カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

「古い日記」から。<らんとう>のこと。

2006-11-05 20:39:36 | Weblog
 「古い日記」から。

 「らんとう」という言葉を引いてきたかったのでメモです。

■2004/08/19 (木) 関西方面にいざ出発

 8月21日22日に京都宝ヶ池プリンスホテルで塔短歌会の50周年記念全国大会があるので、その日程前後にあわせて、京都郊外の父方先祖墓参りと、高野山見学、大神神社見学を盛り込んで、1週間ほどの旅程を立てた。

 19日夜23時10分発の夜行高速バスに乗車、新宿駅新南口から京都駅烏丸口まで中央高速経由で7時間弱。京都駅に着いたらバスを乗り換えて、まずは京都市郊外にある、父方の曽祖父以前の人たちが眠っている本家の墓参りをしたい。 

 いざ出発!!!!

■2004/08/20 (金) 京都に到く

 20日朝京都駅からバスを乗り換えて、父方の先祖達の暮らした郊外に向かい墓参りをする。父方の本家は、サバ街道沿いにある。家の敷地内にサバ街道の旧道(廃道)が通っており、鎌倉時代末から庄屋としてその土地で暮らしてきたらしい。少し時間の余裕があったので、自転車を借りて、本家の近くのお寺さんに行ったり、先祖たちの古い墓石を集めてまつってある「らんとう」という場所に出かけたりした。夕方京都市内に戻る。

 20日の夜は京都駅八条口の「エルイン京都」に投宿した。明日は、いよいよ塔の全国大会だ。よく寝ておかなければならない。実は、バスの中ではエンジン音が気になってほとんど寝られなかった。全国大会の晩は短歌の話をみんなでして徹夜になるかもしれないので、寝られるときに寝だめをしておきたい。アテネオリンピックのニュースをTVで見ながら早めに寝る。

■2004/08/21 (土) 塔の全国大会初日

 朝、エルイン京都の1Fロビーで、歴史研究サイト『なるほど!幕末』 http://bakumatu.727.net/top.htmを通じて知り合ったサイト管理人のヒロさん(兵庫県在住)と常連のつゆの家さん(奈良県在住)と待ちあわせ(初対面)。京都の喫茶店の名店イノダコーヒーのポルタ店(京都駅の地下街。地下鉄八条口改札のそば)に移動し、「イノダの果物ジュース」を飲みながら幕末史研究に関する情報交換をする。ヒロさんから伊東甲子太郎に関する、貴重な史料の現物を見せてもらう。大発見といえる史料で、びっくり。幕末史研究においては、知られずに眠っている史料がまだまだたくさんあるのだろうと思う。

 お昼前、ヒロさん、つゆの家さんのおふたりと別れて、塔の全国大会の会場に移動する。

(全国大会案内のURL)
http://www.asahi-net.or.jp/~ea8t-mnk/kyoto2004.html

 大会では塔短歌会主宰の永田先生と私が写っている宝物スナップが1枚できました(肖像権があるのでここでは公開できませんが)。前列左から、しゃがんでニッコリの真中朋久さん、同じくしゃがんで親指をグッと突き出している千名民時さん。後列左から三人目、微笑む谷口純子さん、笑い顔の永田和宏先生、そしてその隣りで緊張している私、が写っています。この一枚は、一生の記念になります。

 大会初日、広告批評の編集長をやっていらっしゃった天野さんによる、モノ売りの声の例を交えた、文字文化、音(声)文化に関する面白い講演。御年八十歳と思えぬ若々しい茂山千之丞さんによる狂言『寝音曲』。それから馬場あき子さんと千之丞さんの対談。対談で千之丞さんが言われた「なにごとにも好奇心旺盛な助平であれ!!」のことばが、強く印象に残った。その人の好奇心の旺盛さはエネルギー量と比例するんですね。
 その晩は、予定通り(?)、真中さんたちの部屋にお邪魔して、朝方4時半頃まで連歌ゲームをしたり、短歌文芸は将来的にどうあるべきかというような話をしたりした。

■2004/08/22 (日) 塔の全国大会二日目(最終日)

 前夜おそくまで起きていて就寝は朝の5時。起床は3時間後。慌てて朝食に出かける。洋風バイキングの朝ごはん。スクランブルエッグが私は大好物です。皿に山盛りにして食べました。

