藤家渓子さんのエッセイ集《小鳥の歌のように、捉えがたいヴォカリーズ》(東京書籍)の中の一篇、『木の上で暮らした女性』を読みながら、イタロ・カルヴィーノの小説《木登り男爵》のことを考えていました。
カルヴィーノの小説世界といえば、作曲家武満徹さんが生前、そのエッセイの中でしばしば愛情を込めて語られていたことを思い出します。
でも今ここでは、武満さんではなくて、松岡正剛さんが、サイト:【千夜千冊】第九百二十三夜【0923】04年1月26日〈イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』(1981 松籟社・1995 ちくま文庫)Italo Calvino : Se Una Notte D'inverno Un Viaggiatore 1979(脇功訳)〉の回
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0923.html
で書かれた文章から、ちょっと長いですが、一部引用させて頂きます。
〈以下、松岡さんの文章より〉
(前略)
1957年にカルヴィーノが『木のぼり男爵』を発表したとき、その風変わりな作風にいろいろ質問が集まった。なぜ伝統的なタイプの小説を書かないのかという愚問だ。
なにしろこの物語は少年が塀の向こうの隣の少女と一緒になりたくて、樹上から隣りと往来しているうちに樹上生活を始めてしまったという物語、お伽ぎ話ならともかくも、“純文学”がこんな物語で挑戦してくるとは予想外だった。
カルヴィーノはちょっと考えて、「トーマス・マンがいるということですね?」「なるほど、彼はわれわれの世界のことならほぼなんでもわかっていましたが、けれどもそれは19世紀の手摺りのはじっこから身を乗り出して世界を見ていたんです」「一方、私は階段の吹き抜けを落下しながら世界を見ているんです」と答えた。
階段、吹き抜け、世界の見方。その階段世界をゆっくりと落ちながら、かつ視線だけはダンテ地獄篇のラストのように上半身を捻じ上げて世界を見まわすというのは、まさにカルヴィーノがその後も採りつづけた方法だった。紙背、重任。
よく世間では、「君とは世界がちがうんだよ」という。そのデンでいえば、カルヴィーノは「世界は君とはちがうんだよ」と言いたかったのだ。
桂離宮を散策した体験をもとにした『千の庭園』(砂のコレクション)で書いていることなのだが、カルヴィーノは、世界というものを決して分析的には見ようとしない。
どうするかといえば、多様性に向かって謎が拡散していくように見る。それがカルヴィーノの視線のカギリであって、そこがことごとくのバニシング・ポイントの連続なのだ。周壁、このときカルヴィーノの体は、半限、捩られている。
こうしてカルヴィーノにとっては、まず地図が、ついではその地図を見る眼の性質が、そして、そういう視線をもつ主人公を想定することが執筆計画になっていく。
入念に計画されたカルヴィーノの主人公は、就縛、たまらない。どれもこれも申し分ない連中だ。
戦争体験をもとにした『まっぷたつの子爵』(1952)のメダルトは善と悪に裂かれたドン・キホーテにすらなれない男だったし、『木のぼり男爵』(1957)のコジモは少年時代にすでに天と地にその世界が割かれてしまっていた。『不在の騎士』(1959)のアジルルフォは、次々に出現する脇役たちを内在させて、みずから分裂してしまう。
『宿命の交わる城』(1973)の修道尼テオドーラはポートレートになった思索であって(この作品はタロットカードで動いていく)、『蜘蛛の巣の小道』(1947)のピンの幼少期の記憶はまるっきりでたらめになっている。ぼくも大好きな漫画家ソール・スタインバーグのために書かれた『ペンが自分で』(1977)の主人公は勝手に動き出すペンそのもの、もしくは線そのものなのだ。
それが、注水、『螺旋』(1965)の主人公にあってはいよいよ有機体である。軟体動物から貝殻へ、貝殻から眼そのものになり、その眼がエビやハエやカモメになったかとおもうと、次には潜水夫のガラスごしの眼や船長の双眼鏡の眼になって、そのままサングラスをする海水浴の女の眼へ、そのままそれが変じてローライフレックスの二眼レフで軟体動物を見ている動物学者の老眼になっているという視線変移だ。
これがカルヴィーノの作品の中の主人公なのである。撥反、仮にこれが光学オブセッションだとしても、ここまでくると異様きわまりない。
