ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

隠微な歓び

2010年01月19日 | ノンジャンル
隠れ酒という飲み方がある。

何も隠れて飲まずとも、お酒ぐらい正々堂々と飲めば
いいのだが、自分の飲酒に自分で問題ありと認識し、
それでも止められない場合、あるいは、周りが同じ認識の下、
本人からお酒を遠ざけようとする場合、この隠れ酒に
至ることが多い。

依存症と診断された人なら、この隠れ酒を経験した者も
多いだろうが、これはその行動そのものがすでに依存症の
一つの症例といってもおかしくない。

厄介なのは、隠れて飲むという、やってはいけない事を
やる時の後ろめたさを感じながら、それをやる時には、
何とも言えない隠微な快感というか歓びがあることである。

悪い事をこそこそとする時のあの、ひやひやする緊張感。
それを無事にやり終えた時の歓び。同時に、後ろめたさで
自分を責めるのと、その弁解と、否認の葛藤。
もしもバレたら終わりだという焦燥と緊張。

こうした複雑な想いが絡み合って、結局、隠れ酒を
続ける中で酩酊が神経を鈍化させるから、少しも隠れた
ことにならないのがお決まりである。

周りはすべてわかっているのに、本人だけがバレては
いないと錯覚しているという、滑稽な状況に陥る。

さて、話は、断酒なり断薬なり、欲求に対し、理性が
いかんともし難い事をなしていく中では、その依存性の
強さもさることながら、この隠微な歓びをどうするか
という点も大きく関係するのではないかと考える。

お酒自体は、今やコンビニでも、自動販売機でも簡単に
手に入れられる。
CMでは、実に美味そうに撮影され、それをグイグイ
飲む映像が流される。

飲食店では、ファミリーレストランでもお酒は置いて
いるし、街を歩けば、飲める場所などいくらでもある。
つまり、普通の生活においてお酒は常に身近にあり、
手を伸ばせばすぐに手に入れることができるのである。

この生活環境を変えることは難しい。よくこの環境を
断酒者にとっては劣悪とみなして批判する人もいるが、
実は逆である。いつでもどこでも手に入るからこそ、
やめ続けることができるのである。

通院治療というものが考えられなかった時代に、
通院治療の専門クリニックを立ち上げたのが私の
主治医である。

このクリニックを選んだのは、その先生の談話の中で、
飲み屋、酒屋、コンビニ、自動販売機など、
いつでもどこでも手に入れられる環境の中で、
その只中で、飲まずに通院する。そこに本当の断酒の
意味があるとの言葉に感銘を受けたからである。

今でも酒席となれば、目の前にお酒がずらりと並ぶ。
ごく、普通の光景である。無論、飲む飲まないは
自分次第である。誰のせいでもなく、お酒のせい
でもない。

これに反して、覚醒剤などのドラッグは、いわゆる
隠れ組なのである。
いつでもどこでも手に入るわけではない。特殊な闇の
ルートといえば大げさだが、昔のように薬局で買える
わけではない。

いうなれば希少価値であり、手に入れること自体が
一般的には非常に難しい。
なかなか手に入らないものというのは、それを欲求する
者にとってはさらに違う側面から渇望度を倍加させる。

やってはいけないことをやる。なかなか手に入らない
ものを手に入れる。ごく普通の人においても欲求を
そそられることである。

無論、依存性の強さはアルコールの比ではないが、
アメリカの禁酒法時代と同じで、法律でいくら規制しても
氷山の海面上に見える部分が小さくなるだけで、
海面下がさらに大きくなるだけの話である。

かといって、ドラッグをいつでもどこでも手に入るように
すれば、依存症者を増やすばかりとなる。

隠れ酒にしろ、ドラッグにしろ、その隠微な歓びの
連続の中では、止めることはできない。
ましてドラッグはその希少性から、常に罪悪感と緊張感と
達成感と、作用による快感をいつまでも得ることができる。

その依存性の強さ、連続する隠微な歓びを考えれば、
これを断ち切ることの難しさは到底想像できない。
アルコール依存症者ですら、自力でアルコールを
断ち切った人を私は知らない。

芸能人の薬物問題で、完全に立ち直って、その後の生涯を
薬物を断って、全うした人も私は知らない。
何度も繰り返すケースが多いのも、このあたりに
あるのだろうと考える。

だとすれば、今のところ、断酒はできていても、これが
断麻薬だとすれば、とたんに自信がない。
まず自分には無理だろうと思うのである。

と同時に、断酒ができている自分なら、仮に薬物依存の
場合でもそれができるのではないかと、荒唐無稽なことを
考えてみたりもする。
まあ、戯言を言う前に、断酒していることを言い訳に
やめる気さえない煙草をやめてみることを試せば良い。