 9時から、二日目のイベントがスタート。午前中は、読み巧者の方達による「歌集を読む」。午後は、河野裕子先生、栗木京子先生、三井修先生のほか、読み上手の方達による「ライブ歌会」。どうやって歌を読解し鑑賞するか、ということの大切さ、難しさを日ごろ感じているので、読み方について非常に勉強になった。そして、閉会。永田和宏先生に「これから東京に帰るのかい?」と声を掛けられました。私「いいえ、これから高野山に行くんです」。永田先生「あそこは怖いところだから、気をつけてね」。名残惜しい挨拶もそこそこに、私は高野山に向かいました。
 私の頭の中は、永田先生の「怖いところだから」ということばがぐるぐるまわっていました。あれはどういう意味????? やっと合点がいったのは、極楽橋に向かう南海電車の中でした。泉鏡花の『高野聖』のことだったんです、きっと。永田先生、あの場で切り返せなくてごめんなさい。

 19時半、高野山の成福院に到着。部屋は旧館1階の白雪5号室という、古い感じの部屋。すぐに夕食。風呂をもらって就寝。
(成福院のHP)
http://homepage3.nifty.com/koya-jfk/
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今日のN響・野平さん

2006-11-05 16:22:21 | Weblog
 今日のNHKFMは興味深いです。

 いま、ロジャー・ノリントン指揮N響がエルガーのチェロコンチェルトを演奏し始めました。これは注目のプログラムだと思います。

 続いての「現代の音楽」。野平さんの作品をやるようです。ピアノ協奏曲も興味深いですが、オペラ「マドルガーダ」にも興味津々です。その台本は、言わずと知れた武満さんがその最晩年に仕事場の机に置いて作曲しようとされていたもの。武満さんのオペラ作品になったかもしれない幻のオペラ台本です。それを野平さんがどのように調理されているのか興味深いです。

NHKFM・3:00PM~
NHK音楽祭2006
【司 会】坪郷佳英子
【ゲスト】諸石 幸生
-ロジャー・ノリントン指揮 NHK交響楽団-

「歌劇“後宮からの誘拐”序曲 K.384」 モーツァルト作曲
「チェロ協奏曲 ホ短調 作品85」 エルガー作曲(チェロ)石坂団十郎
「交響曲 第39番 変ホ長調 K.543」 モーツァルト作曲
(管弦楽)NHK交響楽団
(指揮)ロジャー・ノリントン
  ~NHKホールから中継~

NHKFM・6:00PM~
現代の音楽
【司 会】西村  朗
-作曲家の個展2006・野平一郎から-(1)

「ピアノ協奏曲」野平一郎・作曲(20分32秒)
(ピアノ)マルクス・パヴリック
「オペラ“マドルガーダ”から 4つの場面(抜粋)から
1.序奏 2.人食い動物のテーブルマナー 3.間奏曲」 
野平一郎・作曲(15分33秒)
(ソプラノ)モイカ・エルドマン
(エレキ・ギター)小島 久政
(管弦楽)東京都交響楽団
(指揮)沼尻 竜典
~東京・サントリーホールで収録~
<2006/10/2>

*****

「マドルガーダ」について。

野平さんの「新創作ノート3 2005.7.10」「新創作ノート4 2005.7.11」より、以下引用させていただきます。

オペラ「マドルガーダ」について~ドイツ、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン音楽祭でプログラムノートを担当するIlja Stephanからの質問状に対する答え

1)「マドルガーダ」の台本は、武満徹のアイディアによって出来ています。それは彼の非常に個人的なフィーリング(彼が愛した海やクジラのように)、彼の思想、彼の見方を反映しています。あなたは作曲家として、個性的な世界とともにあるこの誰かのために書かれた台本を受けいるのが難しかったのではありませんか。いったい、「マドルガーダ」の中にいくら野平がいて、いくら武満がいるのでしょう。

