ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

産声

2010年01月28日 | ノンジャンル
いつも不思議に思うことがある。

赤ちゃんは生まれてきたときに、なぜ泣くのか。

胎内にいるときの安らぎ。やさしい音。温もり。

生まれるということは、その安らぎの場所から苦しい
思いをして、外の世界へ出るということである。

そこはとんでもない世界である。寒くて、うるさくて、
不安定で、自ら呼吸をしなくてはいけなくて、いきなり
冷たい空気が肺に入ってくる。

これほどの驚きと、不安と不快が他にあるだろうか。
だが、不思議なのは、その驚きと、不安と、不快の
表現として、なぜ泣くということを知っているのか
ということである。

誰に教えられたわけでもないのに。。。

唇の横を指でつつくと、口を指に向けて、吸い付こうとする。

これも誰に教えられたわけでもない。

娘がおなかにいるときは、暇さえあれば話しかけていた。
声をかけると、ボンとおなかを蹴るようになった事も
よく覚えている。
生まれて落ち着いてから、抱いて同じように声をかけると、
にこっと笑った。

私の声を覚えているんだなと思うと、涙があふれた。
拭うこともできずに、流れるままの涙を横で見た
看護士さんがもらい泣きをしていた。

本能といえばそれまでかもしれない。しかし、本能と
いえども伝えられてきた記憶ではないのか。

泣いて助けを呼び、乳房に吸い付き、満足して笑う。
これは、生きようとしているということだ。

生命は常に前へ進もうとしている。生きようと考えて、
生きているわけではない。本然は、いかなる状態に
自身があろうと、生きようという方向に向いている。

人は、生まれた時が始まりで、死ぬ時が終わりという
わけではないらしい。人の誕生を見るにつけ、
人の死を見るにつけ、そこに何がしかの連続性を認めない
わけにはいかないのである。

夜、眠りにつく。朝、目覚める。泣きながら目覚める
ときもあれば、清々しく目覚めるときもある。
夢にうなされて苦しみながら目覚めるときもあれば、
穏やかに目覚めるときもある。

いずれにせよ、目覚めるということは、生きようと
していることに違いない。

できるなら、毎朝の目覚めを新しい一日の産声と捉えて、
その日一日を精一杯生きたいものである。