カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

島津重富荘(memo)

2006-11-22 09:35:46 | Weblog
 メモです。

 歴史的に由緒ある建物の未来への継承のあり方の問題をしみじみと考えさせられます。。。

***

【かつての「重富荘」に関するページ】
http://www4.plala.or.jp/uzuland/index1.html
「江戸時代、薩摩藩家臣の筆頭であった重富家(重富島津氏・越前島津氏)。最後の藩主島津忠義はこの家の出身であるという格の高い家・・・だったのだが、明治時代には島津珍彦(21代当主)が、この家は蛻の殻で何もないとまで孫の忠彦氏(23代当主)に語ったという家。
 そんな哀愁漂う重富家の遺産のひとつがこれ。忠彦氏の著書の中でも数多く登場するこの屋敷は重富島津氏の屋敷、和風旅館を経て、平成18年秋に結婚式場・レストランとして復活する(南日本新聞2006年4月11日記事による)。
 このページはかつて旅館だった時代に重富荘を訪れた時の写真と記憶をもとに作られています。記憶違い等あったらごめんなさい。」

「越前島津氏は島津宗家の祖忠久のニ男忠綱を祖とする島津氏の分家で、数多い島津氏の分家のなかでも古いもののひとつである。 承久3(1221)年7月鎌倉幕府は大内惟信に代わり島津忠久を越前国守護職に任じる。忠久は薩(薩摩国=今の鹿児島県の西側)・隅(大隅国=今の鹿児島県の東側)・日(日向国=今の鹿児島県の宮崎県寄り一帯と宮崎県の一部)の守護職だったので忠久の次男忠綱が その守護代となり足羽郡足羽山(今の福井県)に城を構えた。
 忠綱は越前国(今の福井県)に移り越前国生部庄・久安保重富を領有する。越前国生部庄、久安保重富は承久3(1221)年8月、島津忠時(島津氏2代。忠久の長子。忠綱の兄)が地頭職に補任された場所である。

『可令早嶋津三郎兵衛尉忠義為越前国生部庄并久安保重富地頭職事
右人、補任彼職之状、依仰下知如件
承久三年八月廿五日
               陸奥守平(花押)』
(『島津家文書』『鎌倉遺文』(出典を二つあげたが、全く同じ文書です)より)

『嶋津三郎兵衛尉忠義』は島津忠時(当時は忠義と称していた。)で、『陸奥守平(『むつのかみたいら』と読む、『むつもりひら』ではない(笑)。)』は北条義時のことである。ここに出てくる『越前国生部』は現在の福井県福井市生部町にあたり、現在も『島津屋敷跡』というものがあるらしい(細野丈助『越前島津家について』)。
 この通り、越前国に島津氏が関係していた事は事実。ただしかし、あまり有名でない事からも察せられるように(?)島津氏が越前国を掌握した期間は短い。島津氏が越前国守護職であった時期は短かったようで、まもなく後藤基綱に与えられ、生部庄地頭職は仁治3(1242)年には和泉国和田郷地頭職に替えられたという。
 忠綱の子忠行の時代の弘安2(1279) 年には播磨国(今の兵庫県)下揖保の地頭職に任じられてその地に移り、それ以降は代々下揖保、布施郷を領している。中には播磨に移らず越前に土着した者もおり、時々その子孫と思われるものが史料上に現れることもあるが、忠綱に始まる越前島津氏の直系の一族が越前を拠点としていたのは60年にも満たない。越前島津氏の滅亡が天文3(1534)年であるから越前より播磨に居住している期間のほうが長いのだが「播磨島津氏」とは言わず、「越前島津氏」という。
 播磨国時代の越前島津氏は赤松氏に従って南北朝時代あたりは薩摩の島津氏に劣らぬ(それ以上?)活躍ぶりを見せている。あまり知られていないようだが、越前島津氏は播磨国の有力な国人であったようだ。
 天文3(1534)年、ちょうど織田信長が生まれた年にあたる。薩摩の島津氏では島津義久(天文2年生まれ)・義弘(天文4年生まれ)が生まれた頃になる(だから薩摩の島津氏はまだ強大な戦国大名になっていない)。播磨国では赤松氏と浦上氏が争いを起こし、越前島津氏第15代島津忠長は赤松方に味方し浦上勢と戦い、8月26日播州朝日山の合戦で忠長は赤松二郎と共に討ち死にした。これによって鎌倉時代より300余年、15代続いた越前島津氏は滅亡した。「越前島津氏」というと、この初代忠綱から15代忠長までを指すことが多い。
 その後、滅亡したとはいえ、忠長には遺児(忠之)がおり、忠之は天正3(1575)年小寺政職と戦って戦死、忠之の子義弘(勿論あの島津義弘とは別人)は帰農して郷士となり、その子孫は薩摩の島津氏から一族として認められ、参勤交代が通行する際に礼装して挨拶に出るのを例としたという(忠之以降に関しては『兵庫県大百科事典』にあり)。
 江戸時代初め寛永年間には、越前島津家の余裔である人物が家の再興をはかって家に伝わる文書(後の『越前島津家文書』)を持って、薩摩に下ってきたという。同じ一族である薩摩の大大名島津氏を頼ったものであろうが、ここまでするからには播磨と薩摩の島津氏は何らかの交流があったのだろう。薩摩の島津家臣に播磨の赤松氏の末裔という一族がいるのもこれと関係あるのかもしれない。遥々播磨から文書を持って薩摩に向かった越前島津の余裔は、鹿児島に辿りつくことなく途中の大隅半島の鹿屋(現在の鹿児島県鹿屋市)で没してしまい越前島津家を再興することはできなかった。しかしこの人物が持ってきた文書は薩摩の島津家に伝えられることになる。そして、これこそが今千葉の佐倉にある国立歴史民俗博物館(略して歴博)にある『越前島津家文書』なのである。滅亡し、本家である薩摩の島津氏に頼り、叶わず没したこの余裔の名は知られていない。しかし今『越前島津家文書』が現存するのはこの人物が持ち出したからでもある。この人物は文書を歴史研究に役立つようにという気持ちで持ってきたわけではないが、この人物のおかげで忠綱から忠長に至る越前島津氏の事績は物語でも想像でもなく、確実な史実として生命を保ち、今の人にも強く訴える力を持っているのである。
 なお、『越前島津家文書』は国立歴史民俗博物館蔵で重要文化財となっているが、この文書ははるばる佐倉のど田舎の歴博に行っても普段の常設展では展示されていないので注意。今から十数年前の平成元年に、「中世の武家文書―館蔵資料から―」という企画展示があってその時に展示されたようだが、その展示図録も在庫なしで入手は不可能である。歴博の中にある図書館でコピーをとることができる。そこには中世の五十七通の越前島津家文書の写真版と活字になったものが掲載されており、解説もあって忠長までの越前島津氏を知るには便利である。」

