今日は休みで、昨晩しごとのあとで遅く宿に入った。今朝、朝食に食堂へ行き、入り口で会った可愛らしい女性店員さんに挨拶して席につくと、その店員さんから、此方には長く滞在されているのですか、昨日の朝も明るく楽しく入っていらっしゃいましたね、と笑顔で話し掛けられた。いえ、昨晩は遅く此方に来て、とびっくりして答えると、本当に似ている方がいらっしゃるんですね、とその店員さんも驚いていた。
最近、そんなことが他にもあったような気がするのだが、その記憶はどういうわけか深い霧の向こうにあるらしい。
今朝は、知っている範囲の身内で唯一作曲と演奏の音楽家をしている遠縁のA兄に誕生日祝いのメールを打ち、ポリーニ&サヴァリッシュ指揮NHK交響楽団演奏のブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴きながら小青龍湯を飲み掛けているところへ、思いがけず部屋時計のアラームが鳴り出し、驚いてすこし薬を胸にこぼしてしまった。春への手紙はまだ書けていなくて、鞄には封筒と便箋とペンとが入ったままだ。今日もこれからしごと。
尺八と箏のメロディというと、ついつい有名な『春の海』を連想してしまう。
しごとから帰宅して、『武満徹・音楽創造への旅』と『NかMか』の二冊を今宵の枕頭の書にして寝床に潜り込む。冷たいお茶を飲みすぎたせいでお腹がよく鳴る。
藤家渓子さんのエッセイ《雪舟と拙宗》(随想集『小鳥の歌のように、捉えがたいヴォカリーズ』(東京書籍)所収)より。
メモ。
(前略)
過去の偉大な作曲家たちの作品を見ていくとき、死の直前の時期に書かれた曲が、特別な光彩を放っているという印象を強く受ける。自らの死期を悟っているような場合は「さもありなん」と思うが、(実際のところはわからないが)状況から推測して死を予感してはいなかっただろうと思われるケースでも、まぎれもなく当人の曲だという特質を備えつつ、どこかそれまでとは非常に違った感じのえもいわれぬ素晴らしい曲を残して逝くことが多い。そんな場合、理性的に考えればもうすぐ自分が死ぬような理由は見当たらないとして深く思いを至らせなかったとしても、本人はどこかで死を予感しているものなのだろうか。顕在意識では知らなくても、無意識の領域ではわかっていて、それが作品に影響を与えるのかもしれない。
人間は誕生の瞬間から死へ向かって一歩一歩行進しているというような、そんな直線的軌道を思い描くのは間違いで、本当は何度も死に近づいたり遠ざかったりということを繰り返す、もっと複雑な軌道を描いて生きていくのではないか。そしてそれにも何らかの周期があるのではないか。
時々、自分の命が「薄く」なっているような感じを持つことがある。1~2日なのか、もう少し長いのか、徐々に元に戻っていくようなので判然とはしないが、それは、体調が悪いという感じではなく、「生命力が希薄になっている」という表現から連想される、ネガティブなイメージばかりでもない。霊界により近い感じ、とでもいおうか。もとより人間は霊的な存在であるというから、このいい表し方は妥当でないかもしれず、いっそ単に夢見心地といったほうがよいだろうか。ともかくそんな時は、下手するとちょっとしたことから、事故などに遭って命を失うような気がして、なるべくおとなしくしていようと、漠然とではあるが心がけている。その一方で創作にはとてもよい時期で、自分のものとも思われないような発想が浮かんだりする。
(後略)
昨日はしごとのあと、池袋ジュンク堂に立ち寄り、立花隆氏の『武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋刊)を購入。武満さんの音楽のもつ深い魅力・味わいに最近ようやく遅れ馳せながら気付けてきたような気がする。そういう武満さん的な魅力を、私のつくる〈ブルネグロ〉ものになんらかの形で応用できたら、が近頃の願望。
昨夜はかなり疲れていたのかもしれない。今朝は、意中の可愛らしい女性に振られる夢を見て、予定よりも少々寝過ごしてしまった。
そういう夢のせいか、起きてからずっと頭のなかをやや安っぽいメロドラマ風な音楽が鳴っている。
とかなんとか呟きながら、クリスティの『NかMか』を持って寝床に潜り込むのである。それがきまりごと。
明日もしごと。
今朝は、武満さんの『弦楽のためのレクイエム』を聴きながら、ハーブティーを飲んだ。ハーブティーが胃へ下ってゆくと、どんなハーブがどう効いているのかわからぬも、腹腔内で腸が目覚めてぐるぐる動き出すのをありありと感じる。
昨夜は母と電話で、もしも今生きていたら110歳になっていたはずの、38歳で亡くなった祖父のことをいろいろ話した。
今日もこれからしごと。
今朝聴こえてきた、うた。
今朝。ラジオ録音を再生。片山先生の解説のあと、アーノンクールの演奏によるベートーヴェンの交響曲第五番『運命』第1楽章を聴きながら、冒頭の有名なフレーズで、ベートーヴェンが、なぜ弦楽器とクラリネットを一緒に鳴らしたか、なぜ弦楽器だけにしなかったか、初めて理解できたような気分になった。ここでは、民衆の英雄だったはずのナポレオンが〈皇帝〉になってしまったことへの民衆の怒り、失望が描かれているのかもしれない、と。弦楽器は〈民衆の声〉で、クラリネットは〈ベートーヴェン自身の声〉、と。。
画像はしごと場に向かう途中の、今朝の空。
昔いっとき非常にはまったことがあったクリスティのトミー&タペンスものに最近再びはまっている。面白くて仕方がない。『NかMか』をいまはどこに行くときも携帯し、気ままにぱっと頁をひらく。本当は手紙を書かねばならないのだけれども、ついつい物語の先が気になって手紙が後回しになる。それぐらいに、久々にはまっている。
フルートの奏でるパッセージがどういうわけか頭のなかをしきりに廻る今宵です。