「マドルガーダ」に作曲することは、わたしにとって、かけがえのない唯一の体験となりました。あなたは、それを難しかったと想像するのでしょうか。まったく反対です。最初のオペラ経験を、こうした理由からすでに残された台本から出発できたことは、多くの貴重な肯定的なことを私にもたらしてくれました。ケント・ナガノが私にこの台本を勧めてくれた時、少し逡巡した後に「イエス」と返事しましたが、それは武満さんとこの台本の関係をとやかく詮索する以前に、大いなる好奇心が私を襲ったからです。この台本が武満さんのアイディアに基づいていることは事実でしょう。そして、その中にはたとえばヒロインのユミがクジラに救済される場面など、とても彼のし好を強く感じる瞬間もあります。そして、このユミは、彼の娘さんである武満真樹さんをモデルにしているとも言われています。しかし台本は同時にバリー・ギフォードによって書かれたことも事実です。多くの場面において、私は武満さんのことを直接意識せずに台本にタッチすることができました。反対に、作曲の間中ずっと、武満さんよりもギフォード氏のことを感じていた、と言えると思います。武満さんの多くのアイディアは、台本の中に浸透し、バリー・ギフォードは、武満さんの個人的なアイディアを、多くの人が受け入れることの出来るようにより一般的なアイディアに変形することに成功しています。今回、私は最大限この台本を尊重し、それを忠実に音楽に移し替えるように試みました。あなたは私にその割合を質問しましたが、「マドルガーダ」の音楽の中には、おそらく9割の私と、1割の武満、というところでしょうか。

2)あなたと武満の個人的な関係はどのようですか。

もちろん私は武満さんを個人的に知ってはいましたが、しかしその関係はとても親密というわけではありませんでした。私は1978年から90年までパリにいました。作曲家として、またピアニストとして活動していたわけですが、ケント・ナガノにはじめて出会ったのもちょうどその頃でした。彼は私の最初期の作品を、アンサンブル・アンテルコンタンポランで指揮してくれました。90年に私は日本に戻りましたが、そこで武満さんと出会いました。彼の室内楽の作品やピアノ作品の演奏をずいぶん頼まれました。彼の死後、全ピアノ作品を録音したこともあります。ケント・ナガノに日本で再会したのは、97、8年の頃でしたが、小沢征爾さんの松本の音楽祭でのことでした。そこで私はやはり武満さんのピアノ作品を弾いていたのです。従って、私は自分のやり方ですが武満さんの音楽はとても良く理解していたつもりです。武満さんとはホールのロビーなどで数語をかわす程度でしたし、作曲の活動についての深い意見の交換はしたことがありませんでした。逆説的ですが、わたしは、こうした自分のポジションが、作曲中に武満さんのことを必要以上に考えすぎないようにしてくれたのだと思っています。

3)「マドルガーダ」は、典型的なオペラとは少し違っています。幕の観念は無く、14の小さい場面(プラス、コーダ)や、多くの映画のイメージなどです。結局これについては、オペラではなく、action musicalだと言われています。どのような音楽劇の観念を武満は持っていたのでしょう。またあなたは、どのようなオペラ/音楽劇のコンセプションをお持ちなのでしょう。

私は武満のオペラのコンセプションを本当に語ることなどできません。真実を告白すれば、私は武満の劇場作品なるものを想像することが出来ません。彼は多量の映画音楽を作曲しましたが、決して劇場作品を書くことはありませんでした。また彼の器楽作品も、その本質が劇場的であるとは言えません。彼は確かに大江健三郎とオペラのことについて本にしましたし、バリー・ギフォードに多くのアイディアを与えたに違いありませんが、なぜ彼は何年にもわたって一音符も書かなかったのでしょうか。私はこのように想像しています。すなわち、彼の最も素晴らしい劇場に対する観念は、具体的に舞台上で実現することが困難なものではなかったのでしょうか。そしてそれは、想像界にとどまっていたのでは。私は武満さんが彼自身のこうした資質を熟知していたのだと考えています。そして、彼はオペラを作曲すること、すなわちそうしたアイディアが具現化されることをとても躊躇したのだと思います。「マドルガーダ」の台本に、われわれはとても多くの舞台上で実現不可能なト書きを見いだします。二三の例をあげれば、幕が焼けながらオペラが始まること、多くの映画的イメージ、ユミの拘束されている独房に、幽霊の兵士たちが行進すること、あるいは観客の上をクジラが泳いでいくところ、等々。これらはハリウッドの映画監督ともコラボレーションしているバリー・ギフォードによるものと同じくらい、単純な視覚化を常に拒もうとする武満さんの資質によっているものだと理解しています。私自身の「マドルガーダ」のコンセプションということですが、これはかなり伝統的なオペラの方法によっています。オペラの音楽は単純であるべきであると思っていますし、伝統的なオペラでのように、声の持つ直接的なインパクトがうまく観客に伝わるようにとも願っています。わたしはここで再度、台本への尊重を言っておきたい。たとえば、物語が進んでいくにつれて、主人公のユミと彼氏のテバは、周囲からの抑圧を跳ね返すことによって、次第に彼ら自身の人格を発見し、それを確かなものにしていきます。しかし官憲の抑圧は次第に乱暴に、我慢の出来ないものになっていきます。音楽は物語のこの重要な変化を、きちんと表現できなくてはなりません。いくつかの映画の引用の場面については、私はむしろ、自分のやり方で映画の伴奏音楽を書いてみようと思いました。そして、こうした異なった複数の引用のあいだに、音楽的な関連を与えたいとも意図しました。また、いくつかの登場人物たちには、うたうことと語ることとを同じ比重で使いました。Hermaphrodite や、警官たちの役についてですが、これも、なるべく台本の言葉をきちんと明確に伝えたい、という考えから来ています。