***

島津家別邸、「マナーハウス島津重富荘」として再出発
(2006年11月22日07時57分朝日新聞記事)

画像:島津重富荘と庭園。後方は桜島=鹿児島市清水町で(朝日新聞記事から)

 島津久光の息子の珍彦(うずひこ)が住み、その後は旅館などとして使われた鹿児島市の重富荘が28日、結婚式場に生まれ変わる。その名も「マナーハウス島津重富荘」。
 チャペルや神殿を備える。主人が客をもてなした「謁見(えっけん)の間」は、「フレンチの鉄人」として知られる坂井宏行さんプロデュースのレストランに生まれ変わった。
 築約150年といわれる建物の一部を残し、約3億円かけて大改装した。オーナーの清川剛久さんは「ここを舞台に鹿児島の良さを150年伝えていきたい」。

http://www.asahi.com/life/update/1122/004.html
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ある記事に思ったこと

2006-11-20 09:26:07 | Weblog
 メモです。前々から私も感じていることですが、これが「彼ら」の本質なのだと思います。

 きっこさんが日記(「きっこの日記」)で紹介されていた記事です。

+++++

◆中学生の意見 匿名の大人が"批判"
http://www.stv.ne.jp/news/streamingWM/item/20061117182019/index.html

"愛国心"とは、こんな卑劣な"心"なのでしょうか。「教育基本法」改正案について、札幌の中学生が安倍総理に、「反対の声明文」を送ったところ、「匿名の大人」から「抗議文」が届きました。15歳の"自由な意見"に"脅迫"ともとれる批判でした。

(衆院議長)「賛成の諸君の起立を求めます。賛成多数。よって、この法案は可決されました」
自民・公明与党だけの出席で衆議院を通過した「教育基本法」。ポイントのひとつは、初めて文言になる「愛国心」。賛否が分かれる問題です。
この「改正教育基本法」について札幌の中学校では、女子生徒たちが自ら勉強して、「愛国心を国民に強制するものだ」との結論に至りました。そして、この法案に反対する声明文を安倍晋三総理大臣あてにおととい送ったのです。
(女子生徒)「自分の国を大切にというのはいいが、間違った方向に進んでいるんじゃないか」「反対の人はしょうがないと思っている。動かないとこのままですよね」
こう話してくれた中学生。実は、きのうの約束では、普通にインタビューさせてもらう予定でした。なぜ、取材が匿名になったのか。

