夜。しごとから戻り、さまざまな用事を済ませ、床に就いて歌集をぱらぱらしていると、こんな一首が目に入ってきた。ショパンを詠まれた一連の中の一首。
歌集『行け帰ることなく』より。
国民蜂起を怖れつつ待つ指荒れてひく鍵盤のつめたき白さ 春日井建
夜。しごとから戻り、さまざまな用事を済ませ、床に就いて歌集をぱらぱらしていると、こんな一首が目に入ってきた。ショパンを詠まれた一連の中の一首。
歌集『行け帰ることなく』より。
国民蜂起を怖れつつ待つ指荒れてひく鍵盤のつめたき白さ 春日井建
未明。ヤブカがブンブン飛んでいる小屋の中。錯綜するいびき歯軋りポリポリ尻をかく音。やがて、屋外のスピーカーから、激しく音割れし、ハウリング音がしばらく鳴る。そして「ちっ」と舌打ちして「おはようごぜいます。今日も、えーー、竹槍で勇ましく」と低い唸り声がし、突如爽やかそうな男声合唱が〈パンツースリッパ、パンツースリッパ〉と連呼し続けるレコードの音が掛かると、小屋の中の誰彼が「うるせーなあ」と呟いた。
戦争法案が国会で通らなかったら国家分断するべ、なんてことをまさかエーベル首相以下与党の面々が企んでいようとは、一般の国民の誰もが想像していなかった。結局、国会で戦争法案は通らず、戦争利権に目の眩んだ人びとと、あくまでも戦争は駄目だという人びととで、ある朝、国家機能は分断され、領土は二分された。要は、エーベル首相以下政権与党の面々による新しい戦争国家の樹立と相成った。
新たな国境線をエーベル首相たちは引き、これまでの主要な国土を自分たちの国の領土とした。そして、早速徴兵制を実施したところが、逃亡する国民が続出。エーベル首相たちは国境警備を厳重にし、逃げ遅れた国民を〈小屋〉に収容して管理することにした。
俳句の本ながら、今日の収穫はこれ。
山地春眠子著『月光の象番~飯島晴子の世界~』(KADOKAWA)
名著の予感。
今日はしごと休みを頂いたので、昼御飯は入谷の割烹さいとうへ。たまたま相席の女性たちと初対面ながらどういうわけかさまざまな話大いに盛り上がり、食事後上野公園を抜けて根津のカヤバ珈琲へご案内して絶品の谷中ジンジャーかき氷をおすすめしたら非常に喜ばれた。その後、池袋へ出て用事のいくつかを片付ける。ジュンク堂書店では、永田淳著『評伝河野裕子』(白水社)と、上記の飯島晴子さん関連の本など。
どこかの食堂風景。美味しそうなたくさんの料理が並ぶ明るくて広い食卓には20名ぐらいが和気藹々と席に着いていて、 その中には亡き父の姿も。食堂壁面の大きなテレビ画面は黛敏郎氏が司会する音楽番組を映しており、黛氏がピアノの前に座って即興でロマンチックな美しいワルツを弾いている。。そういう夢だった。
毎朝、武満さんの墓の横を通って仕事場へ向かう。頭のなかを、最近はバッハのマタイ受難曲終曲のコラールがよく鳴っている。
短歌下句〈キナ臭き為政者の群れに〉に付けるよい上句がなかなか浮かばない。
又吉氏の俳句作品による、短歌六首。
顔見合はせて当惑したる顔ながら俺はただ祖師ヶ谷大蔵と言ひたかつただけ
ホームの灯りは殆ど切れてゐて駅員の青ざめたる顔、幽霊に見えた
一つ手前の駅で頭は起きてゐたが。膝からこぼれ落ちたる『アンナ・カレーニナ』
街の表札すべて入れ替へられたるらし。『高橋』家から出てくる山田さん一家
客の居ない理髪店店主が外を見てゐる。店床に散らばる店主の頭髪
メニューには赤きリボン付いてゐるもカキフライなかつた。入るのではなかつた
☆
しごと休みを頂いた今日は、長尺の名画二本を鑑賞しに、朝からキネカ大森へ。『日本のいちばん長い日』と『ゆきゆきて、神軍』の二本立て。たくさんのお客さんが入っていました。じつにいろいろ考えさせられた深い二本でした。ずしんとした見応えがありました。映画のあと、品川駅のエキナカのレストランで月例短歌詠草を何首か詠み、新宿の本局で投函。
