短歌メモより。
宇宙駅のすきとほる机のうへにある鉛筆ころがるだけの、音楽
豪雨予報が携帯に届く朝方の宇宙駅にて食(は)む鰛サンド
以前に市ヶ谷田町の路地を通っているとき、なにやら由緒ありとおぼしき緑多い広い敷地の建物を見かけた。何だろうと見ていると、東京観光専門学校の看板があって了解した。後で調べてみたら、ここは谷干城子爵邸跡らしいことがわかった。敷地内に今も何かしら古い建物も残されているのだろうか、と少し気になっている。
山崎範古(やまざき のりひさ)【生年不詳~慶応三(1867)年9月23日没、享年82歳。】 加賀藩士。通称直右衛門・庄兵衛。実は大聖寺藩士山崎権丞(一千石)の庶子で初め分家山崎図書(二百石)の養子となっていたが、加賀藩の山崎宗家を継いだ兄伊織長質の後嗣となって文化三年その遺知四千五百石を襲(つ)ぎ、人持組に列した。その後定火消、奏者番、公事場奉行、寺社奉行を歴任し、文政元年12月には家老となった。文政九年4月一千石の加増を受け、家禄五千五百石となった。しかし、同年6月寺島蔵人失脚に際し、範古は元来蔵人と説を同じくしていたため、十三代藩主前田斉泰から遠慮を命じられ、いったん家老の職を解かれたが、天保元年許されて再び家老に任じられた。天保七年、江戸の妾宅にて松濤権之丞泰明誕生するも、山崎家で育てること叶わず、泰明は直ちに江戸市中のゆかりの寺へ預けられたという。その後長じて幕臣となった泰明は、池田筑後守を団長とする遣仏使節団の一員となり、パリへ赴く。一行は元治元年(1864年)5月17日にパリを出発し、7月18日(1864年8月19日)、ピ・オ汽船会社のガンジス号にて横浜港に帰国するも、幕府の命令によって一行の上陸は許されず、しばらく船内に留め置かれた。その間、泰明は、隠居して江戸に暮らしていた父親山崎範古に宛てて手紙で一行の状況を知らせたらしい。元治元年といえば、世子前田慶寧が上洛した折、範古の子庄兵衛範正が家老を務め、松平大弐らとこれに従っていたが、時折しも元治元年7月19日、すなわち泰明たちが横浜港に帰国した翌日、禁門の変が勃発し、慶寧は範正ら藩兵を率いて退京してしまう。このことが藩で大問題となった。隠居して穏斎と称していた範古は、かつて慶寧の傅(ふ)を務めたこともあり、慶寧の滞留先の近江海津へ向かおうと途中の福井まで出掛けたが、思い直して引き返した。範古のこの行動は藩の中で厳しく咎められ、8月10日、範古は謹慎を命じられた。なお、内藤遂著『遣魯傳習生始末』(東洋堂、1943年9月刊)という本の194頁に、池田筑後守を団長とする遣仏使節団一行の帰国の時、同心町に住んでいた権之丞の老父が、大塚箪笥町にあった、マルセイユで黄熱病のために客死した随員の横山敬一の家(もともと加賀藩筆頭家老横山家から元禄年間に分家した家で、泰明だけでなく、泰明の老父山崎範古も家同士で親しく往き来していたと思われる)を訪れたという記述がある。すなわち、「松濤の老父は使節一行の横浜安着を報じ、且つ安心すべき旨を告げて辞去した。(中略)松濤の父はわざわざ同心町より、大塚箪笥町まで訪れたのであるから、安着を語る以外に、特殊な用件があったものと解される。すなわち松濤は当時パリより横山看病のため、マルセイユに下りたる一人であるから、老父は横山の死を篤と承知していたものと言わねばならない。しかし、横山家のただならぬ雰囲気を察知し、弔慰の言葉も言えずに、ただ安心すべき旨を告げて辞去したものと察せられる。」と書かれている。8月11日、範正の同僚松平大弐が海津で切腹。一方、範正は慶寧に従って大聖寺まで帰り、ここで扈従(こしょう)を辞し、藩から閉門を命ぜられた。範正は大弐よりも高禄で、いわば「第一家老」の立場にあったため、範正の行動に対する世評は芳しくなかった。翌慶応元年8月、山崎家は家禄を一挙に二千五百石減知され三千石とされた。範古は慶応三年9月23日没、享年82歳。菩提寺は金沢市内にある曹洞宗常松寺。 墓所は野田山墓地の山崎家墓所。山崎範古逝去のその翌年、慶応四年閏4月6日(1868年5月27日)、泰明は勝海舟配下の軍事方として上総姉ヶ崎にて撒兵隊への恭順工作(説得)中、議論まったく噛み合わぬことから激昂した撒兵隊員らにより斬殺。享年34歳(数え年で)。なお、泰明の葬儀に山崎家から人が来られた記録や言い伝えが一切ないところから、泰明と山崎範古の親子関係は、おそらく他の山崎家家族を巻き込まぬ父子のみの付き合いだったと推測される。『三百藩家臣人名事典』第三巻(新人物往来社、1988年4月刊)251~252頁を基に若干加筆。
