カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

今晩、ある歌会のご案内

2005-11-30 07:34:37 | Weblog
 知り合いの方から頂戴した歌会案内です。以下、再掲載します。

               ☆

毎週水曜日は、
苺摘み歌会の日です。
夜10時から12時まで。
http://muscat.candybox.to/mogla/ptalk/ptalk.cgi

どなたでも参加できます。
お時間のある方はぜひどうぞ。(^^)

               ☆

 苺摘み歌会、時間があったら私も覘いてみたいです。。。
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詩の音楽性のこと(メモ)

2005-11-29 12:49:39 | Weblog
 詩の音楽性のこと。

 メモ。

 以下は、小沼純一著『パリのプーランク その複数の肖像』(春秋社、1999年)247~248ページより。

                ☆

 (前略)

 詩を見る。

 そこには文字が並んでいるだけだ。読まれなければ、それはただの「しみ」でしかない。文字だということがわかっても、ただ文章を行分けにしているだけなのか、詩として読まれるべきものなのかは、目を落とし、文字の並びをたどるだけでも、まだ、わからない。だが、紙のうえのしみから文字へ、文字から散文/詩へと変貌していくとは、ほかでもない、読む側の姿勢にも大きく依存している。そしてそれが読まれたときおのずと、テンポが、ニュアンスが読み手のなかで生じてくる。詩は作者の手を離れて、ただの「しみ」になっていたが、読み手によって改めて詩としての生命を得ることになる。そして作曲家は、おのれの「読み」を音楽として、作品化するだろう。

 プーランクは詩の「良い」読み手であった。そして詩のなかにある、言語の独自な音楽性を聴き取ることができた。ひとはしばしば小説や詩を読んで音楽的だと形容する。しかし厳密にいうとそれはひじょうに恣意的で気軽な発言にすぎないことが多い。実際には音楽の音楽性があり、言葉の音楽性がある。さらにいえばほかのジャンルにおいて、たとえばダンスの、身体の音楽性があり、絵画や彫刻の音楽性がある。それらはなにか通じ合うものがあるにしても、安易に代替できるものではないし、通分できるものでもない。ときに言葉の音楽性を生かそうとして、音楽をテクストに重ねることは、逆に「言語の音楽性」を殺すことにもなりかねなかったりする。その意味で、プーランクが「良い、詩の読み手」であったというのは、殊にフランスの古典から現代までの多くの詩に親しんでいたばかりでなく、そうした詩の音楽性を生かしながら、音楽の音楽性と重ね合わせることのできる能力をもっているということにもなるわけだ。

 (後略)
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矢代秋雄氏のこと(メモ)

2005-11-28 00:25:42 | Weblog
 作曲家 矢代秋雄氏(1929 - 1976)に関するメモ。

『タイムカプセルに乗った芸大』
【東京音楽学校1949年~音校から芸大音楽学部へ~】
http://www.geidai.ac.jp/geidai-tuusin/timecapsule/o5.html
「(前略)学校制度の改革により、1949年5月になると音楽学校は美術学校と合併して、東京芸術大学に昇格することがすでに決定されていた。音楽学校の最後の校長は夏目漱石の高弟、小宮豊隆であった。彼は技術優先の音楽家が生まれること、つまり『内部を欠いた外部』がはびこることを恐れ、この学制改革を奇貨として、『一般教養』によってバランスをとるべきだと主張した。しかし歴史のサイクルは一巡りして、近年、戦後の「一般教養」体制は大学の重点化と共に崩壊した。作曲家の矢代秋雄は今から40年も前、学生たちに早くもこう諭していた。『音楽家も、よき社会人であるためには、音楽以外の教養をもつべきであると言うけど、ジョウダン言っちゃいけない。これはゼンゼン話が逆である。私なら、よき社会人になるためには、まず、よき音楽家になりなさいと言いたいところである。(中略)毎日、毎日、コツコツと時計屋みたいに仕事をしなきゃ』。矢代は大好きな時計職人の喩えを持ち出して、付け焼き刃の『サア、教養つけまショ』主義を軽蔑した。(後略)」

