月が揺れてゐた、それとも、私が揺れてゐたかもしれぬ
春はいつも揺れてゐて、モーツァルトが春の苦沙弥に顔顰めてゐた
とにかく印象的だった。
毎朝胃の不快感から来るなんとも言えない生々しい重苦しさで目覚めるのが常であった夏目漱石だったが、その朝は、じつにじつに、〈I love you.〉を(空欄①)と訳してみせた昨日のわが授業は近来になく大成功だった、と、思わず寝床でニンマリしてしまうのであった。しばらく天井板に向かって微笑みかけてから、よいしょと起き上がり、(空欄②)を催して(空欄③)に入った。空砲数発の後、立派な実が出た。
〈ひと〉はやがて傘となりゆく 曇天の春爛漫をひとり哀しむ
傘となりてしまへる〈ひと〉を差して行く 好きだつた酒場卓にそつと掛けて帰る
通るたび扉の前に傘はをり 言ひたきことある眼でいつも吾を見る
地下厨房に仙人寝てをり大柄杓とぐつぐつ煮えたつ冬瓜の鍋
ビートルズの「イエスタデイ」は1965年にリリースされたので、1964年の人々は「イエスタデイ」のあのメロディもあの歌詞も誰も知らなかった。例えばケネディ大統領にお尋ねしてみたらいい。大統領は決してご存知ないから。そして、悲しいことに大統領はそれをお聴きになることはそれ以降もなかった。昼間、鎖で雁字搦めに封鎖された大学キャンパス横の溜まり場の喫茶店に行くと、仲間は誰もいなかった。手持ち無沙汰で暇そうな初老のマスターが、今から買い出しに行って来るのでしばらく店番をしてくれと言い、出ていった。鞄から買ったばかりの青いボールペンを取り出し、フリーハンドで一本の縦線をノートの真ん中に書いた。時間軸としていろいろ書き込んでみようと思った。
仕事の後、帰宅してから、国会図書館デジタルアーカイブの永山近彰編纂『加賀藩史稿』(出版人前田直行、1899年)を開き、改めて青山吉次家と山崎長徳家に関する記述をじっくり見て、これまでのいろいろな勘違い誤りに気が付いて、ノートを大幅に訂正した。明日も仕事がかなり忙しくなる予定。
日置謙『加能郷土辞彙』(金沢文化協会、1942年1月)の記述に補足。
加賀藩士青山俊次(あをやまとしつぐ)
通称伊豆。父青山豊後長正と母山崎長徳娘との次子。元和元年五月二十日齢四十三を以て父長正が歿したため、長正の遺知のうち、兄豊後正次が一萬三千五百石を、俊次が二千石を受けたが、兄豊後正次二十二歳にして歿したため、その嫡子将監吉隆は幼なるを以て正次遺知のうちの三千石を与へられ 、俊次に又二千石を分かって後見を一括した。然るに吉隆の十四歳に及び、俊次が本家の武具重器を吉隆へ引き渡す際、俊次は返却を渋り、吉隆の家老早崎庄左術門と諍ひになりて俊次は早崎を手討にしたので、吉隆が公に俊次の所業を訴へ出て、俊次は能登富木へ流刑に処せられ、寛永十九年八月十七日能登富木で歿し、家断絶した。
加賀藩士青山吉隆(あをやまよしたか)
通称鶴千代・與三・豊後・将監。父は豊後正次。元和七年八月十日正次二十二歳にして歿したため、吉隆四歳にして家を継ぎ、禄三千石を受け、十四歳にして三千石を加へ、前後増禄九千六百石に至った。性勇壮を以て神尾直次・前田恒知・寺西秀賢と共に四天王と称へられ、寛永十六年前田利常隠居の際に小松城に従ひ、正保の初め前田綱紀の傅(ふ)となり、萬治二年齢四十を以て歿。
カリンニコフ作曲「交響曲 第1番 ト短調」
(管弦楽)NHK交響楽団、(指揮)エフゲーニ・スヴェトラーノフ
(36分14秒)
<KING RECORDS KICC3018>
今日もこれから仕事。
一昨日の3月21日は、優れた小説家で不世出の映画監督でいらした青山真治監督の一周忌の御命日で、また、作曲家ムソルグスキーの誕生日でもあった。すなわち、モデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキーは、1839年3月21日に生まれて、42歳の誕生日の一週間後の1881年3月28日に亡くなった。というわけで、一昨日は、作曲家の184歳の生誕記念日として、胸奥でささやかに『モスクワ河の夜明け』を流した。
https://youtube.com/watch?v=ViF0SytqhHg&feature=shares
今日は、小学校時代の恩師の80歳のお誕生日。先生、お誕生日おめでとうございます!