ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ペアリング

2009年09月20日 | ノンジャンル
二人で始めた暮らしは、ボロボロの安アパートだった。
式はハワイで二人きりで挙げた。
旅費は、出張でたまったマイルで無料だったし、
日本で挙げるよりもはるかに安く付いた。

貧しかったあの頃。
交換した指輪も、シルバーの安物であった。

その後、娘が生まれた後に奮発して、ペアの指輪を買った。
式のときのシルバーの指輪は、安物とはいえ大切に
しまっておいた。

離婚の危機も幾度となくあったが、いつの時だったか、
激昂した彼女は自分の指輪を捨てた。
私が飲んだ暮れていた頃である。
その後は、私だけ片方の指輪をしていた。

先日の離婚騒動で、彼女は私に指輪を外させると、
ベランダから投げ捨てた。

何もない素の左手を見るたびに、なんとなく物足りない、
淋しい思いをした。シルバーの結婚指輪を出して、
嵌めようかとも考えた。

いや、また初心に帰って、一からやり直すのなら、
そこから始めようと思った。

かなり無理してしまったが、その意味も価値もある。
今日、そのペアリングが届いた。

18年振りの指輪の交換。照れ臭かったが、
嬉しくもあった。彼女の笑顔がはじける。

ああ、この笑顔が見たくて、頑張ってきたんだ。
これまでも、これからも。





月例会

2009年09月20日 | ノンジャンル
ここのところ通院もままならず、病院にもご無沙汰して
いたのだが、ようやく昨日、院長先生にお目にかかった。
今日は月例会とのことで、これも本当に久し振りに出席した。

顔ぶれは、見知った人もいれば、まるで知らない人もいたが、
何より驚いたのはその人数である。
いすの列を増やして、まさに部屋びっしりの状態であった。

丁度私が病院へ繋がった同じ頃に初診であった人も
数名いたが、皆失敗を繰り返し、改めて仕切り直しという
話をしていた。

例会の内容は変わらないが、その時その時が特別で、
赤裸々な話が聞けるというのは貴重である。
様々な方の様々な話は、他人事であって他人事ではない。

いつになく時間に余裕があって、最後の院長先生の話を
たっぷりと聞くことができた。

まだ依存症という言葉もなく、アル中と言えば隔離入院
させるしか治療の方法はない、いや、退院すればまたもとの
木阿弥なのだから、治療自体が不可能であるということが
常識であった時代のことである。

ある入院患者は、身体も回復し、帰る家もあり、家族も
失っておらず、院長はもう退院されたらどうかと
進言したそうである。

その患者は、いや、もう少しここに居させて貰いますと
言って入院を続けたらしい。
普通はいつ退院できるのか、いつまでこんなところに
閉じ込めておくのか、早く退院させろと言うのに、
この患者は自ら居させてくれと言う。

彼は、病院でこの病気の現実を自分の目で確かめて
いたのである。
もう二度と飲まないと言って退院していきながら、すぐに
自分では歩けない状態になって病院へ帰ってくる人達を
自分の目で目撃し、その現実を確かめ、この病気の本質を
自ら体得しようとしていたかのようである。

彼が退院した後、再び入院することはなかったという。
理論や情報だけでなく、自ら目撃した現実を直視し、
結局飲まないと決めるのは自分自身であることを芯から
悟ったのであろう。

さて、院長先生はそういう人を見て、不可能と言われてきた
依存症の通院治療を考えられたそうである。
それが先生の初心とも原点とも言えるのであろう。

自分がトイレに行きたいのに、他人に代わりに行って
もらったところで詮がない。
断酒もそういうことであり、自助グループというのは本来、
その入院患者のように、お酒の害や、その害に毒された人、
そしてその害から現実に回復し、立ち直った人達を目撃し、
自分にも出来るという確信を得る場ではないか。

家族のため、人のために断酒をしていると言うのは
いい格好であり、自分のためである、自分が生きたいから
断酒しているのだと話した人がいた。
謙虚で素直な発言である。

