今夕のこと。寒かった一日のしごとを終えてから、先日ライトを煌々とつけてひっそり粛々とドラマ『流星ワゴン』ロケが行われていた歌人長塚節ゆかりの邸宅跡の公園脇坂道を下って家に帰ると、ポストに先生の歌集『振りむく人』。タイトルの振りむく人は、ある童話に出てくる架空の星座名とのこと。
ぱらぱらと頁を繰りながら心に留まった一首。
詞書〈五月八日、父死す 睡眠の深きが中に落ちてゐるわが魂を見たる心地す 辞世〉
桐の花空につめたき五月八日これの地上に父をはりたり 日高堯子
歌誌『塔』1月号をぱらぱら見ていて、164頁の、これが『塔』へ初お目見えになる入会されたばかりの大木はち氏の6首に注目した。まだ少々荒削りながら、ことばに独特な勢いがあって面白い。
おそるおそる歌いはじめた伊勢丹もセブンもスタバもない四万十で 大木はち
僕の愚痴を一番多く聴いたのはキッチンに棲む包丁だろう 大木はち
十月の太陽はいま直角に、最短距離を駆け夜が来る 大木はち
怖いという字がもうこわい血を流すあなたのように見えてしまって 大木はち
ふたりで行けば別れるんだよ桂浜 海の向こうはオーストラリア 大木はち
同じ顔だユニクロを着てiPhoneを見つつイオンの中を歩けば 大木はち
5首目の熱い演歌調なんて、詠われている内容は大したことなくても、言葉選択における独特な靭(つよ)い感性が目を引く。とにかくユニーク。今後のますますのご活躍を楽しみにしたいおひとりだと思った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/e8/4967f34475a25daa4001be3f368b71e6.jpg)
〈森〉という一人称をおもいつつ混み合う空に傘をひらきぬ 小谷奈央
一人称といえば普通は〈私〉という個人なのだが、たとえば、朝のラッシュ時など、〈あの電車、もしくは、あのバスに乗るべし〉という共通の意思を持った集団が駅に向かって歩いていたりする。そういう集団の一人称が、この作品における〈森〉なのだろう。非常に惹かれた。
昨夜はしごとのあと、大きな郵便局の窓口前で短歌10首を何とか絞り出して原稿用紙に書き付け、封緘して速達で投函した。
塔1月号はまだ届かない。
しごと終えて帰途ぼちぼち惣菜買って自宅へ戻りそそくさと夕食のあと、原稿用紙に向かって短歌10首書き付けようとするも、なかなか捗らず。ゲロルシュタイナーを合間にぐびぐび飲み、唸りついでに手近な中原中也を読み出すと、余計に詠めなくなる始末。
雨と風でとにかく外がものすごく寒くて冷えている中、昨晩の東京文化会館コンサートホールでの都響演奏会へしごとのあと愛車ペダル漕いで駆けつけましたが、久しぶりのオーケストラ、楽しかったです。川島さんのドビュッシー、チャイコフスキー、動物咆哮その他いろいろな引用を散りばめたユニークな作品も、シューベルト〈ピアノソナタ〉によるシュナーベル作品も、分散和音のカーゲル作品も、下野さん指揮の素晴らしい演奏で面白かったです。心がかあっと熱くなった贅沢な音楽浴の一夜でした。
そして、下の画像は、コンサート前に頂いた、カヤバ珈琲の柚子くず湯などの肖像。
うすずみのさくらが雪に咲くよるは祖父(おほちち)と眠る乳房ふふませ 水原紫苑
これは、興福寺の阿修羅像から霊感を得て詠まれたのであろう〈少年阿修羅〉と題された一連のなかの一首。この一連全体は、集中でもとりわけ、彼岸と此岸とを自由自在に往き交う作者の感性の冴えが光っているように思う。この一首、道具立ては和風で日本画的だが、なんとなく聖母子を描いた西洋画を思わせて面白い。〈祖父〉はもうすでにこの世のひとではないのかもしれない。〈祖父〉に〈乳房ふふませ〉ている作中主体も、〈祖父〉の母親のような存在で実はすでに亡いのかもしれない。全体に満ちている不思議で豊かな慈愛感は、聖母子像的モチーフと、仮名と漢字との絶妙な配置から生まれているのだろう。好きな一首。