(抗議のメール)「阿部首相の送った中学生の意見書は何だ?お前ら、学校で何を教えているんだ」

この彼女たちの行動を知った一部の大人が、彼女たちに対する脅迫ともとれるメールを匿名で送りつけてきたのです。
(教頭)「生徒が自分で関心を持って意見を表明したのは素晴らしい。いろいろな意見を封じ込める残念な反響だ」
この学校では、生徒それぞれが意見を書いたカードを送る準備もしています。生徒たちが自分で考えて「押し付けだ」と感じた教育基本法改正案。「愛国心の強制」どころか、「言論の自由」さえも封殺しようという大人の行為に、15歳の心は深く傷つきました。
法案についての「賛成」「反対」があるのは当然だと思います。15歳の彼女たちは自分たちで考えて、署名もつけて安倍総理に反対の意思を表明しました。ところが、それを知った一部の大人は「匿名」で彼女たちを批判した。あまりにも卑劣ではないでしょうか。

(2006年11月17日(金)「どさんこワイド180」)

+++++

 マスコミがニュースとして流す「事実」は「事実」全体のほんのわずかな部分でしかない、ということをしばしば聞きます。今回露見したこのとんでもない「言論封殺」の行為も、実は「いま現実に起こっていること」のほんのわずかな一例にすぎないのかもしれません。。。
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今日11月19日

2006-11-19 22:08:21 | Weblog
 メモです。

 今日11月19日はシューベルトの没日だそうです。

1828年11月19日没 (没後 178年) シューベルト Schubert, Franz Peter オーストリア

 シューベルトの作品でいま私がいちばん好きなのは、「アルペジョーネ・ソナタ」かもしれません。第一楽章冒頭のアルペジョーネ(チェロで代用されることも多いですが)の出だしのメロディは何度聴いてもすばらしいと思います。

*****

 今日は午後に国立競技場まで散歩がてら出かけ、マラソンレースを間近に見てきました。今日のコンディションは降りしきる雨と寒風の中で最悪だったと思います。傘をさして競技場の観覧席に座っていましたが、少し腰掛けていただけでたちまち身体中の熱が奪われてしまう感じでした。。そんな中でレースをした選手は本当にすごいと思いました。。。まさに超人です。

*****

《江戸時代の天皇即位式、“観覧券”配って庶民に公開》
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20061119i112.htm?from=main1

 江戸時代、天皇即位式が“観覧券”を配って公開され、庶民が多数詰めかけていたことが、森田登代子・大阪樟蔭女子大学非常勤講師(近世民衆史)の研究で分かった。
 幕府の政策で民衆から遠ざけられていたとされる従来の近世天皇像を覆すもので、今週発売される国際日本文化研究センター(日文研)の共同研究報告書『公家と武家3』(思文閣出版)に掲載する。
 幕府は、朝廷を統制する法令(禁中並公家諸法度)を定めるなど天皇の力を抑制、管理。天皇は庶民から隔離され隠された存在、と従来は思われてきた。
 森田講師が、当時の京都で奉行所が高札などの形で出した膨大な数の「町触れ」(告知)を調べた結果、1735年の桜町天皇即位式前の町触れに「御即位拝見之儀、此度者(このたびは)切手札(きってふだ)を以(もって)男ハ御台所門、女者(は)日之御門より入レ候之条」とあり、これは、観覧券に当たる「切手札」を発行し、男女別で御所のどの門から入るかを決めていたと判明。続く桃園天皇の即位式でも切手札を発行、事故防止のためか「男百人、女弐(二)百人」と制限し、老人や足が弱い人などの観覧を禁じた事実も分かった。
 1779年の光格天皇即位式を描いた『御譲位図式』などの絵図も調べたところ、警備の武士とは別に、庶民の正装である裃(かみしも)を着て御所に入る人、子ども、授乳する母親らの絵柄が確認された。森田講師は「民衆にとってごく身近で楽しみな行事だった。江戸時代になって急に公開したのでなく、中世以来の伝統ではないか」と語る。
 当時の即位式は高御座(たかみくら)に昇る天皇を中心に、公卿ら数十人が出席、鉦(かね)・太鼓、祝詞奏上、焼香など厳かな儀礼が繰り広げられたことが分かっている。

(2006年11月19日20時18分 読売新聞)
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火星探査機の記事(メモ)

2006-11-19 18:55:05 | Weblog
 昔に読んだSF小説のいくつかを思い出すような記事で、すこし気味悪くもありますが、なにか興味深いです。。。

《最古参の火星探査機が不明、最新鋭機で捜索 NASA》
(2006年11月19日朝日新聞記事)

