小池光氏の第4歌集『草の庭』(1995年刊行)より。
雪やみし夕微光にてザゴルスク聖トロイツェ修道院の庭いかに 小池光
おそろしく太き鼻毛を抜きたるとこゑあげて庭の子供らを呼ぶ 小池光
ありふれし中年われは靴の紐ほどけしままに駅に来てをり 小池光
〈藤野 恒三郎は、日本の医学者、細菌学者、医学史研究者。大阪大学名誉教授。神戸学院大学名誉教授。 1950年に集団食中毒の原因として腸炎ビブリオを発見した。適塾を主とした近代医学史の研究でも知られる。魯迅の恩師として知られる藤野厳九郎の甥。祖父藤野升八郎から三代続けての医家。〉とWikipedia記事にある。藤野恒三郎先生と祖父とは大学で同期だったらしい。祖父も医家三代目だったから、藤野先生とウマが合ったのかもしれない。祖父たちは未年の昭和六年に官立大阪医科大学(大阪帝国大学医学部の前身)を卒業したメンバー同士で同期会〈六羊会〉をつくり、定期的な集まりを持っていたそうで、そうした集まりに関する短信が同窓会誌に掲載されているのを吹田の医学部史料館で見せて頂いたことがある。
塔1月号のp107、永田先生の選歌後記欄に、竹内さんの一首とともに永田先生が綴られた文章を拝読して、かように藤野恒三郎先生と祖父のことを思い出した。
そういえば、奇しくも今日は、病から満州牡丹江で早死にした祖父の誕生日だ。
以下、竹内さんのお作と永田先生のご文章を、塔1月号から引かせて頂きます。。
終生を「惜別周君 藤野」とふ恩師の写真を手離さざりき 竹内真実子
魯迅の本名、周樹人。仙台医学専門学校に留学したが、そこで出会った生涯の恩師藤野厳九郎との関わりを短編として書き残したのが『藤野先生』である。よく知られた話だが、その写真を目の当たりにしての感激だろう。
実は私がむかし指導した大学院生に藤野さんという女性がいた。藤野先生の孫か曾孫だったと聞いて驚いたことがある。整形外科医で、小さな身体だったが、患者に馬乗りになって骨を鋸で切るんですなどと、あっけらかんと笑っているかわいい女性だった。(了)
いちにち休みの今日は、ひるま、文月さんの短歌連作『余白の地へ』(2019年1月26日(土)東京新聞夕刊〈詩歌への招待〉)を胸に思い浮かべながら、メロディを考えていた。結局、ノートには何も書けなかった。塔のSさんにエッセイ〈私の塔の読み方〉草稿を送り、チェロ協奏曲のためのスケッチをすこしメモ。
昨夜は、しごとから帰ってきて、ソヒエフ氏指揮N響演奏会のラジオ放送の予約録音を再生してなんべんも聴いた。一曲目は、リャードフの交響詩『バーバヤガー』。短い作品ながら、すこぶる面白い。そういえば、何年も前のサントリホールで初めて聴かせて頂いたソヒエフ氏指揮N響の演奏会のプログラム一曲目は、やはりリャードフの交響詩『魔法にかけられた湖』で、これも素晴らしい演奏だったことを思い出した。二曲目は、グリエールのハープ協奏曲。ソリストの方は初めて聴かせて頂いたが、素晴らしく巧くて凄かった。圧倒的な名演。というか、私が単に無知なだけだった、ということ。今はフリーになられているが、以前ウィーンフィルのソロハープ奏者として活躍された方とのこと。最後のベルリオーズの『イタリアのハロルド』もまことに素晴らしく佳かった。
心が洗われた。
しごと休みのいちにち、歌誌『塔』1月号をぱらぱら見ていた。拙作については、ページを開いている途中で偶々目に入って、ああ、そうだっけ、こういうのを出していたのだっけ、と思ったのみ。辺野古埋め立て問題にはもう少し違った詠み方があったなあと反省。
月集欄の進藤さんのお作から。
菫色と思いし空がたちまちにしっこくとなりともし火見ゆる 進藤多紀
新樹集下欄の吉川主宰の青蝉通信、今号は〈テスト問題の歌〉で、その文章の中に引かれていた一首に目が惹き付けられた。
問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい 川北天華(かわきたゆき)
なんと美しい一首だろう。ずっと胸のなかで口ずさんでいたくなる。
なんでも、後に京大理学部に進まれたという川北さんは、岡山操山高校時代の2009年にこの短歌を詠まれたらしい。他の作品を是非とも拝読したくなるような、この一首の魅力的な佇まいだ。
歌誌『塔』2019年1月号、月集欄より。
馬橇の荷台に子牛はうづくまり冴え冴えととほき星を見てゐし 岡部史
雨の日のタイヤにはかに太くなる轢きゆくことを際立たせつつ 梶原さい子
薄明にはたらく葉虫のように書く晩年の父の肉筆ありき 山下泉
惹かれます。
記事メモ。川島先生の〈アカデミズムの終焉〉。
https://ooipiano.exblog.jp/30060341/
記事メモ。久石譲ファンさんの〈久石さんの交響曲〉。
https://hibikihajime.com/disc/22101/
一条の光射して扉(と)は声たて笑ひをり ゲーテが最期に果てたる部屋に