《春日の杜に潤い 本殿南側の池 復元、水系再生へ》
奈良の春日大社が、境内の環境回復を図るため、約三十年前から荒れたままだった本殿南側の森林にある池を復元した。近年は、水源である春日山などの保水力の低下が心配され、境内も乾燥化しがち。昨年は池の上流の滝を修復しており、水系を復活させることで周辺に少しでも水が行き渡るようにして、潤いある杜の再生への糸口にしたい考えだ。(岩口利一)
春日大社は、本殿西回廊に沿って御手洗(みたらい)川が流れている。鎌倉時代、春日山から流れる水谷川から分水した小さな流れで、回廊の外に出ると、一部は猿沢池の方向へ流れていく。大社ではこの水を神事にも使ってきた。
しかし近年は森林の保水力の低下もあって川の水量が減少。このため森も乾燥しがちで水生生物の生態系などに変化が見られるといい、潤いある環境の回復が求められていた。
こうした中、昨年、大社では、昭和三十四年の伊勢湾台風で崩れたままだった御手洗川下流の白藤の瀧を復元。その下に位置し、荒れた状態だった池(約三百平方メートル)の泥を取り除いて一部に石を積むなどした。この池に水を満たすことで森に常時水が流れるようにし、同時に防火用水としても活用する。今後は本殿裏にみそぎ場を設ける構想もあり、神社にとって大切な水への関心を高めたいという。
担当の中野和正権禰宜は「神社にとって川は血管のように大切。保水力が低下したとみられる森林について、しっかり考えないといけない」。中東弘権宮司も「復元で杜が潤い、清らかな水が下流に流れるようにとの思いをこめている」と話している。
(産経新聞) - 2005年11月26日16時12分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051126-00000026-san-soci
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以下は、かつて奈良にあった名物旅館《日吉館》に関する記事の引用メモです。
ちなみに、日吉館がまもなく灯を消そうとしている最後の頃の宿泊風景の数々が、内田康夫さんの名探偵浅見光彦シリーズのミステリの名編『平城山を越えた女』(講談社文庫)の中に詳しく綿密に描かれています。
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http://www.geocities.jp/hiwasakenji/zatuwa03.html
《忘れえぬ奈良の宿「日吉館」》
奈良公園の奈良国立博物館に面した奈良市登王路三番町に、1914年創業の「日吉館」という宿屋がかつてあった。
軒先には会津八一揮毫による旅館名が書かれた看板があがり、ガラス戸はいつも締め切っており、普通のしもた屋のようであった。
その宿の女主人田村きよのさんは、33年に嫁ぎ、奈良散策に訪れる貧乏学生や学者のために一人で切り盛りしていた。
おばさんに世話になった著名人に、今は亡き会津八一、亀井勝一郎、和辻哲郎、広津和郎と枚挙にいとまがない。彼女は72年に放映されたNHK連続テレビドラマ「あおによし」のモデルにもなった。
初めて私が利用したのは76年、二十八歳の時であった。当時は建設会社に勤めていて、将来は建築事務所を開設したいという夢を持っており、庭園、茶室、社寺などの古建築見学が唯一の楽しみであった。
宿泊客は紹介者だけに限られ、一見さんは泊まれないことは聞いていたが、紹介状も持たずに一人で出かけた。
薄暗い玄関の土間で待っていると、奥の部屋から従業員が出て応対した。そして、何のために奈良にやって来たのかとか、どうゆう仕事をしているのかと執拗に聞くと、泊めさせていいのかの許可を得るために、何回か女主人に聞きに行った。
身分証明書を差し出しておばさんの眼鏡にかなった時は、天にも昇る心地で何よりも嬉しかったのを、昨日のように思い出される。ユースホステルを利用していたのが、その日以後は、私の古刹巡りの定宿になった。
解かしてないぼさぼさの頭髪、度の強い眼鏡をかけ、小太りの六十代の女主人は「おばちゃん」と呼ばれ、利用客のシンボル的な存在であった。
飲酒禁止や、浴室が一カ所だけで男女の利用時間が決められていたりと、何かと堅苦しい宿屋だった。一人分のスペースは煎餅布団を一畳当たりの目安で、部屋一杯に押し込められて、雑魚寝同然であった。
建物は老朽化し、歩くと床板はミシミシと音がしたり、ところどころの窓枠から寒々としたすき間風が吹き込んで、冬に利用した時は凍えていた。
渡り廊下の突き当たりに便所があった。今では懐かしい汲み取りだったので、時どき“お釣り”が来た。
ユースホステルの宿泊代金が千五百円の時に二食込み二千円で、夕食は毎晩すき焼きと決まっていた。食べ盛りの若者ばかりの食卓なので、牛肉は早いもの勝ちの奪い合いであったが、この値段では儲けはないのではと、心配もした。
朝食に出された奈良漬けは酒粕がよく効いており、おいしかった。東大寺南大門近くの森奈良漬店のもので、私の土産ものの定番になった。
女性宿泊客は大学のゼミやサークルで泊まっていて、教授と一緒だった。男性客は私のような一人旅が大部分であった。
前夜に同室で話が意気投合すると、翌日は仲間と行動を共にした。東大寺二月堂のお水取りを真夜中まで見学したり、早朝の薬師寺の勤行を体験したこともあった。
宿屋を廃業するという知らせを聞いて私は、83年の正月をこの日吉館で迎えた。その時は全国各地から顔見知りの常連さんが駆けつけていた。
廃業以後、「おばちゃんに布団を送る会」が組織されて、会員制になった。私も会員になって何回か利用したが、海外旅行に関心が移り、奈良から足が遠のいてしまった。
1998年、全国紙の写真入りの記事でおばちゃんが亡くなったのを知った。享年八十八歳であった。オンボロ旅館だったが、思い出は尽きない。今さらながら私の心に中にいつまでも残っていて、忘れられない宿屋である。
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http://www.asahi-net.or.jp/~yr4k-wtnb/mokuji/0330.html
《旅館「日吉館」の建物がまだ残っていること。2000年4月2日》
登大路にある「釜飯・志津香」の東隣りの古い建物がそれである。
日吉館は和辻哲郎、会津八一、亀井勝一郎など多くの文人、あるいは研究のために奈良を訪れた学生が常宿にした。
現在は小さく「日吉館」と書かれた玄関灯が残るばかりで戸はすべて閉ざされ「…よろしければ三条通りにある 専念寺にお参り下さい。田村」と書かれた張り紙があった。女将・田村キヨノさんがなくなってから1年余り。
ちなみに、そのさらに2軒隣りが「飛鳥園」である。
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http://homepage1.nifty.com/B-semi/koiku/hashimototakako.htm
〈20〉橋本多佳子
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。大正三年、琴の「奥許」を受ける。
六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。
月光にいのち死にゆくひとと寝る
十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。「忌籠り」と題する一句にある。
曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ
日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。
息あらき雄鹿が立つは切なけれ
秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。
雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ
物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。だがしかしである。
ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。
夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟
しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。
深裂けの石榴一粒だにこぼれず
三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。
雪の日の浴身一指一趾愛し
三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
五月、永眠。享年六十四。
(『紅絲』昭和二十六年)
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『橋本多佳子全集』(立風書房)
『橋本多佳子句集』(角川文庫)