偉そうなことを言いながら、随分だらしがないわねと
言われかねない自分が見えるだろう。




消せぬもの

2010年01月15日 | ノンジャンル
依存症というのは急性の中毒とはまるで異なり、慢性の、
つまり習慣化した疾患である。

面白い事に、急性中毒で死ぬ思いをした者は、それが
習慣化することは少ない。

逆に慢性化、習慣化して精神的にも肉体的にも依存性が
根付くと、幾度やめようと思う事件があっても、なかなか
やめられない。

初めは精神的な解放感を微量の薬物で得られていたのが、
徐々に耐性ができ、同じ解放感を得るのに、摂取する
薬物量も次第に増えていかざるを得なくなる。

無論、薬物によってその依存性の強さは異なるが、
辿る経緯としては似たようなものである。

こうして、慢性化、習慣化したものを、仮にある
時点より完全に遮断したところで、その後完全に
心身から消し去ることはできないと考えている。

泳げる者が、10年、20年、水に入らなかった
としても、入れば泳ぐことができる。
何年か泳がなければ、全く泳げなくなるなどと
いうことはない。

アルコールであれ、薬物であれ、この依存体質が
出来上がってしまったなら、もはやそこから完全に
脱却することは不可能なのである。

譬えが真逆のことなのでわかりづらいかもしれないが、
我々が断酒を継続していこうとするのは、
水に入らないということなのである。

脚のつかない水に入れば、何年泳いでいなかろうが、
即座に神経は対応を始め、たとえ無意識であっても
泳ぎだすはずである。

この眠れる神経を覚醒させる必要はまるでない。
一たび覚醒させれば、再びその依存体質に身も心も
翻弄されることとなる。

さて、依存性の話だが、薬物の強さというものばかりが
その関連において注目されがちだが、実は薬物に
依存しているのか、薬物を有用しているのかという
ことの方が根本的な問題である。

今でこそ薬物法で規制されているが、マリファナなどは
大して依存性があるわけでもない。
一般的なタバコとさほど変わらない。

戦後の時期には、ヒロポンと称される現在の覚せい剤が
一般に販売されていたし、混乱期をみな必死で
生き抜くためにそれを有用したことは周知のことである。

もちろん、常用することで習慣化、慢性化し、依存症者が
激増しはしたが、それも一時代の誰もが働き詰めで
働かなければ生きていけない中での必要悪であった
かもしれない。
今の豊かな時代に生きる者に想像できることではない。

物質的な乏しさ、貧しさの中で、薬物によって現実
生活から逃避しようとした者もあったであろうし、
現実に向き合って、薬物を利用しながら困難を
乗り越えようとした者もあったであろう。

共に依存症となったとしても、やはり両者には
大きな差があると言わざるを得ない。
その差は、それぞれの、後の生き様を見れば
歴然としている。

話が逸れたが、要するにこの身につけてしまったものは
消し去ることはできない。古漬けを元の瑞々しい野菜に
戻すことは不可能なのである。

消し去ることのできないものを、消そうとするのは、
その意気や良しではあるが、人それぞれ与えられた時間は
限られている。消せないものは消せないままにしておいて、
消そうとするその気概を、自らが現実世界でどう生きて
いくかに仕向け、注いでもらいたいと思うのである。

アルコール依存症について言えば、その回復は
断酒しかない。そしてそれは自らの意志の断酒であり、
他に強制され、脅され、あるいは他の為になどという
おためごかしでするものではない。

自らが生きて、人のためになることを為す、自らの為の
断酒なのである。断酒を成し遂げるとは、飲まずに
死ぬことである。断酒が目的で、それを死して為す
ために生きるなど、何とも寂しいではないか。

人の死に様というのはそれぞれであって、悲劇の中で
死ぬ者、満足の中で死ぬ者、不本意の中で死ぬ者、
犬に失礼ながら、犬死する者、実に様々である。

まず己の死を思い、今をどう生きるかを
考えるべきである。
いかなる一生であっても、そこに人としての輝きが
たとえ一点であってもあれよかしと願ってやまない。

それがいつかはわからないが、確かに限られた命、
限られた時間なのである。






スリップ

2010年01月13日 | ノンジャンル
断酒を継続している者が、再飲酒してしまうことを
スリップと呼ぶ。

これまで幾度か記事にしてきたことだが、
今でもスリップを「失敗」と呼ぶことには違和感がある。

失敗というのは、何かを為そうとする中でそれを
一時的にせよ為し得ない、あるいは為しそこなった時の
事を言う。無論、軽微なものから、致命的なことまである。

断酒は為すことか? 成し遂げるには死ぬしかない。
何かを為すための、一つの条件として断酒があるに
すぎない。

何度失敗してもいい。諦めなければ失敗はない。
そうだろうか? その前提には、生きている
ということがある。

スリップを失敗と呼ぶなら、失敗のたびに、
物事を為す時間が削られる。
つまり、命を削ることになる。
安易に、何度失敗してもなどとは言っていられない。

では、スリップは過失だろうか?
自分で全くそのつもりはなくとも、飲んでしまった
ということがある。これは神経障害であって、
断酒初期にはままある。順調に回復すれば無意識に
飲むというようなことはなくなるが、
実はこの状態にまで行くと、その後の継続はなかなか
難しい。