なかでも、風解、『レ・コスミコミケ』の“Qfwfq”は断トツだった。つねに姿を変える主人公なのだ。だいたい主人公の名前は子音ばかりで、読めもしなくなっている。こうなるとカルヴィーノの正体が次々に主人公の名を騙っていたという以外はなくなってくる。
カルヴィーノの主人公たちが、では何をするかといえば、だいたいは次の3つのことをする。
ひとつ、世界そのもの、あるいは世界にかかわるためのコードとシンタックスをひたすら驚異する。そのうえでモードとセマンティクスに同化する。ひとつ、理論的には際限がない創発性に満ちたハイパーシステムに参入する。つまり、どこかに世界模型(もしくはそのプラン)があれば必ずそこに行く。ひとつ、合複、どんな部分的なメッセージもその発信源にそのすべてのコンテキストが含まれるようなメッセージを交わす。
カルヴィーノにとって、世界は迷宮か図書館か廃墟であって――このすべてを象徴するものとして「網目」があるのだが――、その最小単位は、たいていは、「襞」か「折れ目」なのである。
網目があって折れ目がある。ということは、世界はつねに襞や折れ目によって裏切られているということで、このため、遡航、カルヴィーノの地図はいつも地図でありながらそこにいちいち内部をもつことになる。
かのマルコ・ポーロに視世界を託された名作『見えない都市』(1972)では、それはいくつものバニシング・ポイントをもった天空将棋盤である。その地図は最初っからトポロジカルになっている。
たんに多重なのではない。地図は読解を待つ物語時空そのものなのだ。カルヴィーノにおいては、空間の水平性においても時間の垂直的次元においても、玄奥、「内」を決定するのは「外」なのである。
イタロ・カルヴィーノは1923年にキューバの首都ハバナに近い村に生まれて、胸底、そこの記憶がないうちに北イタリアの地中海ぞいのサン・モーレに育っている。そこは地中海向背地のリグーリアの森で覆われていた。
父親は農事試験場の所長、母親はサルデーニャ島の出身の植物学者、4人の叔父と叔母はみんな化学者である。ふんふん、さも、纉跚。
少年が20歳になるまで擬似熱帯植物園のような環境で暮らしていたというのは、カルヴィーノの類いまれな空想を鍛えるにはもってこいだった。
ところが、半吟、このサン・モーレ地方は第二次世界大戦中のパルチザンの拠点になった。カルヴィーノは「辛うじてパルチザンに参加できる最後の世代」となった。森の中でドイツ兵士と闘う体験をしたわけである。むろん勇敢なのはドイツ兵士のほうである。このあたりのことは、カルヴィーノの騎士ものを読めばすぐわかる。
その後、ご多分にもれず共産党に入党(そう、アンヴィバレント・モダーンな埴谷雄高や安部公房や勅使河原宏のように)、相姦、試みにネオレアリズモの作品を書いてチェーザレ・パヴェーゼやエリオ・ヴィットリーニに注目された。これは時代の進展からいえば幸運だったけれど、カルヴィーノを応援していたパヴェーゼは自殺した。
かくてカルヴィーノは「まっぷたつ」を感じる。1956年に共産党を脱党するまでに、自分の中のヘミングウェイを捨てて、異常な世界を設定すると、その主人公を果敢に変更していった。
主人公を変えていったのは、散間、カルヴィーノが人生の早いうちのどこかで「書く」と「読む」とに疑問をもったからである。とても一定の眼や声では自分を語れない。
サイラス・フラナリー。この男は『冬の夜ひとりの旅人が』の登場人物の一人である。作家ということにはなっているが、何も作り出してはいない。
そもそもこの作品では、エルメス・マラーナという翻訳家がつくったAPO(アポクリファル・パワー・オーガニゼーション=偽作書作成機構)が機能していて(それも管轄されなくなっていくのだが)、消長、フラナリーはやむなく望遠鏡で自分の作品ではないとかねがね悔しく思っている一冊の書物を読む女性読者を、レンズの中に眺めているような案配なのである。
カルヴィーノは書く、「フラナリーが書くことを強制された人間になってこのかた、読書の悦びはなくなってしまった。フラナリーの仕事は、フラナリーの望遠鏡のレンズの中にいるデッキチェアの女性の精神状態をもつことを目的としている」と。
これで見当がつくだろうが、カルヴィーノは認識と表現の当初の頭緒において、「読む」ことを「書く」ことの断絶とみなし、「書く」ことを「読む」ことの新たな転倒とみなし、しかも、対偶、そのいずれにも属さずにその両方の照応を編集することに関心を集中させたのだ。
かくてカルヴィーノを理解しようとする者は、つねにはぐらかされることになる。過褒と過誤の住人となる。