『ピアニスト門光子さんのHP』
【音ヲ遊ブ】yonisas-manaskara(1998年12月)
http://www.netlaputa.ne.jp/~hyama/kado/ym9812.html
「そんな11月のある日、作曲家の矢代秋雄展を見に上野の旧奏楽堂に出かけました。そこで矢代氏の『ピアノを弾くことは乗馬と似ている。』(原文大意)の一文に出会った時、日頃から似たようなことを考えていた私は『ここにも居ました!』と、とても嬉しくなりました。そして言葉の持つ“はたらき”をもっと信じてもいいかなという気持ちにようやくなることが出来ました。」


《略歴》
1929年9月10日東京生まれ。父親は、日本を代表する西洋美術史家で、ボッティチェリの研究で有名な矢代幸雄。秋雄は恵まれた文化的環境のもと、10歳から諸井三郎に師事し、1943年からは橋本國彦に学ぶ。橋本からは、ドビュッシー、ラヴェルやストラヴィンスキーを教わった。諸井、橋本は共にフランクの循環形式に大なる興味を抱いており、矢代にもかなりの影響を及ぼしたとされる。その後、池内友次郎と伊福部昭にも同窓の黛敏郎と共に師事する一方、クロイツァーについてピアノの研鑽も積んだ。1951年、東京音楽学校(現東京芸大)を卒業し、パリ音楽院に留学。ここで「いつも統一のとれた完璧のスタイルと、きめの細かい仕上げをするという習慣」を学んだ。1956年に帰国し、記録映画や演劇の(特に演劇における三島由紀夫とのコラボレーションは重要)ための作曲で有名になる。また母校の東京藝術大学で教え、野田暉行、池辺晋一郎、北爪道夫など多くの弟子を育てた。しかし、完璧主義、寡作主義のために、帰国してから遺した演奏会用作品はチェロ協奏曲、2本のフルートとピアノのためのソナタ、ピアノ・ソナタ、それから交響曲、ピアノ協奏曲の、合わせて5つの絶対音楽だけに過ぎない。これらの粒選りの名作は、留学期の弦楽四重奏曲や留学前の幾つかの作品(ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ・トリオなど)と共に今日まで演奏を重ねられている。矢代秋雄は、まさにこれからというとき、1976年4月9日、心臓発作で急逝した。絶筆としてヴァイオリン協奏曲(未完)などが遺された。墓所は横浜市東神奈川の成佛寺にある。なお、矢代秋雄の遺品は、東京都港区麻布の日本近代音楽館に収められている。

《年譜》
http://www2.biglobe.ne.jp/~motaka/k_yashiro.html

《主要作品》
ピアノ三重奏曲(1948)
ピアノ連弾のための古典組曲(1951)
弦楽四重奏曲(1955)
交響曲(1958)
2本のフルートとピアノのためのソナタ(1958)
チェロ協奏曲(1960)
ピアノソナタ(1961)
ピアノ協奏曲(1967)

http://www.h2.dion.ne.jp/~kisohiro/yashiropiano.html

http://www2.biglobe.ne.jp/~motaka/gendai.html

《主要著作・翻訳書》
デュボワ『和声学(増補版)』(平尾貴四男 訳/矢代秋雄 校訂・増補)
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奈良に関する記事から(メモ)