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岡本幸緒さんの第二歌集『ちいさな襟』(青磁社)より。
目の前のアイスコーヒーそのなかに氷はいくつあったのだろう 岡本幸緒
こんなことが短歌になるの?!という素材で短歌を詠まれてしまうのは、ある意味達人技を極めていらっしゃるから。素人が真似をしたらたちまち火傷をしてしまいます。
作中主体は、なにか物思いに耽り考え事をしながら喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文し、ストローでそれを飲みながら、また物思いに耽り考え事をしている。はっと気づくと、グラスは空になっていた。涼やかな音を立てていた氷もすっかり溶けてなくなっていた。〈あ、氷はいくつあったのだろう〉。それまでの物思いや考え事を吹き飛ばして作中主体の脳裡に去来したのは、そんなことだった、というような場面を巧みに掬い上げた一首で、惹かれます。
1991年2月のサントリーホールのステージ上で、司会の黒柳徹子さんからインタビューを受けられている痩身の若々しい岩代先生のお姿を思い出します。黒柳さんがその作品タイトルの由来について質問されて、岩代先生が、大好きな寺山修司の少女詩集の中の一篇から付けました、とお答えになり、黒柳さんがその詩を朗読されて、その後、演奏が始まりました。それは、私にとって、初めての寺山修司体験でもありました。
世界のいちばん遠い土地へ
作:寺山修司
一本の樹は 歴史ではなくて 思い出である
一羽の鳥は 記憶ではなくて 愛である
一人の誕生は 経験ではなくて 物語である
私は それらのあいだを旅するとき
なぜだか なみだぐんでしまうのです
岩代太郎作曲:ソプラノサックスとオーケストラの為のコンチェルト~TO THE FARTHEST LAND OF THE WORLD~
https://youtu.be/IU4o5N51kr8
暑い。暑くてたまらぬ。
今朝の東京新聞朝刊に、〈スフィンクスの前のサムライの写真〉の後日談に関する記事が掲載の由。
昨夜は仕事のあと、ある必要があって歌誌『塔』8月号をぱらぱら読んでみた。6月号栗木先生選歌欄評記事に島田さんが私の一首を引いて下さっていた。そこには島田さんの読みによる〈晩年の作者の胸中〉と書かれてあって、そうか、自分はもう最早晩年を生きているのかもしれぬ、とあらためて立ち止まって思い、目を瞑った。太宰が晩年を思ったのも二十代であったし、それよりもはるかに年を取った私が晩年であっても何もおかしくはないのだ、と考えたら、残された時間が非常にいとおしくなった。
昨日の朝は、仕事に出る前に短歌草稿を書いて投函した。
ここのところいつもオーケストラの『祈りの街』が聴こえる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/dc/7e0dae631e8302d3fd162039ba8507f5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/ee/2109c37d8d0140b5f9de44565bb9a08e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/c5/7481c627ecac4b3a76defc813cc03758.jpg)
今朝はまた、エア録音しておいたベートーヴェンの『第8番』と『田園』のシンフォニーをしみじみ聞いた。