 先輩探査機はどこだ――。米航空宇宙局(NASA)は17日、今月初めに地球との交信を絶った火星探査機マーズ・グローバル・サーベイヤーの行方を突き止めるため、火星上空で最新鋭探査機による捜索を実施した。AP通信が伝えた。超高解像度カメラで「先輩」が現れそうな場所を撮影し、機体が写っていないかどうか、画像の解析を進めている。
 マーズ・グローバル・サーベイヤーは96年11月7日に打ち上げられた。火星を現在周回中の米欧の4探査機の最古参で、これまでに約24万枚の画像を撮影。火星表面に水が流れていた跡を見つけたり、磁場の観測から地殻変動があった証拠をとらえたりするなど、多くの成果を上げてきた。
 当初の観測計画は火星の約1年間(地球の約2年間)だったが、大きなトラブルもなく、観測計画を延長してきた。
 ところが、NASAの発表では、打ち上げ10周年を目前にした今月3、4日、2日間続けて地球との交信が途絶した。5日にいったん微弱な電波を地球に送ってきたものの、以後は交信が絶えて行方不明になった。
 このため、最新鋭の探査機マーズ・リコネッサンスを捜索に使うことにした。昨年8月に打ち上げられ、今年9月に観測用の低軌道に入ったばかり。搭載カメラは、過去の探査機の約6倍もの解像度をもつ。
 AP通信によると、画像の解析結果が出るのは週明けになる見通しだ。

http://www.asahi.com/science/news/TKY200611180295.html

+++++

●2003年12月25日(木):ビーグル号の冒険
http://www.asahi-net.or.jp/~fq4h-hrym/science/sd/sd0312d.htm

Beagle2 Current news(公式:英文)
http://www.beagle2.com/news/index.htm

 欧州宇宙機関(ESA)の火星探査機"マーズ・エクスプレス"が25日火星に到着、周回軌道に無事投入された。
 一方、着陸機"Beagle2"も日本時間25日昼前に目的地となる赤道近くのイシディス平原を目指し大気圏に突入。ここまでは順調だったわけだが……。
 無事着陸すれば、"Beagle2"から着陸成功を知らせる信号が発信されるはずであったのだが、交信予定時刻になっても、その信号を受信することはできなかった。
 先日も日本の"のぞみ"が残念な結果になったが、やはり火星探査の難易度は高いようだ。
 しかし、今回の事故で"Beagle2"のみが注目されその失敗が取りざたされているが、"マーズ・エクスプレス"自体は無事であり、周回軌道からの観測ミッションの継続は可能だ。

+++++

2005.05.08
■行方不明の探査機、火星の南極付近で発見!!
http://cybar.cocolog-nifty.com/ginga/2005/05/post_b9aa.html

 1999年12月に火星の南極に着陸を試み、直後に通信が途絶えて消息不明となっていたNASAの探査機マーズ・ポーラー・ランダーが、着陸予定地点に近い場所で発見された。
 火星軌道を周回するマーズ・グローバル・サーベイヤーが1999年と2000年に撮影した南極付近の画像を専門家が再分析した結果、パラシュートやランダーの機体、エンジンが地表を吹き飛ばした跡が確認された。ランダーの機体は、暗色の噴射跡の中に、かろうじて白い点として見える程度だが、砕け散らずに、ある程度の外観は保っていると推定されている。

+++++

“火星”小説よ、集まれ! 今日から“火星”探査チーム
http://www.f8.dion.ne.jp/~dryfish/mars0001.htm
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【膳所城の遺構】サイト(メモ)

2006-11-18 14:58:18 | Weblog
 メモです。

☆☆

【膳所城の遺構】サイト
http://siro.parfait.ne.jp/oumi_castle/second_page/zezejyou/ikou.htm


「滋賀県の琵琶湖岸にある膳所城は関ヶ原の合戦後に築城され、明治3年(1870)に廃城となるまで存続し、その遺構は数多く残っています。」

 このページによると櫓や御殿の建物の一部がまだ残されているようで興味深いです。。。

**

「本丸二層隅櫓」

 膳所城の本丸二層櫓は茶臼山公園中腹の芭蕉会館の裏にあるが、初めて見ると異様な建物と写る。(^^; 二層の屋根には鯱を頂き、この鯱が、なんと金色である。本物の金箔が押してあるのかどうかは定かではない。 明治3年の廃城当時、木下にあった膳所一の料理旅館坂本屋が買収移築改造して、高貴な方々の休息,宿泊に当てていたもので、明治天皇も3回御休息になったとか。 昭和39年に茶臼山に芭蕉会館として移築された。

***

「瓦ヶ浜御殿の一部」

 現地の案内板には以下のような説明書きがあった。しかし、膳所城の御殿の一部を移築したものではないとの説明もない。 移築説の伝承が間違っているのか、それとも移築されて後、建て替えられたものか、結論は出ていないようだ。 しかし、伝承というのは馬鹿にならず、膳所城の御殿を移築後、建て替えられたと考えるのが妥当ではないか。

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 この本陣遺構は、これまで享保3年(1718)に草津の宿場を襲った大火災により焼失し、急きょ、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が本陣に残される複数の屋敷図面に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図面が描かれた、弘化3年から文久3年(1846~1863)の旧状をよく残しす遺構であることが明らかになりました。
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大島ミチル氏の交響曲・合唱曲「御誦(オラショ)」(memo)