2005-11-27 15:51:09 | Weblog
《春日の杜に潤い 本殿南側の池 復元、水系再生へ》

 奈良の春日大社が、境内の環境回復を図るため、約三十年前から荒れたままだった本殿南側の森林にある池を復元した。近年は、水源である春日山などの保水力の低下が心配され、境内も乾燥化しがち。昨年は池の上流の滝を修復しており、水系を復活させることで周辺に少しでも水が行き渡るようにして、潤いある杜の再生への糸口にしたい考えだ。(岩口利一)
 春日大社は、本殿西回廊に沿って御手洗(みたらい)川が流れている。鎌倉時代、春日山から流れる水谷川から分水した小さな流れで、回廊の外に出ると、一部は猿沢池の方向へ流れていく。大社ではこの水を神事にも使ってきた。
 しかし近年は森林の保水力の低下もあって川の水量が減少。このため森も乾燥しがちで水生生物の生態系などに変化が見られるといい、潤いある環境の回復が求められていた。
 こうした中、昨年、大社では、昭和三十四年の伊勢湾台風で崩れたままだった御手洗川下流の白藤の瀧を復元。その下に位置し、荒れた状態だった池(約三百平方メートル)の泥を取り除いて一部に石を積むなどした。この池に水を満たすことで森に常時水が流れるようにし、同時に防火用水としても活用する。今後は本殿裏にみそぎ場を設ける構想もあり、神社にとって大切な水への関心を高めたいという。
 担当の中野和正権禰宜は「神社にとって川は血管のように大切。保水力が低下したとみられる森林について、しっかり考えないといけない」。中東弘権宮司も「復元で杜が潤い、清らかな水が下流に流れるようにとの思いをこめている」と話している。
(産経新聞) - 2005年11月26日16時12分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051126-00000026-san-soci

                ☆

 以下は、かつて奈良にあった名物旅館《日吉館》に関する記事の引用メモです。

 ちなみに、日吉館がまもなく灯を消そうとしている最後の頃の宿泊風景の数々が、内田康夫さんの名探偵浅見光彦シリーズのミステリの名編『平城山を越えた女』(講談社文庫)の中に詳しく綿密に描かれています。

                ☆

http://www.geocities.jp/hiwasakenji/zatuwa03.html

 《忘れえぬ奈良の宿「日吉館」》

 奈良公園の奈良国立博物館に面した奈良市登王路三番町に、1914年創業の「日吉館」という宿屋がかつてあった。
 軒先には会津八一揮毫による旅館名が書かれた看板があがり、ガラス戸はいつも締め切っており、普通のしもた屋のようであった。
 その宿の女主人田村きよのさんは、33年に嫁ぎ、奈良散策に訪れる貧乏学生や学者のために一人で切り盛りしていた。
 おばさんに世話になった著名人に、今は亡き会津八一、亀井勝一郎、和辻哲郎、広津和郎と枚挙にいとまがない。彼女は72年に放映されたNHK連続テレビドラマ「あおによし」のモデルにもなった。
 初めて私が利用したのは76年、二十八歳の時であった。当時は建設会社に勤めていて、将来は建築事務所を開設したいという夢を持っており、庭園、茶室、社寺などの古建築見学が唯一の楽しみであった。
 宿泊客は紹介者だけに限られ、一見さんは泊まれないことは聞いていたが、紹介状も持たずに一人で出かけた。
 薄暗い玄関の土間で待っていると、奥の部屋から従業員が出て応対した。そして、何のために奈良にやって来たのかとか、どうゆう仕事をしているのかと執拗に聞くと、泊めさせていいのかの許可を得るために、何回か女主人に聞きに行った。
 身分証明書を差し出しておばさんの眼鏡にかなった時は、天にも昇る心地で何よりも嬉しかったのを、昨日のように思い出される。ユースホステルを利用していたのが、その日以後は、私の古刹巡りの定宿になった。
 解かしてないぼさぼさの頭髪、度の強い眼鏡をかけ、小太りの六十代の女主人は「おばちゃん」と呼ばれ、利用客のシンボル的な存在であった。
 飲酒禁止や、浴室が一カ所だけで男女の利用時間が決められていたりと、何かと堅苦しい宿屋だった。一人分のスペースは煎餅布団を一畳当たりの目安で、部屋一杯に押し込められて、雑魚寝同然であった。
 建物は老朽化し、歩くと床板はミシミシと音がしたり、ところどころの窓枠から寒々としたすき間風が吹き込んで、冬に利用した時は凍えていた。
 渡り廊下の突き当たりに便所があった。今では懐かしい汲み取りだったので、時どき“お釣り”が来た。
 ユースホステルの宿泊代金が千五百円の時に二食込み二千円で、夕食は毎晩すき焼きと決まっていた。食べ盛りの若者ばかりの食卓なので、牛肉は早いもの勝ちの奪い合いであったが、この値段では儲けはないのではと、心配もした。
 朝食に出された奈良漬けは酒粕がよく効いており、おいしかった。東大寺南大門近くの森奈良漬店のもので、私の土産ものの定番になった。
 女性宿泊客は大学のゼミやサークルで泊まっていて、教授と一緒だった。男性客は私のような一人旅が大部分であった。
 前夜に同室で話が意気投合すると、翌日は仲間と行動を共にした。東大寺二月堂のお水取りを真夜中まで見学したり、早朝の薬師寺の勤行を体験したこともあった。
 宿屋を廃業するという知らせを聞いて私は、83年の正月をこの日吉館で迎えた。その時は全国各地から顔見知りの常連さんが駆けつけていた。
 廃業以後、「おばちゃんに布団を送る会」が組織されて、会員制になった。私も会員になって何回か利用したが、海外旅行に関心が移り、奈良から足が遠のいてしまった。
 1998年、全国紙の写真入りの記事でおばちゃんが亡くなったのを知った。享年八十八歳であった。オンボロ旅館だったが、思い出は尽きない。今さらながら私の心に中にいつまでも残っていて、忘れられない宿屋である。