4)武満は「マドルガーダ」について、スケッチを残しているのでしょうか、あるいはそのコンセプションを彼が語ったものは残されているのでしょうか。

私が知る限り、武満さんはスケッチを残しませんでした。彼が「マドルガーダ」について書いたものを残したかについては、私は詳しく知りません。どのみち、私はこの残され、完成されていた台本だけから、彼のアイディアをキャッチしようとしてきました。

5) ユミのうたうロック・ソングにある台詞。「ある世代は、毒ガスで窒息させられた。別の世代は、爆薬で一掃された」。これはもちろん私にアウシュビッツやヒロシマのことを想起させます。一体「マドルガーダ」はいつ、どこでの話しなのでしょう。どのような社会がここに描かれているのでしょう。またどのような聴衆に「マドルガーダ」は訴えているのでしょうか。

そうです。それがこのオペラの神秘なんです。一体話しが始まる前にいつ、どこで何が起こったのでしょう。あなたが引用したのがその一つですが、他のすべてのそれを推測させる台詞においても、すべての具体的な事柄は、意識的に隠されています。私は、この抽象性や両義性が、この話しの幅を大きくしているのだと思います。もしすべてが明確に語られていたら、それはとるに足らない探偵小説か、単に若いカップルの冒険物語の類いになってしまったでしょう。物語が始まる前に何が起こったのでしょう。それはおそらく、原爆投下とか、最も恐ろしいジェノサイドとか、あるいは同名の小説にあるような「日本沈没」か、そのようなレベルのものであったに違いありません。このすべてでありうると同時に、それらではないかもしれません。われわれが知り得ること、それは幕が焼ける間に間に見えること、数々の映画のイメージ、浜辺でのユミの見る夢、こうした事実の反映のみでしかありません。どこで、この話しが起こっているのかについてのバリー・ギフォードの書いたいくつかの手がかり、例えば「彼女は、タンジェ、アルジェ、ないしマラケッシュに似た町を歩いている」といった記述も、決してこの問題に回答を与えるものではありません。他のバリーの記述から、私には科学小説の未来都市のようなイメージもあります。とにかく、こうした多くのまき散らされたイメージが、それに対応する音楽表現の多様性を必要としているということです。いずれにしても、この視覚的な、そして音楽的な多様性を通して、われわれは今日世界が抱えている本質的ないくつかの問題、それは世代間の対立、社会の抑圧、そしてテロリスム等々といったものですが、こうした問題に対する強いメッセージを受け取るのです。。

6)オペラの最後の台詞は、「私を忘れないで」です。もちろん武満がオペラを完成させることが出来なかったことは、彼の生前は誰も予見できなかったでしょうが、私には「マドルガーダ」が一つのレクイエムのようにも考えられます。これはまったく間違っているでしょうか。

