すこし見えてきたような気がしたのでメモ。。
慶應4年1月17日の小栗忠順の駿河台の屋敷を訪なひし者の記録。(『小栗日記』)
17日 寅 天気能
(中略)
一、大鳥啓助(圭介)来ル、逢申候
一、古屋昨(佐久)左衛門・松濤権之丞来ル、於中奥逢申候
一、由井図書来ル、於奥逢申候
(後略)
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松濤権之丞は、池田使節団の一員としてフランスから帰国した後、富士見御宝蔵番格・騎兵差図役下役、同砲兵差図役並勤方を経て、小十人格・軍艦役並となり、慶応3年(1867年)11月には古屋佐久左衛門とともに海軍伝習所通弁掛になっている。やがて勝海舟配下の軍事方の一人になるが、小栗忠順さんとは慶応4年1月以前にどこかで接点があったのだろうか。
1月17日の小栗さんのところへの訪問記録から推察するに、小栗さんとおなじ抗戦派(幕府を守るためには江戸を火の海にして焼くことも已む無し)の大鳥さんが小栗さんを訪ね会談したことを知った恭順派の権之丞がその日のうちにと友人の古屋さんと連れ立って小栗さんを宥め恭順の意義を説明しに行ったのかもしれぬ。。
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慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)、小栗忠順さんは群馬県の処刑場で落命。奇しくも、同日、松濤権之丞は恭順工作で訪れた姉ヶ崎の撒兵隊宿所で説得中にピストルで撃たれ同時に左右から斬り掛かられ落命。
小栗さんの墓所。