                ☆

http://www.asahi-net.or.jp/~yr4k-wtnb/mokuji/0330.html

 《旅館「日吉館」の建物がまだ残っていること。2000年4月2日》

 登大路にある「釜飯・志津香」の東隣りの古い建物がそれである。
 日吉館は和辻哲郎、会津八一、亀井勝一郎など多くの文人、あるいは研究のために奈良を訪れた学生が常宿にした。
 現在は小さく「日吉館」と書かれた玄関灯が残るばかりで戸はすべて閉ざされ「…よろしければ三条通りにある 専念寺にお参り下さい。田村」と書かれた張り紙があった。女将・田村キヨノさんがなくなってから1年余り。
 ちなみに、そのさらに2軒隣りが「飛鳥園」である。

                ☆

http://homepage1.nifty.com/B-semi/koiku/hashimototakako.htm

〈20〉橋本多佳子

  雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
 明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。大正三年、琴の「奥許」を受ける。
 六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
 十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
 昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。

  月光にいのち死にゆくひとと寝る

 十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。「忌籠り」と題する一句にある。

  曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
 敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
 はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。

  息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
 ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。

  雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ

 物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。だがしかしである。
 ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
 でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。

  夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。

  深裂けの石榴一粒だにこぼれず

 三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。

  雪の日の浴身一指一趾愛し

 三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
 五月、永眠。享年六十四。

(『紅絲』昭和二十六年)

                *

『橋本多佳子全集』(立風書房)
『橋本多佳子句集』(角川文庫)
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合唱の楽しみ

2005-11-27 15:26:59 | Weblog
 最近、合唱の楽しみに少し目覚めています。

 日曜日の午前、家の近くにある日本基督教団の教会に賛美歌を歌いに行きます。といっても、それは、基督教の信仰に目覚めたということではなくて、カラオケが昔から生理的に苦手で好きでない私にとって、教会の礼拝堂で腹の底から発声して歌うことが大変に気持ちよいのです。時間があれば、午前のプロテスタントの教会の日曜礼拝が終わると、すぐに自転車を走らせて、正午から行なわれる、やはり近所のカソリックの教会(東京カテドラルマリア大聖堂)のミサに参列してしまうこともあります。まさに教会梯子という感じです。

 賛美歌や典礼歌の場合、たとえまったく知らない曲であっても譜面さえあればなんとかなります。腹の底から声を出せて本当に楽しいです。

 いつか機会があったら、どこかの合唱団に入れていただいて歌ってみてもいいかなという気もしています。

 本当に、歌を歌うことが面白いと久しぶりに思い始めています。
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今晩の《FTANKA合評会》のこと

