墓掃除&お参りのあと、小豆島から高松港に戻り、高松市由良町にある天然ラドン温泉の銭湯〈由良里の湯〉へ。高松駅からレンタサイクルで向かえば、道のり15キロほど、とのことだったので〈軽い、軽い〉と思ったが、ペダルを漕いだら意外と遠かった。お湯は頗る素晴らしかったです。湯屋から高松駅前への戻り道はすっかり雨に降られ濡れそぼちながらの道中に。高松駅前のいつものうどん屋で夕飯。そのあとは、バス待ち合い室でアガサ・クリスティなぞを読みながら、東京行きのバスを待ちます。
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昨晩は、しごとのあと、用事をいろいろ済ませ、帰宅してから、予約録音したラジオ番組を再生、その中の、林光さんの二十代前半23才のときの作品という『弦楽のためのアレグロ』にとりわけ惹かれて何べんも聴きました。演奏は岩城宏之指揮日フィル弦楽合奏団。音源は1956年録音。
以下は、音楽評論家西耕一氏による『弦楽のためのアレグロ』に関する記事です。引用させて頂きます。
林光(1931-2012)弦楽のためのアレグロ(1954)
多作な作曲家には得てして知られざる音楽がある。この《弦楽のためのアレグロ》も、林の作品を集めた『林光の音楽』(CD20枚、400ページの書籍付き)に収録されずに、オーケストラの演目としても取り上げられることが少ない。これまで公に音盤化されたこともない。作曲は1954年3月であるが、実際は近衛管弦楽団の委嘱で曲を書いていて、
第1楽章「アレグロ」を書いて、続きも書こうとしていたら近衛管弦楽団が潰れてしまって、そのままアレグロだけで曲とした。とのことのようです。それゆえに、初演者の記録もわからないそうです。
今回知るきっかけになったのは、NHKの資料室でたまたまみつけた録音を聴いてこの作品の魅力を知ったからである。林光事務所に問い合わせ、残されていたスコアの複製を事務所から御提供頂き、今回、清道洋一の浄書によって再演と相成った。ゆえにどのような経緯で作曲され、演奏されたかもわからない。
幼少期から尾高尚忠に師事して、5歳で書いたメヌエットも残る林であるが、本格的なデビューとなるのは1953年4月に藝大を中退してからである。外山雄三、間宮芳生と共に作曲グループ「山羊の会」を結成(後に助川敏弥も参加)して、同年11月には山羊の会第1回演奏会を開催。TBSからの委嘱による《交響曲 ト調》を発表して22歳で文化庁芸術祭賞を受賞した。《弦楽のためのアレグロ》は、その次の大編成の曲である。当時流行っていたバルトークや、ソビエト音楽の影響も聞き取れるが、シンプルで明快な構築と音群で描く量感が魅力的である。ある種、後の大河ドラマ「国盗り物語」のテーマにも通じるダイナミズムを備えている。
(以上は、音楽評論家西耕一氏による、『弦楽のためのアレグロ』蘇演をされたオーケストラトリプティーク演奏会への曲目解説記事です。)
私の抱いた林光作曲『弦楽のためのアレグロ』への印象は、芥川也寸志氏の知られざる作品と言われても納得してしまうような、芥川節的アレグロが実に爽快な楽曲。本当に気に入りました。
学校時代の歌友のHさんから、こんど自家製チーズケーキとハーブティのお店を開いたので、みなさんで泊まり掛けで遊びにいらっしゃいませんか、というお誘いを頂いた、という夢を見た。そのお店は、一年中何かしらの花を楽しめる〈花とせせらぎ公園〉の中のお洒落な白壁の小屋にあって、大きめの窓を開けると、素晴らしい花と美しいせせらぎと青空がいつでも見られて、とにかく素晴らしいところ。心の洗われる夢でした。
最近、〈うたの日〉というなんとも面白そうな題詠投稿サイトを見つけ知って、かつて〈題詠マラソン〉でやって楽しかったみたいに、頂くお題を使ってひとつの物語、例えば王党派〈メロン〉の物語を紡いでみたら面白いのではないか、私自身がわくわくできるのではないかと勝手に物語投稿を始めたものの、連日の〈うたの日〉のお題がなかなか奇抜でリアルで難しくて、自分の中にある王党派〈メロン〉物語のファンタジーとの整合性にすっかり思い悩み、物語のうたを紡ぐことに苦しむことになった。お題に沿ったうたを何とか捻り出そうともがけばもがくほど、作ったうたが自分の考える物語からずれていくジレンマに陥った。題詠の難しさをあらためて痛感させられている次第。結局、自分の中の物語は好きなように詠むのがいちばんよいのかもしれないと思い始めている。