2006-11-18 12:10:58 | Weblog
 メモです。

+++++

大島ミチル氏の交響曲・合唱曲「御誦(オラショ)」について。

【質問】
昨日(5/10)の「プロジェクトX」で、淀川工業高校合唱部が歌った「御誦」という合唱曲の一部を聴き、感動しました。早速ネットで調べたところ、大島ミチル氏の学生時代の作品だということが分かりました。そこで、大島氏発表20年を機に作品を見直した上で再演したいというコメントを見かけたのですが、その後どうなったのでしょうか。また、「御誦」が収録されているCD等はあるのでしょうか。

【回答】
東芝EMIよりCDが発売されていますが、現在は廃盤になっているようです。
ちょっと調べてみましたら、演奏の音源の一覧がありました。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/9587/oshimaorasyo.html​
しかしほとんどが学生などアマチュアのプライベート盤のようですから、店頭でお求めになりたいのであれば参考URLの盤を中古CDでお探しになるのがよろしいかと思います。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1380530


☆☆☆

男声合唱曲「御誦」(東芝EMI:TOCZ-9279)

 大島ミチルが大学時代に作曲した交響曲。作曲家としての紹介文の中では、必ずと言ってよいほど取り上げられており、名実ともに大島ミチルの代表作の一つと言えます。
 元はオーケストラのための交響曲ですが、男声合唱曲にアレンジされ、大学の合唱部のコンクールなどで良く演奏されています。男声合唱曲の方が聞く機会が多いかもしれません。
 今回紹介するCDは、東芝EMIから発売されている「合唱名曲コレクション43」に収録されたものです。演奏は社会人の合唱団「アラウンド・シンガーズ」によるものとなっています。
 この他にも、大学の合同合唱コンクールなどで演奏されたものを収録したCDが通信販売などで入手することができるようです。
 また、2003年5月27日、東京渋谷のオーチャードホールで行われる「川上源一メモリアルコンサート」の曲目の一つとして「御誦」が再演されます。
 これは合唱曲ではなく、オーケストラによる交響曲として演奏されるものであり、貴重な演奏会になるのは間違いないでしょう。
 コンサートのチケットは、2003年4月13日現在、残席わずかながらチケットぴあで購入できるようです。
 「御誦」とは、江戸時代に長崎の隠れキリシタンがキリストに捧げた祈りのことです(語源はラテン語のoratio)。
 当時の隠れキリシタンは、家の目立つ場所に神棚や仏壇を設け、表向きは神仏を信仰しているように振る舞ってましたが、納屋などの人の目に触れないところに、マリア像などキリスト教の神体を置き、密かに信仰を伝えていったと言われています。

 Track12"ガラサ道"は、「ガラサガラサ みちたもふ マリア」と繰り返す男声コーラスのフェードインから始まり、緊張感のあるピアノの伴奏とたたみかけるようなパッカーションの掛け合いに圧倒されます。

 Track13"アヴェ・マリア"は、一転してピアノと男声合唱のみのスローテンポの曲。ゴスペルを思わせる荘厳な歌声とメロディーは、まさに宗教歌と言えるでしょう。「Ave Maria Dei opa pro nobis~」から始まる後半パートの展開の美しさは鳥肌ものです。メロディスト大島ミチルの魅力の一面を体現する曲と言えます。

 Track14の曲名である"簑踊"とは、年貢を納めなかった農民に課された、生きたままの人間に簑を着せ火をつけるという残酷な刑罰のこと。苦しむ様が踊るように見えるためにこのような名が付けられたといいます。
 アップテンポでリズミカルな前半部分と、後半部分の沈み込むようなレクイエムの落差が、人の生と死のコントラストを息苦しくなるほど伝えてきます。そして終わりのない弾圧を象徴するかのように再び始まる簑踊……。ストーリー性を強く感じる曲です。

 Track15"獅子の泣き唄"は、平戸島の根獅子地区に伝わる民謡。
 "アヴェ・マリア"とはまた違う、素朴な美しさを持つメロディーを、女声の独唱と男声合唱が様々な役割を持ちつつ歌い上げています。曲の強弱、テンポが緻密に計算された立体的な構成は、技術的にも非常に高いレベルのものでしょう。

 クライマックスを飾るのはタイトル曲でもあるTrack16"御誦"。
 たたき付けるようなパッカーションのソロに続き、"ガラサ道"が再び演奏されます。抑圧されたエネルギーを解放するかのように、Track12より激しく男声合唱と独唱、パッカーション、ピアノがぶつかり合います。
 しばしの沈黙の後、"アヴェ・マリア"のモチーフが登場。先ほどまでは争うかのように互いの存在感を主張していた声や楽器たちが一転して協調し、徐々にテンションを高めていきます。
 そして、ついにラストパートで演奏が最高潮に達します。その様子はまるで、弾圧の嵐が吹き荒れた暗い時代を抜け、解放されたキリシタンたちを神が祝福しているかのようです。

