ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

キリ番ゲット

2009年09月14日 | ノンジャンル
断酒開始の年が暮れ、新年よりこのブログを始めて、
3年と9ヶ月。断酒自体も4年を越えて、カウンター
40,000というのは、一つの節目です。

ゲットされた方は、これまでコメントなども頂いて
いませんので、どなたかはわかりません。
それでも記念すべき偶然ですので、お気付きであれば
ご連絡ください。

日曜日の午後6時28分頃にこちらへいらっしゃいました。
その前は、「あなたといた14年」という依存症者の
元妻の方のブログを閲覧されていたようです。

IPを公開することはできませんが、北海道の
方のようです。

お心当たりのある方は、是非ともご連絡くださいね。

お待ちしています。 ^^



与えられし試練

2009年09月13日 | ノンジャンル
苦難に遭遇し、苦悩の真っ只中にいる時に、それを神に
与えられた試練と捉え、尚且つ、与えられる試練はその人が
乗り越えていけるものだという考えがある。

その人がその考え方に励まされ、その試練を前向きに
乗り越えていこうとするなら、それでよい。

だが、どうも私はこの「与えられる」というところに
ひっかかる。
人の幸せを願う神なら、わざわざ試練など与えずとも
よさそうなものだが、それは試練を乗り越えて初めて
人としての成長も幸せもあることを教えるためであろう。

ただ、私はこういった情緒的な見方よりも、もっと
自然科学的な見方をしている。
具体的な生命活動を律動としてみれば、波のように
山もあれば谷もある。これは力の作用、反作用と同じで
必然である。

前へ進もうとすれば、その逆方向の抵抗が生じる。
後退しようとしてもまたしかりである。
正も負も、善も悪も、前進も後退も、ひいては生も死も、
共に本然的に備わっているのであり、常に平衡を保とうと
している以上、おしなべれば、ほぼ五分五分で
落着いているのではないか。

天秤で言えば、片側に傾いた場合、平衡を取り戻そう
として反対側に振れることになるが、平衡の位置でぴたりと
止まるわけではなく、その位置を越えて反対側に傾く。
今度は元の側に振れて、また平衡の位置を越える。

こうした振れを繰り返しながら、だんだんとその振幅が
小さくなり、平衡の位置へと落ち着く。
要するに我々の人生というものも、この天秤と同じような
気がする。

目先のことに一喜一憂するのも、心情的には
よくわかるが、何、悪いことばかりではないし、良いこと
ばかりでもないと腹をくくって、己の歩みを進めて行く
鈍感さ、鷹揚さがあれば、いずれの側に振れようと、
それを楽しめるほどの余裕ができるであろう。

なかなか、それほどの境涯になることは難しい。
波に乗り、流れに乗れば楽しいであろうし、逆らえば
苦しいだろう。ただそれを共に必然として見ることが
できれば、生きること自体に少なくとも不満はなくなる
かもしれない。

つまり、10のうち5の不幸があって、はじめて
5の幸せがある、5の幸せがあれば、5の不幸がある
ということを当然のこととして受け容れたとき、人は5の
不幸さえも己心において昇華させ、5の幸せを6にも
7にもしていけるのだろうと思うのである。

願わくは、5でもともとの幸せを、せめて6にしたいと
思うのである。



ありのまま

2009年09月10日 | ノンジャンル
常に背伸びをして、無理をして、その背伸びの位置にまで
自身を高めるということを繰り返してきた私には、
「ありのまま」、「あるがまま」という言葉を
受け容れることは非常に難しかった。

むしろそれを「停滞」だとか、「怠惰」とさえ捉えていた
気がする。

今では、その言葉を「他人と比較しない」という風に
捉えている。
まず一人として同じ人はいない、つまりそれぞれの人は
違うということを認識した上で、それぞれの人にしか
出来ないことがあると考えれば、自身にも、自身にしか
出来ないことがあると自覚できる。