私の原点は、子供達に、自分たちの父親がお酒で
おかしくなり、自殺したなどという一生の負い目を
もう少しのところで負わせるところであったという
一点である。

そして私の初心は、自ら病院へ駆け込むに至った経緯と、
その時の自分の状態、処置後の制御不能の
醜態の記憶にある。
未だにその記憶がぼやけることはない。
むしろ年を追うごとに鮮明になっていくような気さえする。

この原点と、初心がぶれない限り、私の断酒は継続して
いくであろう。

断酒5年まで、9ヶ月を切った。紆余曲折の5年では
あるだろうが、それでも、ゼロに戻れるとすれば意味がある。
ゼロ復帰の後は、断酒自体がそのままプラスとはならない。
いかに生きるかによって、プラス、マイナスが自身の上に
表れていくだけである。

改めて身の引き締る思いで、大切なお話しを胸に抱いて
帰ってくることができたのである。



輝き

2009年09月17日 | ノンジャンル
太陽は地球が誕生する以前から存在し、輝き続けている。

陽のあたる側と、当たらない側があるのは、
丸い地球の勝手。
昼と夜があるのも、自転する地球の勝手。
雲が広がって日差しを遮り、地上に雨を降らすのも
地球の勝手。

晴れた日も、雨の日も地上の生には必要なもので
あるのに、晴れれば気分爽快、雨なら鬱陶しく
感じるのは人間の勝手。

そんな勝手な思いなど歯牙にもかけないで、
恒久とも言える長い年月のあいだ、輝きを止める
ことのない太陽。

だからこそ、太古の人は太陽を拝し、跪いたのである。
そして、外に太陽を拝しながら、自らの内に太陽を
求めたのではなかったか。
外なる輝きに、内なる輝きを見出そうと
したのかもしれない。

一瞬たりとも停止することなく、あくまでも
輝いていることがまるで己の使命であるかのごとき姿に、
人は自身の内を照らし、自ら輝くことを切望したに
違いない。だからこそ、再びその姿を現す夜明けに、
人は太陽に拝跪してきたのである。





捌け口

2009年09月15日 | ノンジャンル
社会が複雑化し、家族構成が小さくなるにつれて、個人の
抱えるストレスや、やり場のない憤懣、不安なども
多様化してきた。

この抑鬱というものは、その人の性格的なものにもよるが、
それぞれ抱えられる量というのは決まっている。
その限界に達する前に、吐き出して解放してやらねば、
非常に危険な状態に陥る。

精神的な限界を超えれば、肉体的なダメージを招き、
死に至ることすらある。
何がしかの健全な捌け口がどの人においても必要だと
いうことである。

私においてはその捌け口がお酒であった。仕事人間の自身が
抑鬱に押しつぶされそうになりながらも、それをお酒の力で
撥ね退けてきたのである。

しかしながら、お酒で楽になれるのはほんの束の間である。
次第に常習化し、常態化し、依存するようになって
いったのは、もちろんそれが薬物であるからだが、いわゆる
効能の持続時間が少ないからでもある。

健全な捌け口というのは、それが自身にとって楽しいこと、
継続して飽きずにできること、もっと言えば、夢中になれる
ことであるのが望ましい。
もちろん、肉体を痛めつけるような事であっては意味がない。

このストレスや抑鬱は負の作用ばかりではなく、同時に
ある程度は人の健全な生活において必要なものでもある。
つまり、適度な量であれば薬物と同様、正の効用があるが
過度の量となると毒物となり、負の症状を招くことになる。

我々は、はじめは薬としてお酒を有用していたにも拘らず、
次第にそれを毒としてしまい、毒をもって毒を制する事を
繰り返す中で、ついにその毒に自ら侵されるという愚を
為したのである。

今思えば、捌け口としては煙草やお酒などの
嗜好品ではなく、もっと自身が楽しいと感じられる事に
方向付けをしていけば良かったのだが、事ここに至っては
後悔したところで詮がない。
むしろ、断酒しているからこその今後の重要なポイント
だろうと思うのである。

ただ、やはりそれは単に読書だとか、音楽鑑賞だとか、
映画観賞とかいったことよりは、自ら具体的に動くことで
ある方が良い気がする。

ブログなどで日記をつけ、思いを吐き出す場所を作るも
よし、楽器を演奏したり、声を出して歌唱するのもよし、
散策して写真を撮るのもよし、絵を描くのもよし、
花やペットを育てるのもよし、裁縫やクラフトなどの
手作りも良いだろう。