2005-11-26 21:59:27 | Weblog
 知り合いの方が日記に書いておられました。

                ☆

《FTANKA合評会》
今晩(11月26日)23時~25時。
http://ftanka.net/tea/chat.cgiにて。

FTANKA11月歌会のリアルタイム合評会です。

どうぞ、おいでませ(^^)。

                ☆

 どんな合評が行なわれるのか興味を惹かれます。。。
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天ぷら《天峰》(メモ)

2005-11-26 13:31:31 | Weblog
 知人がオススメの下駄履きで行かれる町のおいしい天ぷら屋さんだそうです。
 

天ぷら《天峰》
   
東京都世田谷区砧8-13-8 03-3415-3885
水曜定休
12:00~13:30/17:00~20:30(土日祝は昼時間営業は休み)

http://aq.webtech.co.jp/restmtp0.html#TMIN

-----------
2004年 8月 

 *才巻海老・頭、きす、めごち、烏賊の紫蘇巻、穴子
 *コーン、椎茸海老詰め、茗荷
 *野菜サラダ胡麻ドレッシング
 *小天丼

[AQ!]
 駅は祖師谷大蔵だが賑やかな商店街ではなく、“静かな住宅街の中の一軒”くらいの言い方が似合いそうな場所。小体な、佳き店。今日はカウンター満席につきテーブルだけど、今度はカウンターで来ようね、って感じ。
 野菜サラダの胡麻ドレッシングや烏賊紫蘇巻はある種典型的だが、この辺りって、天一出身のメルクマールなのだろうか?

[へべ]
 天丼を選んで悔いなし
 こんどはカウンターで来ようね♪

[AQ!]
 今日は天丼! 天丼と天茶の分かれ道…、何でだか「こっち!」って決まる時は、あるね。『コンガリ系だと天丼でサラッと系だと天茶』、って訳ばかりでもないのだが。天バラがある店だと、さらに惑わしいが。
 シャルドネはラブレロアでした。

-----------
2004年11月 

 *才巻海老・頭、きす、沙魚、烏賊の紫蘇巻、帆立、牡蠣海苔巻、穴子
 *銀杏絹莢、椎茸海老詰め、茄子、百合根、アスパラ
 *野菜サラダ胡麻ドレッシング
 *小天丼

[AQ!]
 鱚が美味しかった。毎日築地へ行くという御主人、この辺りからだと大変ですね。

[へべ]
 海外から日本への帰国便に乗るため航空会社のカウンターに並んでいると、ヒマなこともあって、周囲の日本語会話が耳になんとなく入ってきます。「あーもう早く日本帰りたい~」「お前、帰ったらまず何食いたい?」「オレ鮨すし寿司!スシ食いてー」ってな感じで。ちなみに上記は年配の男女じゃなくて、地方出身とおぼしき若者たちの会話でした。どこまで帰るのかなー。
 …ってなわけで、当家の場合、帰国のこの日はなんとなく天麩羅です。蕎麦もいいけど、早めの夕食に蕎麦だとはんぱな時間に小腹がすいて眠れなくなったりしそうなので。こんなとき、わりと近所にこういう天麩羅やさんがあるのは、なんともありがたや。ビバ天麩羅!
 この日いただいた中では、鱚が出色の旨さでした。ひょっとして、前に来たときもそうでしたっけ? 普通は鱚って小ぶりでホロホロっとはかなげなイメージなんですが、ここのはわりと立派なサイズで、ホロホロとした鱚らしさはもちろんのこと、味や香りがくっきりしていて印象的。シメは断然、天丼です。ごちそうさまでした。
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メモ。芥川紗織さんの画業。