 メロディーの美しさと近代音楽の枠を超えたプリミティブ性、そしてそれを音楽という形にする技術力。大学時代に作曲された曲であるにもかかわらず、音楽家に必要とされるすべてを兼ね備えたこの作品を聞く者は、大島ミチルの「天才」ぶりを思い知らされることになるでしょう。

http://homepage1.nifty.com/kazuki/oshima/

+++++

知っていますか?煙草による化学物質過敏症。
http://chibi.chobi.net/~kabinsho/
http://www.hair-speciality.com/kenko/cigarette.html
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早朝のこと

2006-11-18 08:37:21 | Weblog
 1、2時間眠ってふと目が覚め、どういうわけか寝付けないままに三枝昂之著『うたの水脈』(而立書房)を読んでいます。その中に引用されている永田先生の作品からメモです。

背を抱けば四肢かろうじて耐えているなだれおつるを紅葉と呼べり  永田和宏

 この結句のことば「と呼べり」を見ていると、自然と河野先生の「と言へり」のうたのいくつかが思い出されてきます。なんということなく、永田先生の前者は男歌、河野先生の後者は女歌だ、などと根拠不明の妄念が閃くのはこんな時間ならではのことかもしれません。。。。
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辺見じゅんさんの歌から(めも)

2006-11-17 17:22:54 | Weblog
 辺見じゅんさんの歌集『雪の座』(角川書店、1976年)より。

屋上の夕光のなか木の椅子は月呼ばんとし揺れていたりき  辺見じゅん

+++

 夕光は「ゆふかげ」と読むのだと思います。

 夕暮れの屋上。残照を浴びて、さきほどまで誰かが座っていたかのように木製の揺り椅子が揺れている。。空には月が白く浮かんでいる。。。そうか、揺り椅子がしきりに揺れているのは、あの月を呼んでいたのだ。。。というふうに読むことができるかもしれません。

 惹かれる一首です。
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『鶴見訳で読むとおもしろいプルターク英雄伝』by Tomokazu Hanafusa氏(memo)

2006-11-17 10:17:58 | Weblog
 メモです。

『鶴見訳で読むとおもしろいプルターク英雄伝』by Tomokazu Hanafusa氏
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_plutarque_intro.html

 プルターク英雄伝の面白さを知ることは現代の日本ではかなり難しくなっている。 

 英雄伝の日本語訳で現在入手できるものは、ちくま学芸文庫の三巻ものだけであるが、残念ながらこれに含まれるもので、一般の読者が読んで意味の分るものは少ない。

 上巻では、テミストクレスとアリスティデスとアルキビアデスの伝記の訳が読めるが他は読めない。中巻は全滅状態で途中で投げ出さざるを得ないものが大半だ。下巻はクラッスス、ポンペイウス、カエサルの伝記の訳が読めるがそれ以外はどうしようもない。

 ところがここに素晴らしい訳がある。それは鶴見祐輔氏(1885~1973)の訳(潮出版社の潮文庫)である。谷沢英一氏は「新プルターク英雄伝」(祥伝社)でプルターク (Plutarch 50頃-125頃) の面白さを紹介されているが、鶴見訳で読む英雄伝は実際あんなものじゃない。もうべらぼうに面白いのだ。

 ところが、この訳には欠点があって、英訳からの和訳のせいで固有名詞が英語風なのである。鶴見氏はテーバイと言うべきところをシーブスと言うのだ。また、人名にしても、ニキアスをニシアスというぐらいはまだいい。ところが、テセウスをシシアスと言ったり、リュクルゴスをライカガースと言うにいたっては、誰のことやらさっぱり分らないのである。

 さらにもう一つの難点は、誤植がやたらとあることだ。原稿から活字に起こした段階で起きたと思われる誤植がしばしばあって、どうも政治家としても多忙だった鶴見氏はそれを校正しなかったらしい。だから、写植工の見間違いから生じたと思われる誤字がまま見受けられるのである。例えば、「絶無」というべきところを「絶望」としたり、「地」を「他」としたり、「敵意」を「敬意」としたり、てにをはを間違えたりと、訳者本人なら間違うはずのないところを間違っている。そのほかに訳者自身のものと思われる当て字も結構ある。

 最近(2000年12月)潮出版社からこの鶴見訳の『プルターク英雄伝』の中から有名な人物だけを選んで集めたものが出版された。そこでは、多くの漢字に読みがながつけられ、また明らかな誤植は改められている。しかし、残念ながら、それでもまだ、あきらかな誤植がたくさん残っている模様である。(例えば、『アレキサンダー』の197頁で「儲君〔世継ぎのこと〕」とあるべきところが「諸君」のままになっているし、253頁では「それほど」とあるべきところが「そかほど」となっている)