お酒に限らず、その人の捌け口が、今のその人にとって
どうしようもなく必要なことであれば、それを
やめさせることは到底無理である。
その人自身が、その行為をやめたいと思わなければ
何も始まらない。
ただ、その行為が常態化すると、何かあればもう無意識に
その行為に走っているという現実がある。
そして、その行為が自らの肉体を痛めつけることであれば
時に取り返しのつかない事になってしまうケースも多い。

子供達が生まれた時は、その小さな硬く握り締めた手の指を
一本一本確かめて、眺めていたものだ。
幼い頃に、目の前で転んで膝を擦り剥いたときなどは、
自分の体の中を電気が走り抜けたような痛みを感じた。

思い返せば、確かに自分の身体を大切に見守ってくれて
いた目があったはずであり、自分の痛みを我が痛みとして
感じてくれていた心もあった。

どうかその手で、自らを痛めつけるようなことが
ないようにと祈るばかりである。
そして、痛めつけてしまった時には、どこかでその痛みを
同じように感じている人がいることを忘れないでいて
欲しいと思うのである。




ヘキ○ゴン

2009年09月14日 | ノンジャンル
映画や舞台は「観る」、「聴」くという一方通行であるのに
対し、テレビ番組は視聴者参加型の企画が多い。
殊に、クイズ番組などはその最たるもので、
長年テレビ番組のジャンルの中でも主要な
位置を占めてきた。

クイズ番組を通して、様々な知識を得るということも
大いにあり、机上の勉強よりも、 視覚的、聴覚的、
あるいは動機づけともいうべき手法によって、意外に
その知識が深く記憶されるという効果もある。

家族でクイズ番組を見ていれば、時に父親の威厳を高揚する
ことにもなるが、それは専ら年の功に過ぎない。

ところで、最近の視聴率の高いクイズ番組に関して言えば、
クイズの内容についてはごく一般常識的な問題が多く、
どちらかと言えば自身の知識の確認と、子供達の勉強の
習熟度を量るということになっている。
ところが意外にも、誤って記憶している知識に気づかされる
ことも少なくない。

ただ、表題の番組については、クイズ番組というよりは、
バラエティーに分類されるべき内容なのだが、要するに
ごく一般的な常識問題に対し、「おバカキャラ」と
称されるタレントが繰り出す奇想天外な珍回答が
面白いという趣旨である。

つまり、視聴者を思わず唸らせる硬派で難易度の高い
クイズ番組とは逆に、あまりにも 世間ずれした
おバカタレントを見て、優越感を楽しめるという
設定になっている。
心理的に見ればなかなかうまい手法である。

さて、この題材を元に考えたのは、今も昔もその人が
どれほどの知識があるかという事が一つの価値判断基準と
されてきたのが、ようやく知識自体には価値がない
という事を認識するようになってきたのかと
いうことである。

おバカタレントは、馬鹿なのではなくて、知識がない、
つまり知らないだけなのである。
知らないだけなら、知れば良いことである。
知識というものは、生きていく上の様々な知恵を発動する
源であり、深ければ深いほど 知恵の発動は様々に
展開し得るであろうが、知識自体に価値はない。

具体的な生活において必要なのは臨機応変な知恵であり、
いくら知識があろうと座して 何もしなければ、その知識は
用を為さない。つまり価値がないことなる。

一般的な常識が足りなくとも、しっかりと仕事をし、
自立して生活をし、さらにその活動も多くの新たな展開が
期待できる中で、明るく元気な彼らの姿は、知識偏重の
世の中の行き詰まりを打破するもののようにさえ思える。

知識はないかもしれないが、元気と笑顔に溢れている姿の
裏には、健全な精神と、肉体と、知恵に支えられた逞しさが
見えるのである。

知識のないおバカタレントの珍回答を笑い、ただ優越感を
楽しんでいるようでは、それが番組の狙いとはいえ、
本当に大切な事を見落としてしまうように思えるのである。