カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

島津重富荘(memo)

2006-11-22 09:35:46 | Weblog
 メモです。

 歴史的に由緒ある建物の未来への継承のあり方の問題をしみじみと考えさせられます。。。

***

【かつての「重富荘」に関するページ】
http://www4.plala.or.jp/uzuland/index1.html
「江戸時代、薩摩藩家臣の筆頭であった重富家(重富島津氏・越前島津氏)。最後の藩主島津忠義はこの家の出身であるという格の高い家・・・だったのだが、明治時代には島津珍彦(21代当主)が、この家は蛻の殻で何もないとまで孫の忠彦氏(23代当主)に語ったという家。
 そんな哀愁漂う重富家の遺産のひとつがこれ。忠彦氏の著書の中でも数多く登場するこの屋敷は重富島津氏の屋敷、和風旅館を経て、平成18年秋に結婚式場・レストランとして復活する(南日本新聞2006年4月11日記事による)。
 このページはかつて旅館だった時代に重富荘を訪れた時の写真と記憶をもとに作られています。記憶違い等あったらごめんなさい。」

「越前島津氏は島津宗家の祖忠久のニ男忠綱を祖とする島津氏の分家で、数多い島津氏の分家のなかでも古いもののひとつである。 承久3(1221)年7月鎌倉幕府は大内惟信に代わり島津忠久を越前国守護職に任じる。忠久は薩(薩摩国=今の鹿児島県の西側)・隅(大隅国=今の鹿児島県の東側)・日(日向国=今の鹿児島県の宮崎県寄り一帯と宮崎県の一部)の守護職だったので忠久の次男忠綱が その守護代となり足羽郡足羽山(今の福井県)に城を構えた。
 忠綱は越前国(今の福井県)に移り越前国生部庄・久安保重富を領有する。越前国生部庄、久安保重富は承久3(1221)年8月、島津忠時(島津氏2代。忠久の長子。忠綱の兄)が地頭職に補任された場所である。

『可令早嶋津三郎兵衛尉忠義為越前国生部庄并久安保重富地頭職事
右人、補任彼職之状、依仰下知如件
承久三年八月廿五日
               陸奥守平(花押)』
(『島津家文書』『鎌倉遺文』(出典を二つあげたが、全く同じ文書です)より)