私はくじらの大群のセクションには、その実現により幾ばくかの困難さを抱えていました。しかしこの最後の部分については、とても気に入っていました。なぜなら、このコーダによって、物語が(両性具有者)とともに、宙刷り状態で終わるからです。この奇妙な人物が、その前のクジラによるユミの救済の場面のちょっとしたハッピーエンド的な感じを救っているからです。マドルガーダをレクイエムと考えるあなたの意見はとても興味深いですね。どのみち、その初期の作品から武満は「祈り」のために作曲していたと言えます。その祈りとは、実際の宗教に関するものでなく、一般的に人々が持っている祈りの感情ですが。ラグリマスの台詞、「この建物は、かつて、人々が、神と分かり合うためにやってきた教会であり、シナゴーグでもあり、同時にモスクでもあった」とあります。

7) あなたの音楽は、どのように登場人物たちを性格付けしているのでしょうか。ユミは五度音程、ラグリマスは半音階の音階と関連しているように見えますが。

その通りです。私は、登場人物や状況を描くのに「ライトモチーフ」のようなものは使いませんでしたが、音程や楽器法によってそれを表そうとしました。毎回ユミが舞台に表われるたびに、彼女は五度音程を、常に木管が奏する決まった和音の上に歌います。私にとって、この音程はユミの性格、非常に清潔であると同時に、真実を追究するためには決して抑圧に屈しないという強いそれを表すのに最適であると思われたからです。Hermaphrodite (両性具有者)については、カウンターテナーによって歌われ、女性でも男性でもあるというその奇妙な人物を表しています。彼の/彼女のヴォーカルラインには、多くのグリッサンドを使い、歌うことと語ることとが一つのフレーズ、さらには一つの言葉の中で頻繁に交代します。さらに彼/彼女の周りに、Es 管の小クラ、バスクラ、ピアノやいくつかの打楽器などによる特別な音色が取り巻いています。
ラグリマスのヴォーカルラインは、上下行する半音階と、ミュートを付けられた金管楽器群によって性格付けされています。このミュートは場面によって、その種類が変わっていきます。たとえば彼女が最初に表われる時、第6場ですが、その冒頭ではトロンボーンとチューバに通常のミュートが、中間部ではホルンにミュートが付けられたり、ブッシェで奏されたりします。しかし第12場で彼女が再び舞台に戻ってきたときは、トランペットとトロンボーンにワウワウミュートが付けられています。そしてこの特殊なミュートの二つの可能な音色、オープンとクローズの状態の上に遊んでいます。金管楽器は、その時々の台本の状況に呼応して、ミュートが付けられたり外されたりします。
さらに何を語るべきでしょうか。各場面は、同じようにオーケストレーションによって性格付けされています。いくつかの例としては、「夢」と題された場面(第1、2、3、8場)の多くにおける弦楽器の重用、第2場の「仮の」ジャズ・ビッグバンドや、第4場のこれも「偽」ロックバンドの主役としてのエレキギターと、奇妙にもものすごいスピードで演奏されるヴァイオリン群との連携、等々。
さらに、場面の内容に応じて、私はオーケストラを室内楽に近づけたり、大テュッティーを使ったり、それを交代させながら用いている。たとえば第6、12場の警官や刑務所の役人との場面だが、楽器数はとても限られている。いくつかの打楽器とピアノ、ピッコロ、ヴィオラソロ等々、でその前後の場面との最大限の対照が意図されている。しかしいままで述べてきたようなことに、何も新しいものはありません。こうしたすべてのことは、すでに20世紀の初頭、たとえばベルクの「ヴォツェック」で素晴らしく実現されていることです。

8)あなたの音楽は、どのようなコンセプションを持っているのですか。一方で、あなたのトリスタン・ミュライユやジェラール・グリゼーへの興味についての記事を読みました。また他方で、バッハやベートーヴェンを素材にした「再作曲」について知られています。しかしそうしたコンセプションを、あなたのヴォーカルスコアから読み解くことは難しいのです。