昨晩は、銭湯とは申せ、温泉法でいうところの〈天然温泉〉の、東武東上線沿いの、浴場が広くてお湯(水)も極上で好きなお風呂屋さんのひとつへ、久々にペダル漕いで出掛けた。心も体も安らぎました。
歌誌『塔』6月号より拙作5首。
午前一時きつかりに息を呑む間(ま)ありて決まつて鳴り出す事務所の電話
秋原康三(あきはら)が受話器を取るとソファの上(へ)の毛布がズズズと床にこぼれる
呼吸音とも聴こゆる〈四分三十三秒〉の沈黙のあとの通話を切る音
〈姫さまを見つけた〉との報(しら)せは今だになし カップつまんで珈琲揺らす
夜更け過ぎに飲む珈琲の苦さかな スバルはゆつくり梢を渡る
『塔』六月号の裏表紙をみると、全国大会の案内が載っていた。今夏は岡山で開かれるらしい。岡山は、津田永忠次男八助永元の末裔だったらしい〈岡山の祖父〉の出身地で、なんとはなしに地縁をすごく感じて惹かれるも、仕事があるので出掛けられないのが、非常に残念。。
歌誌『塔』六月号から。
異言語がときどき私を苦しめるオレンジの声大きなナイフ 海老茶ちよ子(155頁)
以下は少し長い引用になるが、開高健氏の『耳の物語』の中の、中島敦氏の『文字禍』に触れた箇所。
梶井基次郎の『檸檬』は剥離の心を描いた短篇であるが、衰退の不幸をみずみずしい讃歌に転じている。中島敦の『文字禍』という短篇はまったく論じられることなく埋もれたままになっているが、古代アラブの碩学が文字には精があるのだろうか、ないのだろうかという疑いにとりつかれ、研究をかさねるうちに性慾も食慾もいっさいの官能が薄弱になり、最後には文字の精に復仇され、山積みの粘土板が崩壊し、その下敷になって死んでしまうというストーリーである。ユーモラスで明澄な、悠々とした文体で不幸を戯画化することに成功している。『悟浄出世』もおなじ試みといえる傑作であるが、ここにあらわれる不幸は自己懐疑による剥離である。この人は短い生涯のうち一貫して文体をいろいろと変えて一つの主題を追求して去ったかと思われる。また、林語堂によれば蘇東坡は"よろこばしき天才"と呼ばれているが、この詩人の尨大な作品のうちに、"人間文字ヲ識ルガ憂患ノ始マリ"という一句がある。後世になって魯迅が引用して筆禍の災厄をまぎらすために使った一句である。もともとは権力者に迎合できない知識人の不幸をさした詩句であって梶井や中島が抱いた心をさすものではないはずと思われるが、末世の偶然の子が"憂患"の一語をとらえて自身の病疾をそれになぞらえる放恣は、この寛容な詩人なら、ひょっとしたら許してくれるかもしれない。 (開高健『破れた繭』〈『耳の物語』前編〉148-149頁)
ここでの開高健氏の筆はこれ以上のことを明らかに描いていないが、別の作品の中で開高氏は、〈深夜に原稿用紙の文字をじっと見ていると、それが例えばよく見識った文字であったとしても、突然にそれがばらばらに解体し、なんら意味をなさない線の集まりに見えてくることがある。〉云々と、離人症的な話を書いておられる。
海老茶さんの上の一首を読みながら、そんな開高さんのことを思い出した。〈異言語〉とは、もしかしたら、作中主体にとっては日頃よく知っている〈言語〉なのだけれども、あるとき突然に〈言語としての意味が解体されてしまって意味の把握ができなくなってしまう症状〉のことを言っているのかもしれない。
海老茶さんのこの作品、じつに興味深くて、惹かれます。
時間切れで某所への投稿に失敗。
短歌メモから。
王党派〈メロン〉ビル地下食堂に〈海賊オウム〉は舌嘗めずりしてをり
今宵のラジオ。アシュケナージ指揮NHK交響楽団演奏会。R.シュトラウス〈交響詩『ドン・ファン』〉〈オーボエ協奏曲〉、ブラームス〈交響曲第三番〉。ブラームスは若きR.シュトラウスに様々なアドバイスをしていたらしい。その一つ、〈いつでも五線ノートを持ち歩いて浮かんだ楽想を8小節単位でメモする癖をつけなさい〉。