ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

消せぬもの

2010年01月15日 | ノンジャンル
依存症というのは急性の中毒とはまるで異なり、慢性の、
つまり習慣化した疾患である。

面白い事に、急性中毒で死ぬ思いをした者は、それが
習慣化することは少ない。

逆に慢性化、習慣化して精神的にも肉体的にも依存性が
根付くと、幾度やめようと思う事件があっても、なかなか
やめられない。

初めは精神的な解放感を微量の薬物で得られていたのが、
徐々に耐性ができ、同じ解放感を得るのに、摂取する
薬物量も次第に増えていかざるを得なくなる。

無論、薬物によってその依存性の強さは異なるが、
辿る経緯としては似たようなものである。

こうして、慢性化、習慣化したものを、仮にある
時点より完全に遮断したところで、その後完全に
心身から消し去ることはできないと考えている。

泳げる者が、10年、20年、水に入らなかった
としても、入れば泳ぐことができる。
何年か泳がなければ、全く泳げなくなるなどと
いうことはない。

アルコールであれ、薬物であれ、この依存体質が
出来上がってしまったなら、もはやそこから完全に
脱却することは不可能なのである。

譬えが真逆のことなのでわかりづらいかもしれないが、
我々が断酒を継続していこうとするのは、
水に入らないということなのである。

脚のつかない水に入れば、何年泳いでいなかろうが、
即座に神経は対応を始め、たとえ無意識であっても
泳ぎだすはずである。

この眠れる神経を覚醒させる必要はまるでない。
一たび覚醒させれば、再びその依存体質に身も心も
翻弄されることとなる。

さて、依存性の話だが、薬物の強さというものばかりが
その関連において注目されがちだが、実は薬物に
依存しているのか、薬物を有用しているのかという
ことの方が根本的な問題である。

今でこそ薬物法で規制されているが、マリファナなどは
大して依存性があるわけでもない。
一般的なタバコとさほど変わらない。

戦後の時期には、ヒロポンと称される現在の覚せい剤が
一般に販売されていたし、混乱期をみな必死で
生き抜くためにそれを有用したことは周知のことである。

もちろん、常用することで習慣化、慢性化し、依存症者が
激増しはしたが、それも一時代の誰もが働き詰めで
働かなければ生きていけない中での必要悪であった
かもしれない。
今の豊かな時代に生きる者に想像できることではない。

物質的な乏しさ、貧しさの中で、薬物によって現実
生活から逃避しようとした者もあったであろうし、
現実に向き合って、薬物を利用しながら困難を
乗り越えようとした者もあったであろう。

共に依存症となったとしても、やはり両者には
大きな差があると言わざるを得ない。
その差は、それぞれの、後の生き様を見れば
歴然としている。

話が逸れたが、要するにこの身につけてしまったものは
消し去ることはできない。古漬けを元の瑞々しい野菜に
戻すことは不可能なのである。

消し去ることのできないものを、消そうとするのは、
その意気や良しではあるが、人それぞれ与えられた時間は
限られている。消せないものは消せないままにしておいて、
消そうとするその気概を、自らが現実世界でどう生きて
いくかに仕向け、注いでもらいたいと思うのである。

アルコール依存症について言えば、その回復は
断酒しかない。そしてそれは自らの意志の断酒であり、
他に強制され、脅され、あるいは他の為になどという
おためごかしでするものではない。

自らが生きて、人のためになることを為す、自らの為の
断酒なのである。断酒を成し遂げるとは、飲まずに
死ぬことである。断酒が目的で、それを死して為す
ために生きるなど、何とも寂しいではないか。

人の死に様というのはそれぞれであって、悲劇の中で
死ぬ者、満足の中で死ぬ者、不本意の中で死ぬ者、
犬に失礼ながら、犬死する者、実に様々である。

まず己の死を思い、今をどう生きるかを
考えるべきである。
いかなる一生であっても、そこに人としての輝きが
たとえ一点であってもあれよかしと願ってやまない。

それがいつかはわからないが、確かに限られた命、
限られた時間なのである。