 しかしそれらの障害を乗り越えさえすれば、この訳書の中に、まさにプルタークがギリシャ語で書き表そうとした世界が再現されているのを見ることが出来る。わたしはこの障害を乗り越えるために、岩波文庫の『プルターク英雄伝(全十二冊)』を補助として利用した。

 この岩波版英雄伝は歴とした原点からの訳であって、固有名詞は全てギリシャ語読みになっている。しかも、それらには詳しい説明がついている。その意味で非常に重宝する本だ。

 ところがこの訳は、山本夏彦が『私の岩波物語』に書いているとおり、信じられないほど退屈なもので、英雄伝とは名ばかりの読んでいてすぐ眠気がさす本である。だから、まったく読書には向いていないので、資料としてならともかく、読書用には購入をすすめられない。

 この訳は、プルタークの書いたギリシャ語から訳しているのだが、残念ながらプルタークの言わんとすることよりも、原文にどんな単語が使われているかを伝えるのに熱心なのだ。その結果、原文の息吹が伝わってこない。(そもそも第一回目の訳を読み直さずにそのまま活字に組んでしまったのではないかと思われるほど、日本語としての文章が整理されていない。)

 実際、ギリシャ語の原典と比べてみたが岩波版は実に原典(あるいはLoeb叢書の英訳)に忠実なガチガチの直訳である。しかし、文章に込められた真の意味、その言葉でプルタークが表現しようとした悲しみや歓びが再現されていないのだ。(英訳に忠実な例、ευχερεια→英訳 familiarity→岩波訳「きさくな態度」。本当は「図々しさ」で、英訳の誤訳であると思われる。Loeb No.101 p26-27)

 ところが、鶴見訳にはそれが再現されている。要するに感動させてくれる訳なのだ。読みながら自分の目に涙が浮かんでくるのだ。鶴見氏の英語力とそれを表現する日本語力には人並外れたものがあったにちがいない。岩波版の訳者のギリシャ語力も日本語力も、それには遠くおよばないと言わなければならないのである。

 そこで、わたしは鶴見訳を読んでいて、分らない固有名詞が出て来るたびに、岩波版を参照することにした。そういう利用の仕方をしたのである。

 いまここで、「ニキアス」の伝記から同じ個所の訳を読み比べてみよう。

 アテナイの将軍ニキアスははるかシシリー島の征服などというばかげた思いつきにとらわれたアテナイ民衆の決議にしたがって、かの地への遠征を命ぜられたが、シシリーに来て戦いを始めたものの、この戦争の主唱者たるもう一人の将軍アルキビアデスは勝手にいなくなってしまい、アテナイからデモステネスが連れてくるという援軍も来ずに、一人で苦戦に苦戦を重ね、落胆ここに極まれりというところまで追い込まれしまう。その次に、鶴見訳はこう続く。

 「しかしながらあたかもこのときデモスシニーズはその堂々たる艦隊をひきいて港外に姿を現し、敵の心胆を奪った。彼は七十三艘の艦船に五千の完甲兵と三千を下らざる投箭隊、弓兵および投石隊を乗せ、彼らの甲冑の耀き、各船よりなびく旗指物、漕手の拍子を取る無数の舵手と笛吹きとは、敵をして気落ち神沮(しんはば)ましむるにたる、あらんかぎりの武威と陣容とに映発せしめた」(第五巻43頁)

 ここにはまさにドラマチックな運命の展開が描き出されている。ところが、岩波版ではこうなる。

 「こうしている時に(前四一三年夏)デーモーステネースが沖合に現はれ、装備も華々しく敵に恐怖を起させるものであったが、七十三隻の船に重装兵を五千、投槍兵弓兵石投兵を略ぼ三千載せ、武器の威容と軍艦の旗印と艪の音頭取り及び笛吹き多数とを以て敵を嚇すために芝居がかった趣向をこらしてゐた」(第七巻135頁)

 もう書き出しだけでも違うではないか。事実の記載としては両者は同じことを伝えている。しかし、読み手の受ける印象はまるで違う。そして、まさにプルタークが描き出そうとしたものが前者であることに何の疑いをいだきえようか。(ただし「芝居がかった趣向」の個所は訳語の選択を誤っているし、ここでこんな演劇に使うようなのんきな言葉を用いてはならないはずだ)。

 ただ、ここに引いた鶴見氏の文章のうちにも、この鶴見訳のもう一つの難点が明らかになっている。つまり漢字がそして日本語が難しいのだ。たとえば「神沮む」などという言ひ方は今の辞書にはのっていない。これを「しんはばむ」と読み、「意気消沈する」という意味であることがすぐに分かるためには、明治時代の文章表現にかなり通じているか、小学館の日本国語大辞典を持っている必要がある。

