メモ。
今朝ラジオをつけると、J.S.バッハ作曲「羊は安らかに草を食み」(カンタータ第208番《狩りだけがわたしの喜び(狩のカンタータ)》BWV208 より)をやっていました。
「カンタータ第208番“狩りだけがわたしの喜び”BWV208 から 第9曲“羊は安らかに草を食み”」(バッハ作曲)(4分13秒)
(ソプラノ)エリーザベト・フォン・マグヌス
(管弦楽)アムステルダム・バロック管弦楽団
(指揮)トン・コープマン
<ERATO WPCS-10595>
これは、バッハが領主に献呈するために作曲した音楽だそうで、「羊は安らかに草を食み」とは、「よい為政者の下では領民たちは安心して暮らすことが出来る」という意味。この領主の素晴らしい人柄をバッハが称えたものだそうです。思わず、「この曲を今朝放送しているということは、もしかして、いまの政治状況、時代状況に対する。。。。。。」と勘ぐってしまいました。
ところで、この曲については、ピアニストのレオン・フライシャーが、《アルバム『トゥー・ハンズ』2004.11/25発売記念インタビュー》の中で、「(前略)この2年ほど私は《羊は安らかに草をはみ》を今の時代に対する答えとして、一種の解毒剤として演奏し続けてきた。(後略)」と語っています。
http://columbia.jp/fleisher/index2.html
(以下、その全文の引用です)
▼レオン・フライシャーが語る▼
この30年か40年を乗り切るために私が必要としたのは、手の数、指の数というものをあまり重視しないで、音楽を音楽たらしめているその根本に立ち戻ることだった。それは、管楽器のための1本の旋律だろうと、1つの手のための旋律だろうと、両手で弾いているように聴こえる1つの手の旋律だろうと関係なく音楽というものを考えるこということ。言い換えると、楽器編成は重要でなくなり、音楽の中身、内容がより大切になる。楽器編成はそれほど重要なものではなく、むしろ、中身の延長であり、続きであるように思えてくる。そういう考え方は、ある意味、このアルバム『Two Hands』という1つの出来事全体を包んでいる栄光とか高揚感を否定することになるけれども、たぶんこのアルバムの性格を最もよく表していると思う。
〈J.S.バッハ:2つのコラール〉
このバッハの2つの曲は私にとってマントラ(ヒンドゥー教の呪文)音楽のようなものだ。私たちが一種の"ゾーン"(幻覚状態)に入るのを助けてくれる。
この2年ほど私は《羊は安らかに草をはみ》を今の時代に対する答えとして、一種の解毒剤として演奏し続けてきた。《主よ、人の望みの喜びよ》は、バッハという音楽の神殿のもう1つの側面を表している。
〈「夜の音楽」について〉
今回のプログラムに入れたいくつかの作品は私自身のモチーフによってつながっている。それは、悪夢の感覚を呼び起こす音楽というつながりだ。「夜の音楽」が何を意味するのかは、あまりはっきりとは言いたくない。その本質的な要素の1つが夜の予測不可能性だからだ。暗闇、陰、生まれるかも知れないロマンス、あるいは夢のような状態に入っていったり…最後は月光について瞑想して終わる。ショパンの《夜想曲 変ニ長調》を入れたのは母の好きな曲だったから。《マズルカ》のここでの役割は《夜想曲》を響き的に補うことで、私はこの曲を弾くのが大好きだ。ドビュッシーの《月の光》は、ショパンがポーランドの夜の音楽であるのに対してフランス版の夜の音楽。録音チームの1人に話したように、私の目標は、月光というものを、それが私たちに及ぼすすべての効果を含め、私に可能な限り完全に表現することだった。
〈シューベルト:ソナタ 変ロ長調D.960、遺作〉
ある意味、シューベルトのこの曲は私が音楽的に大人になったことを表すものだ。というのも、これは私がシュナーベルから離れたあとに、というか彼から追い出されたあとに私が学んだ初めての大きな作品だからだ。この曲をシュナーベルの前で弾いたことは一度もなかったし、当時はテープレコーダーなどもなかったから、彼がレッスンのたびに教えてくれた驚くべきことの数々--スタジオを出る時の皆の足元はまるで酔っ払いのようにふらついていた--はすべて失われてしまった。彼の話を少し書き留めたりもしたが、それを永遠にとっておく方法はなかった。その後の2年ほどの私は救命具なしに大洋に投げ出された人間そのものだった。その苦境から逃れるために私が選んだ手段の1つがフランスに行くことだった。1950年、ユージン・イストミンと私は古いオランダ客船、フェーンダム号の1等のチケットを予約し、パリに向かった。