なぜなら、「マドルガーダ」は、いつもの私のスタイルから幾分外れているからです。おそらくこのオペラは、私がいままで書いた作品の中で最も伝統的なものかもしれません。それにはいくつかの理由があります。
最も大きな理由として、このオペラのヴォーカルラインをなるべく単純なものにしようと意図したことがあります。 Hermaphorodaite の役を除いて、無調のスタイルで常に出会う難しい音程を避け、なるべく四度、五度、三度など、なるべく歌手がキャッチしやすいような音程を使おうと思ったことがあげられます。
もうご存知のように、このバリー・ギフォードの台本を私に勧めてくれたのはケント・ナガノですが、彼の最初の私へのサジェスチョンは、なるべく平易なスタイルで、なるべくシンプルなヴォーカルラインを、という正にこの点でした。現代オペラの経験豊富な彼のサジェスチョンを、とても重要に考えたのです。
私がパリに住んでいた頃(1978~90)ですが、パリ音楽院を卒業して、私はスペクトル楽派のミュライユやグリゼーのグループ、アンサンブル・イティネレールでピアノや電子鍵盤楽器を弾いていました。従って私はとても良く彼らの方法論を知っています。彼らの思想やメソードは私の考えを形成するのに大変影響を及ぼしたことは事実ですが、しかし私は決して彼らの方法を自分の作品にそのまま適用しようと思ったことはありません。私は自分のスタイルを一言で表現するようなことは出来ません。確かにパリで80年代に出会ったヨーロッパの作曲家たちには、ずいぶん影響を受けました。フィリップ・マヌリ(ピアノとコンピュータのための「プリュトン」や、ピアノと室内オーケストラのための「東京のパッサカリア」を初演しました)、マグニュス・リンドベルク(「UR」のパリ初演をおこないました)、トリスタン・ミュライユやジョージ・ベンジャミン(「アンタラ」を初演しました)といった作曲家たちです。いずれにしても、何人かの日本の作曲家のように、絵はがきに書かれた日本をセールスポイントにするような立場からは、一定の距離を置いています。まとめると、私のパリ時代では、現代音楽の世界だけと接触していましたが、東京に戻ってから(1990~)は、クラシックの世界も含めてより広い世界と関わりを持つようになり、私のスタイルは多様性を持つものへと変化していきました。

http://www.ff.iij4u.or.jp/~nodaira/sinsou03.htm
http://www.ff.iij4u.or.jp/~nodaira/sinsou04.htm
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アレオパゴス・FISH・ライオンシェア・夢

2006-11-05 13:42:30 | Weblog
 まずは昨日の日録メモから。

 昨夜は、乃木坂の聖パウロ女子修道会チャペルでのアレオパゴスの祈りに久しぶりに出掛けました。昨日はどういうわけかチャペルの灯りが遠かったです。。。チャペルの灯りに対して以前に感じたような近しさというか親しみの気持ちが湧いてきませんでした。。。そこになにか一抹の寂しさを覚えました。それはけっしてシスターたちの様子が変わってしまったということではなくて、お会いするシスターはどの方も気さくで親切でにこにこされていて変わりはないのですが、チャペルの建物が私には妙によそよそしくそこに聳えている感じがしてなりませんでした。。何かが変わってしまった。。。というように思いました。。。
 昨日の夕飯は、これも久しぶりに、赤坂アークヒルズのカレー屋・FISHに行きました。もし、都内であなたがおいしいと思うカレー屋を2店挙げなさい、と聞かれたら、私は躊躇なく、代々木のライオンシェアとここを挙げると思います。それくらいに、ここのカレーの味が好きです。

FISH
http://curry.smori.com/database/fish.php

ライオンシェア
http://www.lionshare.jp/
http://girls.www.infoseek.co.jp/express/sparkling2005/turned/p02.html

+++

ライオンシェア店主の吉野さんのコメントより。

・11月より牡蠣カリーをはじめます。広島県産大粒牡蠣がゴロゴロと入った、旨みがたっぷりのカリーです。ぜひお試しください。

「2周年を迎えることができました」

ご来店いただいたみなさま、本当にありがとうございます。お一人お一人にお礼を伝えたい気持ちです。2年間の感謝のキモチをこめて、下記日程でキャンペーンをおこないます。お返しできるのはわずかばかりですが、この機会にまたご来店いただけたら嬉しいです。みなさまのお越しを心よりお待ちしています。

