メモ。シェアさせていただきます。類語辞典:岡部史さんのおかしな日々から。http://fumiokabe.blog.so-net.ne.jp/2015-03-30#trackback
桜風景がなぜこんなに心を洗ってくれるのか、この季節を迎え桜を見るたびふしぎでなりません。今日の仕事帰りに、見事な桜風景に出会いました。
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仕事帰りに。今日は、亡き父の誕生日。年老いたとはいえまだまだ元気だった頃の父が、仕事が終わった後によくしみじみ歩いたという小石川の善光寺坂を、父を偲びながら上がる。巨木は、幸田露伴、幸田文、青木玉の方々が住まわれてきた邸前に聳えるムクノキ。樹齢400年ほどらしい。そういえば、鴎外がいちばん、と折に触れ語った父だったが、露伴の作品も好きだった。
入谷須雨村。入谷須米村。どうなのだろうか。。
ラフマニノフがその作品のなかにしばしばグレゴリオ聖歌の「ディエス・イレ(怒りの日)」のメロディを引用したことは有名な話ですけれども、最近、チャイコフスキーの〈運命〉交響曲である交響曲第5番を偶々聴いていて、その第4楽章58小節目からの激しい部分の背後に、ラフマニノフと同じように「ディエス・イレ」のメロディが鳴っていることに今更ながらに気が付きました。以来、チャイコフスキーの交響曲第5番の音楽が頭のなかでずっと繰り返し鳴り続けています。ディエス・イレのことが気になって仕方がありません。
亡くなったひとのことが覚えられているのは三代後ぐらいまで、とよく言われる。よほど意識的に思い出され、ひとに語り継がれなければ、そういうこと。残念ながら、私もきちんと過去のひとのことを聞き継げなかったひとりだ。残念ながらわからないことが多すぎる。
夢を見た。月光の下に懐かしい家があり、中から賑やかな笑い声が洩れてくる。。
月光(つきかげ)に照らさるる門扉のそのなかにわが幼年期はあるかもしれぬ
仕事のあと、本当に久しぶりに大塚駅前のBOOK・OFFに立ち寄った。かねてから読みたかった馬場あき子氏の『古典往還』(読売新聞社、平成6年刊)とスティーヴン・キングの『小説作法』(アーティストハウス、2001年刊)を見つけ、購入。前者は馬場さんの署名入りだったというおまけつき。
その家のなかでは絶え間なく美しい音楽が鳴っていた。病院から父が元気になって退院してきた。その父は、昔私が高校の頃に弦楽四重奏曲を書こうとしていると机辺りに来て〈弦楽四重奏曲には対話がなくちゃいけないんだ〉と語っていた、あの頃の父だった。そんな夢を見た。
今日は、もうひとりの姪っこの誕生日。メールを送った。
昨日は、夜、仕事のあとで郵便局に寄り、短歌10首を投函した。
短歌10首の締め切りがまた近付いてきた、毎月のことだけれども。判っていることなのだから、早めにやればよいものを、やはり今月も放置していた。確信犯の自業自得だから何も言えまい。いや、本当は、でんぐり返ししたって逆立ちしたって出来やしないものは出来やしない。降りてくるのを待つしかないから。ささやかな雨乞い儀式として、3月号の山下洋先生選歌欄に掲載して頂いた拙作短歌6首を書き写してみる。
太陽の光が額(ぬか)から入つて来る、朝。シューマンのヴァイオリン・ソナタを聴きつつ
〈神様を見る術(すべ)教へます〉虹色のパレット持つきみは美しい壁
眼はいつも血走つてゐる。三等官Sの自転車のカゴのカボチャの弾痕
警察は事故か事件か決めあぐねてゐる模様。新聞紙に残りしパン屑のいくつか
三等官Sの靴をとにかく捜せ。ーー刑事のくわへたるマッカーサーパイプ
為政者の心の乱れか。ーーカブト虫型パトカーが広場に駐まつてゐる
朝、ジョン・ウィリアムズ氏のオーケストラ曲〈Song for World Peace〉にしづかに耳を傾けていると、遠くから鳥たちの歌が聴こえてきた。
昨日は、仕事から帰ると、ポストに歌誌『塔』3月号が届いていた。その3ページの山下洋先生の一連から。
なあ鳶よ埋めきれないぴーひょろろ距離ってあるんだよぴーひょろろ 山下洋
山下洋先生の一連。