イストミンはカザルスの伴奏をする予定があり、私はただ彼にくっついて行ったようなものだった。パリに着いたあと、私はこの変ロ長調のソナタを弾くようになった。一種、神聖な作品に思えた。そしてこの曲を学び始めた私にすごいことが起こった。その時、私は物事をどうやるべきかという問題、選択に直面したのだが、すると、あのマックスウェルハウスのコーヒーのCMに出てくるパーコレーターから小さな泡が立ち昇るように私の頭の中にちょっとした思いつきが生まれ、それからシュナーベルの言葉を思い出したのだ…そうやって頭の中に小さな思いつきが少しずつ生まれるようになって、私は彼が言ったことを何ひとつ忘れていないのだと分かった。単に表面に出てくるかどうか、姿を現すかどうかの違いしかなかったのだ。私に分かったのは、シュナーベルもこうして解決していたのだろうということ、そしていろいろな可能性が、私に話しかけはしないけれども、さっきの思いつきと同じように私の所にやって来たということ--逆のことをやってみようじゃないかと。そうしたらそれがうまくいった。言い換えると、学ぶというプロセスのすべてがこのシューベルトの変ロ長調のソナタとともに始まった。
まるで私が好きだった昔の映画のようだった。確か『テスト・パイロット』という題で、ジミー・スチュワートかクラーク・ゲーブルだったか忘れたが、彼が戦闘機のテストをし、超音速飛行の実験をする。飛行機を音速で飛ばしながら垂直に急降下させることで、音速の壁を越えようというわけだ。その会社のパイロット全員がそのようにし、地面に激突して死んだ。最後にクラーク・ゲーブルの番がやって来る。彼は急降下した。でもすごいのは機体が激しく振動を始めた時。「振動している」と彼は地上に連絡する。それまでのパイロット全員がやったのは操縦桿を手前に引いて機体を引き起こすことで、それで彼らは死んだ。その時クラーク・ゲーブルは思いついた。逆をやったらどうだろうと。彼は操縦桿を前方に倒した--それが彼の命を救い、音速の壁を破ることができた。
この物語が私の生涯を導いてきた--シューベルトの変ロ長調ソナタを弾き始めた時も、それが終わったあとも。
シューベルトのこのソナタの演奏歴について話すと、公開で演奏するようになったのは1951年から52年にかけて。また演奏するようになったのはつい最近のことで、21世紀になってから2回か3回演奏したことがあり、そのあと2003年10月にカーネギーホールで演奏した。
私はいつも自分に演奏できるレパートリーを探している--ボトックス[訳注:フライシャーの持病ジストニアの治療に使われるボツリヌス毒素]を使っても、できないことがあるので。この曲は演奏可能な範囲内にあるように思えた。
この曲は前にも録音したことがあり、今回のヴァージョンは少しだけ違っている。以前、大きく外れた音を弾いたことがあったが、それは私が元にした楽譜に実際に存在した音符だった。今度の録音ではそれが訂正されているほか、前とは違う音符が2つか3つある。その最初の録音はColumbiaでの私の初めてのソロ録音だった。
☆☆☆
アメリカの生んだ正統派ピアニスト、レオン・フライシャーが40年ぶりに行ったソロ録音が、ヴァンガード・クラシックスより届けられました。
フライシャーは、10歳でシュナーベルに才能を認めら世に出て以来、カーネギーホールでのリサイタル、エリーザベト王妃国際コンクールでアメリカ人としては初めて優勝、グラミーに3回ノミネートされるなど天才ぶりを発揮しましたが、神経障害、ジストニアのため右手が使えなくなり、1965年、37歳の時に第一線から退かざるを得ませんでした。
以後は左手のピアニストとして、あるいは指揮者、教育者としての活動を行ってきました。また、小澤征爾に乞われてタングルウッドで要職も務めました。
最新医学による治療の成果が実り、ついに両手による演奏が可能となり、本作の録音にまで至ったのです。アルバムタイトルは、ずばりTWO HANDS。両手のアップによるジャケットもそのものです。
このアルバムが発売されるやいなや、アメリカでは大評判になり、ニューヨーク・タイムスやワシントンポスト等に一成に書き立てられるほか、NBC等のニュース番組にも取り上げられました。
パッハ、ショパン、スカルラッティ、ドビュッシーの小品と、シューベルトの最後のソナタを収めたこのアルバムには、両手でピアノを弾く喜びに溢れ、若い頃のバリバリの演奏とは一線を画する、深みをたたえたフライシャーのピアニズムが記録されています。
(以上、引用おわり)