塔5月号より。作者名敬称略。
大好きなゆふべを母は歩きゐし水よりも濃きかげを曳きつつ 千名民時
上向いてプラネタリウム観る我もまたプラネタリウムのなかの人 うにがわえりも
子どもなら何も思わず読んだのか「圧迫・気絶の後に針刺す」 椛沢知世
そして、〈3月号真中さん選歌欄評〉記事より。
乗る駅に落としてください溜息と今日の私の重い言葉を 北山順子
私にとって、創作においての〈先生〉は、私の背中を遠くからでもいつも押して励まして下さる存在。〈ああ、作りなさい〉〈こう、作りなさい〉と身近に事細かに指示される方ではなくて、どこにいらっしゃっても〈あなたの作りたいように作りなさい〉とニコニコと温かく見守って下さる方が〈先生〉。そういう意味で、有り難いことにたくさんの〈先生〉が居てくださる。
ただもしも、誰かから、あなたにとっての短歌創作における〈先生〉のお名前を二人挙げよ、と問われたら、やはり、河野裕子先生と日高堯子先生のお二人のお名前を挙げるかもしれない。歌誌『塔』五月号に、村上さんの素敵な歌集の書評を日高先生がご執筆されているのを見つけて、先生のお名前と温かいおことばがひたすら懐かしくて仕方がない。
私も頑張らねば。
ブルネグロ飛行男爵邸跡のあの日のケチャップ染みたる聖書
西塔を取り壊さむと重機五台 国境検問所にて停めらる
あの朝の悲劇を忘るることなかれ ブルネグロ飛行男爵墜死の
当主亡き小国に大国やつて来る サンタのやうなマスクを被(かぶ)つて
ブルネグロの血統は全てゐなくなりぬ 空に小鳥は歌つてゐても
にこやかに鋼鉄の仮面が手を振りぬ 駅前通りの軍事パレード
西塔の可動式屋根に一輪の潜航艇型薔薇は咲きをり
地図の上(へ)のラー油バーガー滲(し)みよりも小さき国家(くに)なり中世以来
姫様をひそかに匿ひし《青の騎士》 庭園地下の水番小屋に
朝のカフェに新聞記事は切り抜かる「《王党派メロン》に強制捜査」
《親方》は目を瞑りをり二十杯目のウィンナコーヒー店員に入れさせ
《親方》の携帯電話はブラックベリー 着メロはいつもマルセイエーズ
〈死ぬまでにはいつかきっと、小さな頃から気付けばいつも頭のなかで明晰に鳴っている交響曲とチェロ協奏曲を一つずつ譜面に書き上げられるはず〉と漠然と信じていられたのは、その頃自分が若かったからなのかもしれぬ。しごとをしてきて疲れたからだを寝床に横たえて、ブラームスの弦楽六重奏曲第1番なぞを聴いていると、残り時間の少なくなってきた手触り感がやけに妙に生々しく身巡りに降りて来て、正直空虚に回転するばかりの焦りの念が喉元を苦しくする。本当に、人生とは思い通りに行かないものだといつもの繰り言を呟いて目を瞑る。何のための人生なのだろうか。何のために生まれてきたのだろうか。この世界の時間はその生真面目さを表現したらまったく冷酷なくらいに正確無比に終わりへと進んでいく。忘れがちだが、この世界には夢だけでなく明らかな終わりがあり、終わりは必ず来る。目を瞑る。とにかく眠りたい。
Je pense, donc je suis.
この世界での終わりが来たら、たしかに存在してきたあらゆるどんな思いも音楽もことばも物語も消滅してしまう。存在とはそういう不確かなものなのだ。
という一首を歌誌『塔』2006年5月号に出したことがある。そうしたら、ネットの辺境の一隅で誰かが、この一首の〈彼のひと〉を〈モーツァルト〉と読めない輩は怪しからんみたいなことをほざいたらしい。今さらなのだが、〈わからん奴は怪しからん〉なぞとほざく輩こそが怪しからんと私は思うのだ。読みなんて、正解なしの百人百様。そうだからこそ、これまで私は短歌の読みを楽しみつづけている。