昨日は久々の休日だった。なんとなくカフカを思い出した暑さの日。朝、いくつかの用事を済ませ、昼間に大学の友人nさんと約束して久しぶりに会って食事したり人生の話をしたり千駄木の少々変わった書店を覗いたり森鴎外記念館をじっくり見たりと久々に非常に有意義で楽しいひとときをもったあと、夕方、実家に向かい、父の祥月命日へのお経を仏前であげた。今朝は実家で朝の4時半に起床、用意して30分歩いて駅へ出、電車に乗って仕事場へ。明日は父の祥月命日。私はいつも通りに仕事。
しごとのあと、久しぶりにジュンク堂書店池袋本店へ。松村正直著『高安国世の手紙』(六花書林)と、きさらぎあいこ著『近藤芳美の音楽の歌―或る楽章からマタイ受難曲まで』(本阿弥書店)を購入。高安国世氏といえば作曲家松村禎三氏。松村氏は、肺結核闘病中に俳句結社で結社賞を巡り寺山修司氏と張り合ったほどの俳人だが、旧制三高時代は恩師の高安国世氏にいくつかの作曲作品を献呈しているらしい。まことに興味深い。
らあらあとわが声徹りゆく森よ 応(いら)へなきゆゑ癒ゆるこころは 大辻隆弘
大辻さんの第1歌集『水廊』所収の一首。「らあらあ」のオノマトペと、「声徹りゆく」の「徹」の字がまず目を引く作品。誰もいない森に向かって「らあらあ」と叫ぶ作中主体。その声はすうっと徹って、戻ることなく深い森の奥に吸い込まれて行くのだが、とくべつ何も「応へなきゆゑ」、作中主体のこころはしずまってゆく。そういう一首。
大辻さんの第1歌集『水廊』所収の一首。「らあらあ」のオノマトペと、「声徹りゆく」の「徹」の字がまず目を引く作品。誰もいない森に向かって「らあらあ」と叫ぶ作中主体。その声はすうっと徹って、戻ることなく深い森の奥に吸い込まれて行くのだが、とくべつ何も「応へなきゆゑ」、作中主体のこころはしずまってゆく。そういう一首。
仮に、『赤ずきん』の物語をバレエ化するとして、赤ずきん=王女、狼=王子、王子に狼の呪いを掛けた魔王といった面々を登場させたらどうだろう、とふと考えていたら、ハチャトゥリアン風のワルツの音楽がどこからか聴こえてきた。
なにかの拍子に首の筋をたがえてしまったらしく、今日は一日、顔を仰がせるたび首裏ににぶい痛みを覚えて顔をしかめることになったのだが、帰ってきてから早速軟膏を貼ったら大分楽になったので、ラジオを流しつつ池井戸氏の『架空通貨』の続きを読んでいます。
先日の扁桃腺以来、なにかと微熱が続いているようなのは、この異常に続くひどい暑さのせいなのかどうか。しごとから家に帰ると冷蔵庫でキンキンに冷やした冷えピタを額に貼るのがひそかな楽しみ。一昨日は処暑だったらしい。
鰻とる細工して畦にゐる児らの下駄乾きつつ道にちらばる 大西民子(歌集『不文の掟』より)
「下駄乾きつつ」による時間経過の表現が見事。
岩城宏之氏が口述したものをまとめあげた『山本直純との芸大青春記―森のうた』(講談社文庫版、2003年)を、以前に朝日文庫版を読んで以来何十年ぶりかで読む。こちらの解説は林光氏。あらためて、みな、鬼籍に入られた人ばかりになってしまった、と寂しく思う。
どこなのだろう、そこはたくさんの人たちがしづかに穏やかに優しく座っているところなのだけれども、海を見下ろしている。海にはたくさんの人たちが着衣のままで沖へ泳ぎ出そうとしている。無事になんとか乗り切ってほしいと私は思っている。
町へのただ一つの入り口の検問所脇の側溝に夏のある晩、薄汚れた犬が死んでいたことがあった。事実は大きめのぶかぶかな毛糸靴下を履いて就寝中のメゲネル検問所長のもとにすぐに伝えられたが、酒精で脂ぎった不夜城のごときお歴々の集う町の裁判所は案の定その犬が町に入ろうとしていたのか町から出ようとしていたのかを朝までおいてはおかれぬ大問題とし、検問所長に事実を直ちに判事の前で詳細に説明せよと出頭命令を下したので、犬の第一発見者たる検問所三等係官オータサブローはその夜のうちに寝室兼書斎代わりの家の物置から検問所に呼び出され、検問所の木製扉に自転車を立て掛けた。