LION SHARE 2nd Anniversary
Special Thanks WEEK!
★ 2006. 11.6 mon ~ 11.11 sat

Lunch
セットドリンク無料+酢たまご(ハーフ)つき

Dinner
カリー全品 ソフトドリンク(またはグラスワイン)+酢たまごつき

この2年の間に、ここ代々木にも大きな建物ができたり、新しい店がオープンしたり。それでも都心にしては、随分とゆっくりなペースです。代々木を選んだのは全くの偶然。でも今ではこのゆっくりとした感じがうちの店にはあっているのだなあと思っています。少しずつかもしれないけど、着実に。どうしてもライオンシェアのカレーが食べたい!と、思ってもらえる唯一無二の存在になること。そんなお客さまが増えてくれること。3年目もがんばります。

<LION SHARE>
Open: Monday to Saturday
(定休日 : 毎週日曜、祝祭日)
Lunch  11 : 30~14 : 00
Dinner 18 : 30~23 : 00 (22:00 last order)

〒151-0053  東京都渋谷区代々木 3-1-7
Tel : 03-3320-9020
Mail : info@lionshare.jp

ライオンシェア店主・吉野さん(プロフィール)
1974年3月生まれ。大学卒業後、アルバイトをしながら人づてに依頼され単発で映像のシノプシス(骨子)や脚本を書くような仕事もこなす。そこで生まれた映画関連の人脈を伝い「シネセゾン」へ就職、約1年で退職。再度アルバイト中、「TOKYO-FM」の求人を知り就職。約5年間イベント事業部で試写会イベント等の仕事に携わる。長野・松本にあるカレー店に通ううちに一念発起で退職、1年間単身修行。2004年10月に開店。

(以下、引用です)

これがやりたい! と思えるものがなく、大学卒業後就職はせず、アルバイト先を転々としていた吉野さん。映像ビジネスに携わる知り合いのつてで簡単な脚本を書くなど単発の仕事もこなす。自分の書いた脚本が選ばれ、札幌で行われた映像制作のセミナー合宿に参加した経験も。そこでできた人脈によってミニシアター系の映画を多数扱う配給会社に就職したのが24歳のとき。

吉野さんの好みだった映画作品を手がけるこの会社では楽しく仕事することができたものの、約1年で退職。再び自分の方向を迷いアルバイトしているところに以前の仕事での知り合いを通じ求人を知り、戸をたたく。「それが「TOKYO-FM」主催の試写会イベントを行う仕事でした。やりがいを見出せているのか分からないままでしたが、必死に仕事をし気がつけば5年も続いていました」。

人間関係にも恵まれて、楽しく仕事ができていた。そんな吉野さんの転機は、仕事仲間で旅行に行った長野にある、ちょっと風変わりなインド料理店『シュプラ』で訪れた。「何度か通ううちにハマってしまった不思議な美味しさ。「この味、自分でできたらすごいかも」という気になり、勢いで会社を辞めたのが29歳のとき。店主に修行させてと交渉する前でしたから、向こう見ずですよね!」

熱意を伝え、修行がスタートできたものの、師匠のあまりの厳しさに何度もくじけそうになったとか。でも、何か手に職をつけたい、一生続けていける仕事を見つけたいと考えた彼女に、この修行はレシピを身につけるだけではない初めてのやりがいを与えてくれた。「東京に戻り開店にこぎつけるまでも大変でしたが、誰よりもこのカレーが好きと心から言える私は、本当に幸せです!」

(以上、引用終わり)

+++

 今朝の夢メモ。

 私は、同僚たち(?)と、どこかの組織(?)の十周年記念行事があるという名古屋を目指していました。。。東京駅から新幹線に乗車したのですが、座席が非常に奇妙で、私たちは車内から梯子で車輌の屋根にのぼり、そこに設置された取っ手にしがみつくのです。同僚のひとりが「この《しがみつき席》は安くていいんですよ」と私に教えてくれました。発車ベルが鳴って新幹線が走り出すと、とにかく風圧がすごいのですが、そのうちにそうした環境にもなれてきて周りを見回すことができるようになりました。。。ふと空に目を遣ると、恐ろしいことに、大きな飛行機が海に墜落していくところが見えました。たちまち、走行中の新幹線の車内から何十人ものたくさんの車掌が手に手にレスキューバッグを抱えて飛び出していきました。私も、傍らの同僚たちに「ぼくらもなにかしなければいけないね」と話したところで、目が覚めました。。。。
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