初めから違うものを、同じ尺度や基準で測っても意味が
ないのである。
自分らしくというのはそういうことであり、
今の自分のままで良いということではない。

少なくとも、自分にしか出来ないことを為すためには、
今の自分のあるがままを受け容れて、為していこうとする
その意志に従い、出来る努力を精一杯していく外はない。

比較対照は、自分の位置を知る上で有効な方法ではあるが、
それに囚われると、自分らしさというものを喪失してしまう。
比較対照による自身の位置がどうであろうと、
死ぬまで成長するつもりで出来ることを地道に積み上げ、
今は出来なくとも出来るようになりたいなら努力を続け、
一歩前へと進んでいる自身を実感できるなら幸せであろう。

ありのまま、あるがままというのは、そういうことであり、
自己満足や停滞であってはならないと思うのである。

上を向いても、下を向いてもきりがない。
ならば、前を向いて、自分なりの歩幅と、歩調で確かに
前進している実感を持ちながら、一歩ずつでも弛まぬ歩みを
進めて行けば良いのである。




娘よ

2009年09月09日 | ノンジャンル
大会を前に休みもなく部活で毎日、猛練習を続ける娘。
先日の予選を突破した快挙に学校も盛り上がっているようだ。

「じゃあ父ちゃん、行って来ます!」 
『おう、気をつけろ!』と日曜日の朝に送り出して、
ものの10分後に、車にはねられたと電話が入った。

駅前の横断歩道で、自転車に乗った娘を前方不注意の車が
はねたらしい。
相手が警察に連絡し、救急車も呼んだとのことで、
搬送先の病院がわかった時点で再度連絡を
もらうことにする。

頭は打っていないようだし、話もきちんとできているから
大したことはないだろうとは思いながら、
イライラと連絡を待つ。
とりあえず必要と思われるものを準備している間に
連絡が入り、車を出したが、ついつい焦っている
自分に気づく。
自分まで事故を起こしては何にもならないと、
気持ちを静めて、病院へ。

骨や神経、靭帯などに問題はなく、打ち身と打撲で
あろうとの診断。
本人も至って元気なので一安心であった。
その後、聴取のため警察へ。

相手は自動車のディーラーの営業マン。
身元もしっかりしていて、子供も二人いるとのこと。
日曜日だけに、無免許だとか、無保険だとかいった
ふざけた相手の可能性もあった。
もしそうだったら殴り飛ばしていたかもしれない。

ここで私の連絡を受けたカミサンがパート先から
駆けつけた。
「あんた、あんなとこで飛ばしたらあかんやん!」
「娘になんかあったらどないしてくれんの!」
びっくりしたのと、心配で矢も楯もたまらず
駆けつけたのと、娘の元気な顔を見てホッとしたのが
ごちゃまぜになって、相手を見たとたん、
爆発したのだろう。
相手はひたすら平身低頭で謝罪を繰り返していた。

大会のことしか頭にない娘は、少しでも早く練習に
復帰したいと先生に訴えたが、安静が最も早い回復だと
諭され、しばらく休養することになった。
とはいえ、痛みがましになってきたからと、もう2日後には
慣らしメニューで練習を始めている。
トレーニングウエアを着ていると、男の子に間違われる
くらい体格はしっかりしているので、それが幸いした。
事故の時も本人はそのまま練習へ行くつもりだったらしい。

それにしても事故というのは、加害者、被害者共に損失のみ
あってつまらないものである。
起こしてしまってからいくら後悔しても仕方がない。
起こさないことを大前提に、起こさないための自覚と意識を
常に新たにしておかねばならない。

まるで断酒そのものではないか。
ただ、断酒ということについて言えば、加害者も被害者も
あり得ないし、あえて言えば自身が加害者であり、同時に
被害者ともなる。

つまり飲むことで損ねるものは自分自身であり、その回復の
ために補償するのも自分である。
損ねたことにより、苦しむのも自分であり、回復の過程に
おいてその苦しみは続く。これほどバカバカしい事はない。

少し話が横にそれた。

自宅にまで手土産を持って、詫びの挨拶に改めて来た相手の
平謝りの姿を見て、「なんか、かわいそう。」とつぶやく娘に、
何よりも素直に成長してきた姿を垣間見て、本当に嬉しい
思いをしたのである。
もちろん、大した怪我もなく、無事であったことには
もとより感謝し、後になって震えるほどホッとしたのでは
あったが、その上での娘の言葉に、何とも言えない感動を
覚えたのである。

いい女になったものだと、感慨もひとしおである。