『嶋津三郎兵衛尉忠義』は島津忠時(当時は忠義と称していた。)で、『陸奥守平(『むつのかみたいら』と読む、『むつもりひら』ではない(笑)。)』は北条義時のことである。ここに出てくる『越前国生部』は現在の福井県福井市生部町にあたり、現在も『島津屋敷跡』というものがあるらしい(細野丈助『越前島津家について』)。
 この通り、越前国に島津氏が関係していた事は事実。ただしかし、あまり有名でない事からも察せられるように(?)島津氏が越前国を掌握した期間は短い。島津氏が越前国守護職であった時期は短かったようで、まもなく後藤基綱に与えられ、生部庄地頭職は仁治3(1242)年には和泉国和田郷地頭職に替えられたという。
 忠綱の子忠行の時代の弘安2(1279) 年には播磨国(今の兵庫県)下揖保の地頭職に任じられてその地に移り、それ以降は代々下揖保、布施郷を領している。中には播磨に移らず越前に土着した者もおり、時々その子孫と思われるものが史料上に現れることもあるが、忠綱に始まる越前島津氏の直系の一族が越前を拠点としていたのは60年にも満たない。越前島津氏の滅亡が天文3(1534)年であるから越前より播磨に居住している期間のほうが長いのだが「播磨島津氏」とは言わず、「越前島津氏」という。
 播磨国時代の越前島津氏は赤松氏に従って南北朝時代あたりは薩摩の島津氏に劣らぬ(それ以上?)活躍ぶりを見せている。あまり知られていないようだが、越前島津氏は播磨国の有力な国人であったようだ。
 天文3(1534)年、ちょうど織田信長が生まれた年にあたる。薩摩の島津氏では島津義久(天文2年生まれ)・義弘(天文4年生まれ)が生まれた頃になる(だから薩摩の島津氏はまだ強大な戦国大名になっていない)。播磨国では赤松氏と浦上氏が争いを起こし、越前島津氏第15代島津忠長は赤松方に味方し浦上勢と戦い、8月26日播州朝日山の合戦で忠長は赤松二郎と共に討ち死にした。これによって鎌倉時代より300余年、15代続いた越前島津氏は滅亡した。「越前島津氏」というと、この初代忠綱から15代忠長までを指すことが多い。
 その後、滅亡したとはいえ、忠長には遺児(忠之)がおり、忠之は天正3(1575)年小寺政職と戦って戦死、忠之の子義弘(勿論あの島津義弘とは別人)は帰農して郷士となり、その子孫は薩摩の島津氏から一族として認められ、参勤交代が通行する際に礼装して挨拶に出るのを例としたという(忠之以降に関しては『兵庫県大百科事典』にあり)。
 江戸時代初め寛永年間には、越前島津家の余裔である人物が家の再興をはかって家に伝わる文書(後の『越前島津家文書』)を持って、薩摩に下ってきたという。同じ一族である薩摩の大大名島津氏を頼ったものであろうが、ここまでするからには播磨と薩摩の島津氏は何らかの交流があったのだろう。薩摩の島津家臣に播磨の赤松氏の末裔という一族がいるのもこれと関係あるのかもしれない。遥々播磨から文書を持って薩摩に向かった越前島津の余裔は、鹿児島に辿りつくことなく途中の大隅半島の鹿屋(現在の鹿児島県鹿屋市)で没してしまい越前島津家を再興することはできなかった。しかしこの人物が持ってきた文書は薩摩の島津家に伝えられることになる。そして、これこそが今千葉の佐倉にある国立歴史民俗博物館(略して歴博)にある『越前島津家文書』なのである。滅亡し、本家である薩摩の島津氏に頼り、叶わず没したこの余裔の名は知られていない。しかし今『越前島津家文書』が現存するのはこの人物が持ち出したからでもある。この人物は文書を歴史研究に役立つようにという気持ちで持ってきたわけではないが、この人物のおかげで忠綱から忠長に至る越前島津氏の事績は物語でも想像でもなく、確実な史実として生命を保ち、今の人にも強く訴える力を持っているのである。
 なお、『越前島津家文書』は国立歴史民俗博物館蔵で重要文化財となっているが、この文書ははるばる佐倉のど田舎の歴博に行っても普段の常設展では展示されていないので注意。今から十数年前の平成元年に、「中世の武家文書―館蔵資料から―」という企画展示があってその時に展示されたようだが、その展示図録も在庫なしで入手は不可能である。歴博の中にある図書館でコピーをとることができる。そこには中世の五十七通の越前島津家文書の写真版と活字になったものが掲載されており、解説もあって忠長までの越前島津氏を知るには便利である。」

***

島津家別邸、「マナーハウス島津重富荘」として再出発
(2006年11月22日07時57分朝日新聞記事)

画像:島津重富荘と庭園。後方は桜島=鹿児島市清水町で(朝日新聞記事から)

 島津久光の息子の珍彦(うずひこ)が住み、その後は旅館などとして使われた鹿児島市の重富荘が28日、結婚式場に生まれ変わる。その名も「マナーハウス島津重富荘」。
 チャペルや神殿を備える。主人が客をもてなした「謁見(えっけん)の間」は、「フレンチの鉄人」として知られる坂井宏行さんプロデュースのレストランに生まれ変わった。
 築約150年といわれる建物の一部を残し、約3億円かけて大改装した。オーナーの清川剛久さんは「ここを舞台に鹿児島の良さを150年伝えていきたい」。

http://www.asahi.com/life/update/1122/004.html
コメント
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