ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

八ッ場ダム

2009年09月25日 | ノンジャンル
あまり政治向きの話はしたくないのだが、
少しだけ触れたい事がある。八ッ場ダムの話である。

なぜ「八ッ場」と書いて、「やんば」なのか
よくわからないのだが、それはまた別の話。

このダムの計画当初は、私の生まれる以前である。
もともと地元では大反対であった計画も、
様々な紆余曲折を経て、着工、推進となっていたわけだが、
周知の通り民主党政権となった現在、中止が公然と
表明されている。

これを国家と建設地元民、支援自治体との契約と捉えれば、
国家はその契約責任を継続的に負うこととなる。
無論、契約を反故にするなら、それなりの補償を負うのは
当然である。
だが果して、補償なるものが可能なのだろうか。

人の半生にも及ぶ長い年月の中で、ようやく推進に
方向づけられたものをその初期段階ならともかく、
半ば以上進んだ位置から白紙に戻すというのは、
机上の計算で補償額をはじいたところで無意味である。

政権がどうであれ、国家の契約は責任をもって尊守するのが
国家としての義務である。
一会社が、社長が交代したからと言ってそれまでの契約を
反故にするのか。
ましてや、採算がとれないからと、一方的に契約を反故にし、
あまつさえその補償を満足にできないとすれば、
これは会社としては成り立たない。

最も大切な信用というものが損なわれたなら、個人も法人も、
国家も成り立たないのである。

さて、一方、政権交代という面だけに絞って考えれば、
旧与党に常に反対しながらも、抑えつけられてきたものが、
与党として政権を握れば当然ながら旧与党のしてきたことを
否定し、新たな政策を具体的に推し進めなければ、
政権交代を国民に実感させることはできない。

武力こそ介入しないものの、クーデターの様なものである。
つまり、政権交代というものを、国民に強烈に印象付ける
必要があり、そのためには旧政策を弾劾し、否定し、廃止し、
全く新たな政策を施行していかざるを得ないのである。

滑稽なのは、新政権の首脳達が、「さきがけ」の時代には、
ダム建設推進派であったことである。
公共事業には、国家にも、地元地域にも、周辺自治体にも
様々な利害の思惑が絡み合う。
公共事業絡みの不正支出、横領、賄賂、偽装、
使途不明金など、利害関係の犯罪は歴史上常に
ついてまわってきた。
事業費が桁違いなのである。何億単位などは歯牙にも
かけないほどに感覚がマヒさせられてしまう。

では、地元の民意はどうかということだが、群馬県の
5つの小選挙区において、3つまで民主党議員が当選。
残り2つの区で自民党議員が当選したものの、
民主党議員を抑えたのは元首相の当選した区だけである。
建設地となる区では自民党議員が当選したものの、
民主党議員は擁立されてもいなかった。

マニフェストには、ダム建設などの不用な公共事業は
中止と明確に表明されていたので、この結果を
どう見るかは微妙である。
そして、この微妙さが話をややこしくしている。

民意として、ダム建設を進めるべきだというなら、
建設地区だけでなく、5つの区全部が時代の潮流に
逆らってでも、自民党議員を当選させるべきでは
なかったか。
建設地区は明確に自民党議員支援の態度を表したが、
県民総意を見れば、建設中止の意志と判断されても
仕方がない。

公共事業の見直し、中止などによって見込める財源が
どれほどのものかという事は別にして、旧政権において
全ての政策が悪であったわけでもなければ、
新政権の全ての政策が善となるわけでもない。
戦後の極端な傾きを繰り返すこの国の体を見る限り、
どうも国家としてはまだまだ未成熟な気がしてならない。
表面はふらふらしているようで、どこか芯に一本筋金が
入っているという中庸ともいうべきものに欠けている
気がする。

いかなる政権においても事を為すのが人である以上、
一個人と同様に苦もあれば楽もあり、善もあれば悪もあり、
正もあれば負もあり、希望もあれば絶望もあり、
安穏もあれば苦難も苦痛もあるという事を当然のこと
として我々は承知しておかねばならない。

政治や社会というものを自分の外において、傍観している
ものが多ければ多いほど、国家と国民との距離は離れる。
つまり、国家としての体を損なうばかりなのである。