事故というケースもある。
酒席でお茶を飲んでいて、間違ってお酒を飲んだとか、
店の女の子がお茶割にしてしまったとかの場合である。
私も何度か経験があり、その都度敏感になった臭覚で
吐き出すことができたが、これはその人の考え方に
左右される。

極端に言えば、事故で人を轢いたとして、逃げるか、
きちんと対応をするかの差である。
せっかく断酒してきたのに、一杯のお酒を飲んで
しまった、もう一杯も二杯も同じ事と、なし崩しに
崩れる人もいれば、事故は事故と冷静にその一杯で
済ませてしまう人との差である。

同じ条件でも、その人の考え方によって結果は異なる。

初期にスリップを繰り返す人は、まだお酒が止まって
いないのであり、自身の断酒の動機付けがまだ
できていない。つまり俗に言う、底つきをしていない
のである。

最も恐るべきは、その動機付け、つまり原点の風化である。
これは、継続が長くなればなるほど警戒する必要がある。
そこには、慣れと、油断と、慢心とに付け入られる隙が
できやすい。

飲めば命を縮めることがわかっていながら、飲みたい
欲求に耐えられずに飲むのは故意犯である。
無論、誰に責められることでもなく、他のせいに
できることでもない。自ら、自身の命を縮め、悪くすれば
他にも大きな被害を与えることを承知で飲むのである。

動機付けがない、過失、事故、故意、風化と、様々な
ケースがあるが、こうして見てみると、スリップとは
初期の錯乱状態を脱して継続の軌道に乗った者が、
故意に飲むことである。

事故で一杯を飲んだとしても、それは事故であり、
自ら二杯目を飲めば、それは故意である。

この自ら飲むという故意がスリップであるとすれば
そこにはいかなる弁解の余地もない厳しい事実が
自身にあるのみである。

故意で飲んだ自分を責めるなどというのは笑止である。
その一杯を自ら飲んだのは自分自身ではないか。
誰に責められることでもない以上、誰に許されるべき
ことでもない。自身を責めたところで、故意である以上
自他共に何の益もない。

ただ、本人にとっても、家族にとっても、スリップを
失敗と呼ぶ時は、それが故意であるという厳しい事実を
理解するまでのことである。

それを理解して初めて共に再生への始動となる。
本人より先に家族が理解すれば、共依存はなくなる。
本人が理解すれば家族も含めた再生が可能だが、
残念なことに家族を失って初めて理解するケースが
非常に多い。

この病気に関わるものにとって、諦めないとは、
いつかその理解を獲得できる可能性を信じることである。
断酒の達成は、生きて遂げることはできない。
成し遂げたというなら、その本人は亡くなっている。
スリップとは、故意にその生きる時間をも
削ることなのである。



やる時はやる

2010年01月08日 | ノンジャンル
よく聞く言葉ではあるが、能動と受動で
その意味は反転する。

能動の場合、自らやるべきと自覚して、断固たる行動に
移すのであれば、そのやる時というのはいつであろうと
自ら覚悟した時である。

受動の場合、やるべき時が来ればやるという、
待ち状態となり、その時がいつなのかは不定である。

どちらが良いということではなくて、対極にある以上、
いずれにおいても、その結果としては良し悪しが分かれる。

自覚の上で即座に行動に移すことは、普通は
良しとされるが、時機というものが重要な場合、
それを逸すると結果は好ましくないものとなる。

その時機を読み、待った上で、それに乗じて行動を
起こせば、予想外の好結果をもたらすこともあり、
待つことと行動を先延ばしにすることを混同して、
機を逸すれば、結果は最悪となる。

理想を言えば、やるべきこと自体を理解した上で、
即座に断固たる行動に移すか、その準備と心構えで
最も効果の高い時機を待つかの的確な判断ができれば
常に好結果をもたらせるであろう。

ここがなかなか難しいところである。

ただ、「やる時はやる」を「だから今は何もしない」
という弁解的な意味で使えば、「あすなろ」と同じで
いつまでたってもやることはない。

何もしないでいて、ある日突然大きなことをやり遂げる
ということはないのである。
その前には小さなことをやり続ける積み重ねが必ずある。

ならば、人に励まされる「やればできる」に
甘えるのではなく、自らが「やればできる」を信じて
積み重ねていく中で、やるべき時に満を持して
断固としてやり切る覚悟を持つべきである。

結果はどうであれ、そこには後悔はないものと信ずる。




街の灯

2010年01月07日 | ノンジャンル
出張先での業務を終え、飛行機で帰還する時、
それが夜であれば、日頃馴染んだ夜景が
眼下に広がり始めると、ほっと安堵の息がもれ、
全身の力が抜ける気がする。

空港は飛行機の目的地であるばかりでなく、
標識のない空の旅をするもののオアシスでもある。

そう言えば、ここのところ夜の空港に
帰ってくることはなかった。
久し振りに、帰って来たという感慨に包まれて、
帰阪した。
外は冷え込んでいたが、街の灯りが妙に温かい。

滑走路の光も、飛行機を抱きかかえるように
煌めいていた。

私の大好きな、至福のひと時である。