2005-11-26 09:40:33 | Weblog
 画家芥川紗織さんのこと。メモ。

 画像は、芥川紗織 《神話より(4)》 1956年。栃木県立美術館所蔵。

                ☆

http://www.art-museum.city.nagoya.jp/2002/meihin3-1.html

 名古屋市立美術館の解説を、以下、引用させて頂きます。

 《芥川紗織の芸術》

 芥川紗織は1924年、愛知県豊橋市に生まれ、東京音楽学校(現東京芸術大学)声楽科を卒業、在学中に同級生の作曲家・芥川也寸志と結婚しました。「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」ことから、自己表現の方法として1950年頃から、ロウケツ染めを野口道方、絵画を猪熊弦一郎の研究所へ行って習い始めます。第4回モダンアート協会展(1954年)で新人賞を受賞、その後養清堂画廊での初個展が大きな評判を呼び、期待の新人として注目を浴びるようになります。岡本太郎の誘いで第40回二科会第9室に出品し特待賞を受賞、「今日の新人・1955年展」(神奈川県立近代美術館)や河原温、池田龍雄、吉仲太造との四人展への出品など華々しい活躍をつづけました。こうした積極的な創作活動を続けたことが家庭生活に破綻を来たしたのか、1958年に二人の娘を残して芥川也寸志と離婚。翌年には経済的な自立を目指し、グラフィックデザインを学ぶためにアメリカへ留学し、その後同行の建築家・間所幸雄と再婚しました。しかし、以前の作風から一転して抽象的な絵画を描き始めた矢先、妊娠中毒症が原因で42歳の若さで病没しました。
 芥川紗織の画業を振り返ると、芥川の姓であるときと、間所(まどころ)の姓であるときとでは画風に大きな変化があることがわかります。芥川の姓のときは、ほとんど独学で絵画を始め、女性である自分を見つめた末に生まれたテーマを、ロウケツ染めという独自の方法で描いています。メキシコ壁画運動との出会い、夫・也寸志に同行したソ連旅行をきっかけに1955年から始められた「民話」「神話」シリーズでは、自画像としての「女」シリーズから発展して「男と女の物語」を古代神話・民話の世界に置き換え、強烈な独自のイメージを展開しています。渡米後、美術教育を受け、間所の姓となった紗織は、油彩の技法を習得し、《朱とモーブA》などの限定した色彩と形態で抽象的な絵画を描きました。これらの作品からは、自ら境遇に則して画風を変えていった、ひとりの女性画家のドラマチックな生涯の足跡を伺い知ることができるといえるでしょう。
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渋谷の亀井鮨総本店(メモ)

2005-11-25 15:28:54 | Weblog
『亀井鮨 総本店』
    〒151-0066

渋谷区宇田川町3-1東武ホテルB1F

TEL・FAX 03-3476-1058

予 算  6千円~1万円
  ※蔵人考は1合950円です。

大将からのコメント

私自身が毎日必ず仕入れに出向いてます。
 
当たり前のことなのですが、これを実施している店は極めて少ないのが実情です。
 
「養殖、冷凍ものでもそれなりに飾って出せば客はわからない」というような、お客様を小ばかにしたような商売が主流を成すなかで、やはり毎日自分が認めた魚だけを仕入れるという基本は崩してはならないと思っています。
 
闇雲に超一級品だけを買いあさるのではなく、「天然」にはこだわりながら、なるべくお客様の負担にならない仕入れをするのがプロとしての腕の見せ所でありましょうし、その為に毎日足を運んで魚を厳選することは欠かせない作業と心しています。

皆様の情熱で誕生した銘酒「蔵人考」と四季折々の魚介類の相性は抜群です。素晴らしい出会いを提供していただいた関係者の方々に心より感謝いたします。
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シリーズ「日本の作曲家たち」のこと。

2005-11-25 09:57:46 | Weblog
 メモ。

 シリーズ「日本の作曲家たち」
http://www.medias.ne.jp/~pas/classic.html

「【目次】
 第1回/橋本 國彦
 第2回/山田 一雄
 第3回/須賀田礒太郎
 第4回/尾崎宗吉
 第5回/金井喜久子
 第6回/高田三郎
 第7回/大澤壽人
 第8回/安部幸明 (近日up予定)
 (2005.10.26 書き換え)」

 生前才能にあふれる非常に素敵な作品を作っていたにもかかわらず、忘れられてしまった作曲家のこと、作品のことに光を当てたサイトです。

 ひとりひとりの作曲家の生涯、作品内容について、非常に豊富な情報に基づいて丁寧に書かれていて、すごく読み応えがあります。
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