イタリアには還暦はないからそのときのカルヴィーノの言葉は残っていないけれど、その年齢のとき、カルヴィーノは自分の正体を尋ねられて、近縁、はっはっは、10歳のときはノヴァーリスで、20歳のときはジョセフ・コンラッドでしたというふうに、その変遷を語ったものだった。
つまりはカルヴィーノを「書く」や「読む」で解剖するのは、しょせん不可能なのである。カルヴィーノは不可能なマスタープログラムに熱中した松岡正剛だったと見る以外は、覆没、ぼくも説明が不可能なのである。
これで、今日書きたいカルヴィーノについてはあらかたが済んだのだが、念のため、少しだけ補説する。『痙攣する機械』(1969)に、次のような一文がある。これはぼくそのものなのである。
「目標は、地図、カタログ、あるいは可能なるものの百科事典のようなもの、そして原因と付加的原因の系譜をさかのぼりながら、それまで受け身で被ってきた出来事のもつれに対して、それらと同じだけ整然と構成された認識のもつれ、あるいはモデルの構造を対比させること」。
こういうマスタープログラムがありうることを、いったいどれだけの諸君が理解できるだろうか。そんなことをやりとりすること自体が不毛だと思っているのではないか。
しかし、ここにカルヴィーノがいるのだし、松岡正剛もいる。そうでなくて、どうして『見えない都市』や『全宇宙誌』に取り組めるものか。選換、どうして二人が何を好んで『砂のコレクション』や『情報の歴史』に、『パロマー』や「図書街」に、そして文学講義(カルヴィーノの自由講義は有名だった)や日本史講義に取り組めるだろうか。
それでもなお、「書く」ことと「読む」ことからカルヴィーノを読みたいのなら、本書『冬の夜ひとりの旅人が』に最後に提出されている“読書の幾何学”のようなプランに従うべきである。
ここには、塹競、たとえば、「眼を宙にさまよわさせる読書」(いわば接線読書法)、「断続的断片的読書」(これは粒あるいは埃のように文章を読む方法)、「対象を読まない読書」(つまり読書を読書する方法)、さらには「他の本を思い出すための読書」(関連づけ読書法)などが次々に提案されている。放逸、驚くべきものだ。ただし、これらはISIS編集学校が「離」でも用意していることである。
もうひとつ加えておく。
晩年、カルヴィーノは日本とメキシコに御執心だった。それを知りたければ『砂のコレクション』を読むといいのだが、そこにはパチンコや枕絵や枯山水に関するすぐれた観察が綴られている。たとえば「日本では目に見えない距離のほうが目に見える距離よりはるかに強烈である」というふうに。
京都御所の美しさに見とれているカルヴィーノに、よくあることだが、賢しらなインテリが訳知りに「この美しさは支配者の抑圧の裏返しなのです」などと聞いた。カルヴィーノはすかさず「文化というものは必ずそうしたものでしょう。それ以外にどんな文化があるというのです?」と反論した。そんな愚問につきあうことよりも、カルヴィーノは、日本にひそむ材質と表現の変換不能性にもっと浸りたかったのである。かつ、小さなものがなぜそれ以上の大きな美を支えられるかということに。
カルヴィーノは日本をよくわかっている。本書の中のひとつ『月光に輝く散りしける落ち葉の上には』は、日本を題材にした官能的な作品で、視覚と触覚のあいだにひそむ日本人の小さな身振りや戯れをたくみに描いている。東京駅で京都行の新幹線を待っていて眼にとめた老婦人について書いた『紫の着物の老婦人』では、どんな細部も日本であることが証明されている。
きっとカルヴィーノはメキシコと日本に「過去と現在の融合したプラン」があることにはしゃぎたかったのである。
が、蕭々、そのあたりでカルヴィーノの記述は“年の瀬”を迎えてしまった。
カルヴィーノは享年62歳。還暦を出てすぐに、ちょっと早すぎたけれど、行ってしまった。それでも言いたいことは全部、残したはずである。それまでの世の中の反応など、とっくにカルヴィーノからは剥落しきっていた。
では、カルヴィーノとは何だったのか。熱心なカルヴィーノ=セイゴオのファンなら気がついている読者もいるかもしれないが、あえて次のことを拾ってカルヴィーノの“正体”について暗示しておきたい。
カルヴィーノは銀閣寺の砂盛りを見ながら、ふと、一人の日本の前衛詩人(と、書いている)の詩を思い出すのである。誰を思い出したと思われるだろうか。
諤々、それは稲垣足穂であったのだ。そして、その詩というのが、『一千一秒物語』の例の、あの一節だったのだ。
ある夕方、お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた。
これ、だった(第879夜参照)。
