ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

捌け口

2009年09月15日 | ノンジャンル
社会が複雑化し、家族構成が小さくなるにつれて、個人の
抱えるストレスや、やり場のない憤懣、不安なども
多様化してきた。

この抑鬱というものは、その人の性格的なものにもよるが、
それぞれ抱えられる量というのは決まっている。
その限界に達する前に、吐き出して解放してやらねば、
非常に危険な状態に陥る。

精神的な限界を超えれば、肉体的なダメージを招き、
死に至ることすらある。
何がしかの健全な捌け口がどの人においても必要だと
いうことである。

私においてはその捌け口がお酒であった。仕事人間の自身が
抑鬱に押しつぶされそうになりながらも、それをお酒の力で
撥ね退けてきたのである。

しかしながら、お酒で楽になれるのはほんの束の間である。
次第に常習化し、常態化し、依存するようになって
いったのは、もちろんそれが薬物であるからだが、いわゆる
効能の持続時間が少ないからでもある。

健全な捌け口というのは、それが自身にとって楽しいこと、
継続して飽きずにできること、もっと言えば、夢中になれる
ことであるのが望ましい。
もちろん、肉体を痛めつけるような事であっては意味がない。

このストレスや抑鬱は負の作用ばかりではなく、同時に
ある程度は人の健全な生活において必要なものでもある。
つまり、適度な量であれば薬物と同様、正の効用があるが
過度の量となると毒物となり、負の症状を招くことになる。

我々は、はじめは薬としてお酒を有用していたにも拘らず、
次第にそれを毒としてしまい、毒をもって毒を制する事を
繰り返す中で、ついにその毒に自ら侵されるという愚を
為したのである。

今思えば、捌け口としては煙草やお酒などの
嗜好品ではなく、もっと自身が楽しいと感じられる事に
方向付けをしていけば良かったのだが、事ここに至っては
後悔したところで詮がない。
むしろ、断酒しているからこその今後の重要なポイント
だろうと思うのである。

ただ、やはりそれは単に読書だとか、音楽鑑賞だとか、
映画観賞とかいったことよりは、自ら具体的に動くことで
ある方が良い気がする。

ブログなどで日記をつけ、思いを吐き出す場所を作るも
よし、楽器を演奏したり、声を出して歌唱するのもよし、
散策して写真を撮るのもよし、絵を描くのもよし、
花やペットを育てるのもよし、裁縫やクラフトなどの
手作りも良いだろう。

お酒に限らず、その人の捌け口が、今のその人にとって
どうしようもなく必要なことであれば、それを
やめさせることは到底無理である。
その人自身が、その行為をやめたいと思わなければ
何も始まらない。
ただ、その行為が常態化すると、何かあればもう無意識に
その行為に走っているという現実がある。
そして、その行為が自らの肉体を痛めつけることであれば
時に取り返しのつかない事になってしまうケースも多い。

子供達が生まれた時は、その小さな硬く握り締めた手の指を
一本一本確かめて、眺めていたものだ。
幼い頃に、目の前で転んで膝を擦り剥いたときなどは、
自分の体の中を電気が走り抜けたような痛みを感じた。

思い返せば、確かに自分の身体を大切に見守ってくれて
いた目があったはずであり、自分の痛みを我が痛みとして
感じてくれていた心もあった。

どうかその手で、自らを痛めつけるようなことが
ないようにと祈るばかりである。
そして、痛めつけてしまった時には、どこかでその痛みを
同じように感じている人がいることを忘れないでいて
欲しいと思うのである。