石橋泰奈氏の歌集『韻律の海』(角川学芸出版、二〇一五年三月刊)はどういう本ですか? と、例えば旺盛な読書家である畏友ヨハネス・ブラームスから日本語で訊かれたとする。一つの答え方は、「塔」二〇一五年三月号の百葉集に選ばれ、巷間で「吹矢のごとく」をどう読むか大いに話題になった一首〈「しらさぎ」は吹矢のごとく降る雪を逃れて北陸トンネルに入る〉が、北陸旅行を詠んだ〈哀歌〉という一連の中に、一七二頁に収載されている歌集です、と。しかし、ブラームスは、いま一つ解りかねている様子。当然だ。木を見て森を見ず、では、説明にならない。
この歌集、通読していくと、読んでいるこの本がまるで一つの小説であるかのような感覚になってくるほどに〈物語的〉。その理由は、作中主体に一つの明確なキャラクターが設定されて、それがある程度成功しているからかもしれない。作者≠作中主体なのである。それは作者による「あとがき」にもある通り。作中主体は、企業の支社長という役職者。家族は医者の夫と社会人の子供と老いた両親だが、心が離れてしまった夫と独立した子供とは別居し、両親の住む実家近くに一人住まいをしつつ、時々恋人との逢瀬を持っている女性。そして、この女性は、幼き日から、いや、それこそ母胎に居たときからまっすぐに「母恋ひ」の思いをずっと抱いてきた女性。〈見る前の記憶の海はぬるき闇 母のにほひとこゑにたゆたひ〉(三七頁)。しかし、それは悲しいかな、叶わないのだ。女性の気持ちとは裏腹に、母親とは気持ちをわかりあえぬまま死別してしまう。〈亡き母の真赤な口紅埋めるため穴を掘りたり樟の木の下に〉(五三頁)。
かつてリヒャルト・ワーグナーは、オペラの登場人物一人一人にライトモチーフとなる印象的なメロディを与えて、物語を重層的複層的に描くことを試み成功した。そんなライトモチーフ活用法であるが、この歌集の物語にもライトモチーフが登場する。すなわち、母娘関係のライトモチーフとしての「樟」がその一つ。〈もつれあひ触れあひながら降る雪を引き受けてゐる樟の木の洞〉(一一頁)。〈その陰でわたしが泣いてゐるやうな樟の木の幹見下ろしてゐる〉(四六頁)。
そして、もう一つの印象的なライトモチーフが「月」。〈庭先の夜に佇む白猫の月より下りし魔物とも見ゆ〉(六五頁)。〈ほつれゆく絖となりつつ舌を嚙み切られ死にたし新月のころ〉(八四頁)。〈人間に飽きてしまひし夜の更けは黄金の月にかぶりつきたし〉(一四五頁)。〈仰ぐとは畏るることか喉より月の光にしばられてゆく〉(一六二頁)。〈徐行する電車の窓に横たはる三日の月の分厚さが見ゆ〉(一六五頁)。〈やがて月は沈み電車はスピードを上げて南の都市へと向かふ〉(一六五頁)。〈ざらついた月であつたが温かい月でもあつた(とてもいとしい)〉(一六六頁)。〈数寄屋橋交差点の真ん中で月をみつけたことがありますか〉(一八三頁)。〈月光に濡れてわたしは河となりわたしの上を月が流れる〉(一九二頁)。なお、最後に引いた〈月光に濡れてわたしは河となり〉はこの歌集の掉尾の一首。
さきほど、作中主体の女性は「母恋ひ」の思いを母胎に居たときから抱いてきた、と書いたが、この女性には、「月恋ひ」の思いも多分にあるようだ。「月恋ひ」というとかぐや姫が思い浮かぶ。月から来て月に帰ってゆく存在であるかぐや姫に対して、この女性は、かぐや姫同様に月から来た存在であるものの、月へは帰れなくてこの地球で人生を送らなければならぬ宿命を帯びているのかもしれない。
本書、重層的複層的な〈物語〉として味わえる魅力的な一冊として、是非お薦めしたい。
(『塔』2015年8月号掲載)
しごとから戻ると、ポストに歌誌『塔』8月号が届いていました。
石橋さんの歌集評を新田さんと私とで書かせていただきました。
お読みいただけましたらうれしいです。