この真っぷたつ、この不在の実在性。このカードの見せ方、この見えない薄い街の語り方。驚くよねえ。
これはいよいよ『タルホ=セイゴオ・マニュアル』(『タルホ事典』潮出版社・絶版)を読んでもらわなくっちゃね。あっ、言い忘れたが、カルヴィーノはジョルジュ・ペレック(第504夜)とも、一緒の仕事、一緒の方法を共有していたものだった。
(了)
☆
ここで、話をはじめに戻します。
藤家さんの文章からなぜ私がカルヴィーノを思い出したか。。。
藤家さんの文章は、まさに木登りの話だからです。
(以下、藤家さんの文章から)
長崎市内の松の森神社に、時々遊びに行く。境内に楠の大木が幾本もそそり立っていて、見ているだけでも嬉しくなってくるのだ。高い幹まで登れたら、どんな気がするだろうと想像するけれど、特に木登りが得意というわけではなし、第一そんな事は禁じられているにちがいない。
ところが驚いたことに、遠いカリフォルニアで、もっともっと高い木に登って、しかも七百三十八日間、降りて来なかった女の人がいたのだ。
彼女が登った、というより、暮らした木は、樹齢一千年・高さ六十一メートルのレッドウッド。英語には、よく植物や魚などの名前に、こういうひどく単純なのがあって、いささか面喰らう。レッドウッドを辞書で引くと「アメリカ杉」と書いてある。
彼女、ジュリア・バタフライ・ヒルは、何も酔狂で木の上に住んだわけではなく、木の上で“座り込み”をしたのだ。直接には、伐採の対象とされていた古代樹、ルナと名付けられたレッドウッドを守るため、そしてそれをシンボルとして、森林の皆伐と破壊に対し、身を以って抗議し続けるために。
だれか人間が二十四時間、樹上のテント基地にいれば、「うまくいけば」その木と周囲の木は切り倒されずにすみ(実際には、人の登っている木を切り倒したり、樹上座り込みがなされている木のまわりの木を何十本も切り続けたり、といった“攻撃”も行なわれたのだから)、世間の注目を、森が商品化されていくという点に集めることができる。林業界が森林を“木の農場”に変えてしまうことがどんなに危険なことか、彼女はそれを皆に知らせようと、文字通り、命を懸けたわけだ。彼女の不屈の闘いぶり、樹上生活の想像を絶する困難さと、そして素晴らしさを窺い知るには、本人の著作『一本の樹が遺したもの』(きくちゆみ・河田裕子共訳、現代思潮新社)を読んでいただく他ない。全く、敬服に値する人物だ。彼女は、木を一本たりとも切ってはいけない、と主張しているのではない。生命の連鎖を、万物が生命の網の糸のように相互に繋がっていることを深く深く感じ、考えているのであって、誰かを非難しようとしているのではない。だからこそ彼女の本も読み応えがあるのだが、彼女と木との深い接触は、私に別の、二つの、木を切る話を思い出させた。
ひとつは、ストラディヴァリなどの、歴史に名を残す偉大な弦楽器製作家たちは、自分で木に登って、幹の根元から梢まで自分の手で叩く習慣があったという話。現代の科学知識を総動員しても、彼らの作ったヴァイオリンやチェロをコピーして、似た音色のものが作れないのはどうしたわけなのか、と不思議がられるが、たぶん現代の製作家は、そんなふうに自分で木に登って、材料にする木を選んだりしないだろうし、したとしても選び方がもうひとつよくわからないのではないだろうか。
もうひとつ、こちらはフィクションで、『源氏物語』に先んじて書かれ、『源氏』に大きな影響を与えたといわれる『うつほ物語』に、阿修羅が六年がかりで切って琴材に作っている桐の巨木の話が出てくる。琴の名手の清原俊蔭(きよはらのとしかげ)は、遣唐使として船出したものの、波斯国(はしこく)に流れ着き、縁あって林の中で暮らすうち、はるかな遠方で木を切り倒す音を聞く。三年の間、斧の音が絶えないので、その音のする所を苦難を越えて訪ねていく。そしてとうとう、その桐で阿修羅が作った琴を手に入れるのだが、この物語は、その後、俊蔭一門の四代にわたって継承される琴の伝承を描いている。
どちらも木を使った楽器作りの話だが、それはまるで木の命を貰い受けるという感じで、その木への尊敬や憧憬がある。切られて楽器にされても木は死んでいない。木の命は全く損なわれておらず、変容を遂げただけだとさえ思われる。
(了)
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私自身木に登るという行為を久しくしていません。
こうした文章を読んでいると、久しぶりに登ってみようかなという気もしてきます。。。そういえば、木に登って、絶景かなと叫んだ大泥棒は誰でしたか。。?