 しかしながら、この文章の力強さは、まさに雄渾という言葉がぴったり当てはまるもので、そこには英雄伝つまり武将の伝記を描くにこれ以上はないという勇ましさがある。したがって、多少の不明な点は無視しても充分にその面白さを堪能することが出来るのである。(このほかにも「これまでの『今日のつまみ食い』より」で若干を読むことができる。このページの下の方なので、開いてから「プルターク英雄伝」で検索されるとよい)

 また、昨今の漢字プームを鑑みれば、漢字検定一級の実力を養う絶好の機会をこの訳書は提供しているとも言える。少なくとも、わたしのこの本で多くの漢字の勉強をした。(それをまとめたのがここに別に掲げた「鶴見訳英雄伝を読むための難読漢字集」である)

 さらにこの本を読むと、このような日本語を少しでも身につけたい、そしてこのような翻訳を是非ギリシャ語から作ってみたいものだという願いさえ浮かんでくるのだ。実際、日本語とはこれほど表現力に富んだ素晴らしいものだったのかと思わざるを得ないのである。そして、遂には、これほど素晴らしい日本語でこれほど大量の訳書を生みだし得た鶴見氏という人物に思いを致さざるを得ないのは私だけではないはずである。

 まったく一読を勧めずにいられない訳書である。塩野七生の本なんか目じゃないことが分るだろう。

 鶴見氏の日本語は確かに初めは読みにくい、しかしこれに慣れればばこの本は一生の宝物になる。

 ギリシャ・ローマの偉人はシーザーやアレキサンダー大王だけではない。むしろ彼らよりもはるかに偉大だったがたまたまついていなかっただけの人たちがいかにたくさんいたかということを知ることが出来る。そしてその方がはるかに面白い話が残っている。例えば、すでに挙げたニキアスしかり、さらにセルトリウスしかり、フォーキオンしかり、エウメネスしかり、ディオンしかり、ルクルスしかりなのである。そしてそれを知れば、古代の歴史に対する私たちの見方は一変するはずである。


(なお、プルタークのエッセイ集である『モラリア』のちょっと古い英訳http://oll.libertyfund.org/ToC/0062.phpはネット上にある。これは写真であるが、これとは別にテキストになっているもののリストhttp://www.attalus.org/info/moralia.htmlもある。半分だけであとは有料のものhttp://www.brainfly.net/html/plutarch.htmもあるが最初のと同じ訳なので買う必要はない。アミヨの古い仏訳http://www.chass.utoronto.ca/%7Ewulfric/rentexte/amyot/am_txt.htmもXLVIIIまではある。その現代語版http://www.geocities.jp/hgonzaemon/morales.htmlを作成した。それに基づいて『おしやべりであることについて』http://www.geocities.jp/hgonzaemon/moralia.htmlを訳した。)
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カリフォルニアの風に誘われて行ってみたいな夢の国

2006-11-16 15:33:55 | Weblog
 コンドルズが歌っている歌に

「カリフォルニアの風に誘われて行ってみたいな夢の国」

という歌詞が出てくるものがあるそうです。

コンドルズ
http://www.condors.jp/

 私はその歌を聴いたことがありません。てっきりママス・アンド・パパスの「夢のカリフォルニア」かと思っていました。。。

 ちがうみたいです。

+++

夢のカリフォルニア
http://www.eigo21.com/03/pops/california.htm


「夢のカリフォルニア」 byママス・アンド・パパス

All the leaves are brown and the sky is gray
I've been for a walk on a winter's day
I'd be safe and warm if I was in L.A.
California dreamin' on such a winter's day

葉はすべて枯葉色, そして空は鉛色
冬の日に散歩だなんて
もしロサンジェルスにいれば暖かいだろうに
こんな冬の日はカリフォルニアを夢見る

Stopped into a church I passed along the way
Well I got down on my knees and I pretend to pray
You know the preacher likes the cold
He knows I'm gonna stay
California dreamin' on such a winter's day

途中で教会に立ち寄った
ひざまづいて祈る振りをする
牧師は寒い方がいいと思っている
寒ければ僕がここにずっといることがわかっているのだ
こんな冬の日はカリフォルニアを夢見る

(間奏)

All the leaves are brown and the sky is gray
I've been for a walk on a winter's day
If I didn't tell her I could leave today
California dreamin' on such a winter's day
California dreamin' on such a winter's day
California dreamin' on such a winter's day

葉はすべて枯葉色, そして空は鉛色
冬の日に散歩なんて
もし彼女に散歩に行くなんて言わなければ今日にでもここを出て行くのに
こんな冬の日はカリフォルニアを夢見る
こんな冬の日はカリフォルニアを夢見る
こんな冬の日はカリフォルニアを夢見る

(訳:HideS)
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