん切りを散らします。

***

(ご参考)より詳細なレシピを見ることが出来ます。

http://www.e-recipe.org/kantan/0402/0300.html

http://moehaha-moe2000.hellokitty.ne.jp/blog/c/10017803.html

http://robai.jp/recipes/tfb-pork/tfb-pork.html

http://blogs.dion.ne.jp/cooking/archives/165677.html

http://www.kry.co.jp/tv/cooking/recipe/1999/h111006.htm

http://www.tepore.com/guide/cooking/archives/2006/06/28.htm
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