ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

迷妄の中

2008年12月04日 | ノンジャンル
今日の新聞記事に、アルコール飲料の消費について触れられて
いたが、欧米ではこの30年間に大幅に減少傾向にあるものの、
日本では増加しているそうな。

とはいえ、人口一人あたりでの資料によれば、その消費量は
まだ少ない。
基本的に欧米人よりも、アルコールに対する耐性は低い
ということが明らかに見てとれる。

ちなみに、最新の資料によれば、成人一人あたりの消費量は
年間86リットルだそうである。
ビールも清酒も焼酎も洋酒もひっくるめての話なので、
純粋にアルコールの量に換算すれば約6.5リットルとなる。

お酒を百薬の長とする適正な量が、アルコール量で一日
20ccとのことなので、年間にすれば7,300cc、
つまり7.3リットルとなる。
ビールでいえば、一日に中瓶一本程度で、年間300本、
150リットルということになる。

もちろん、人により酒量は異なり、飲まない人も多いので
あるから、年間の消費量は個人差が非常に大きいのだが、
平均すれば、適正量よりも低いこととなる。
今の流行り言葉で言えば、「飲酒格差社会」
となるかもしれない。

年間消費量を、飲酒人口で割れば、一人あたりどれくらいの
量になるのだろう。
推定6千万人とされる飲酒人口で計算すれば、148リットル、
純アルコール換算で11.2リットルとなるだろう。
これは明らかに適正アルコール量を越えており、また、
この飲酒人口の中でも大きな格差があることから、世に言う
酒豪たる人は、適量などまるで度外視していることとなる。

さて、私がピークの時は、毎日欠かさずビールのロング缶を
最低5本、週に2度はそれに加えて外で飲んでいたので、
概算で年間1,400リットル。
純アルコール換算で70リットルとなる。

適正量が年間150リットル、純アルコール換算で
7.3リットルであることを見れば、 殆ど自殺行為である。
よく身体がもっていたものだ。
お金に換算すれば、年間150万円を下らない。
もはや、お酒を飲むというより、飲まされている状態で
あったことは疑いようがない。

今回の記事をきっかけに我が身を振り返ってみたが、
コントロールどころではない、狂ってしまっている状態に
いたことを思い知らされる。

その当時は、まさにアルコール至上主義の狂気の世界で、
ただアルコールのみを求めて生きていたのである。



よもやま話

2008年12月03日 | ノンジャンル
*病院の待合室*

週に一度の通院日は、家族ミーティングのある日でもある。
ミーティングを終え、待合室に下りて来る面々はほとんど
面識がある。

母親ほどの年齢の方であろうか。
「こればっかりは本人がその気にならんと
 どうしようもないわ。」とあっけらかんとした
雰囲気ながら、つと、私のところへ来て、
「ごめんな」と言いながら肩についた糸くずを
そっと取って捨ててくれた。
温かい気配りに、久し振りに母親に触れられたような
気がした。


*ショットバー*

病院のすぐ近くに昔ながらの酒屋があり、
立ち飲みもできる。
患者が通院帰りにここで飲んでいるということも
古い時代にはあったようだ。
院長先生も帰りにここの前を必ず通り、患者がいないか
確認したそうである。

今、病院の目と鼻の先にショットバーがある。
夜診のときなど、帰りには開店していて、ガラス越しに
中の様子が見える。
早い時間帯なので客の姿を見ることはまれだが、
それでもたまに見かけることもある。

アルコール専門医がすぐそばにあることを知ってか
知らずか、よくもこんな場所に開店したものだ。
今のところ、患者の姿をこの店で見たことは無い。


*父の背中*

『とうちゃ~ん』

息子の勉強を見ている私の後ろから、
娘が背中に抱き付いてきた。

「ん? なんや」
『なんもな~い』
「なにもないんかい!」

娘の胸のふくらみが背中にあたる。大きくなったものだ。
いろいろと頑張っている事もよくわかっている。
抱き付いて、ほっと安心できる背中を見せている
今の自分があって良かったと思う。



*気の毒に*

カミサンには気の毒だが、私よりも良い男は
この世にごまんといる。
ところが、カミサンよりも良い女となると、
なかなかお目に掛かった事が無い。
もちろん、若くて美人でスタイルが良い女性は
いくらでもいるが、女としてカミサンより上と感じる人は
滅多にいない。
そんな私が、彼女の夫であることに罪悪感さえ感じる。

『子供たちは、お父さんが大好きなんよ。』
「で、お前は?」
『。。。。。。。微妙。』
「。。。。。。。。。。。。。」
『でも、飲んだくれてたときも、今も、子供たちの前では
 いつも笑ってるよね。それって、すごいと思うよ。』

私は彼女に、自分には到底無いDNAを感じているのだが、
彼女もまた私に、自分には無いDNAを感じているの
かもしれない。



HLA

2008年12月02日 | ノンジャンル
HLAというのをご存知だろうか。

通常、血液型は赤血球において、ABO式にて区別されるが、
HLAというのは、白血球あるいは血小板の抗原(血液型)
として発見され、血液にとどまらず自他認識の
マーカー分子として機能している。

つまり、自分と他を区別し、体内にウイルスなど
「余所者」が侵入すればこれを攻撃し、撃退しようとする
抗原であり、輸血、臓器移植などにおいては特に問題となる
固体特有の免疫物質でもある。

何も医学的な話をするわけではないので詳細は省くが、
要するに自分と他人や、外界を区別している主要な
要素である。
区別するということは、他との違いを認識し、
他との類似性をも認識するということである。

人間は、他者を区別して認識するとき、本能的に類似性を
ベースにしているか、相違をベースにしているかの
いずれかではないかと思うのである。

肉親に対する愛情は、この類似性をベースとしており、
友人、恋愛感情などは、相違をベースにしているように
思える。
ややこしくなるので、ジェンダーの相違はここでは
無視することにするが、HLAによって認識される相違は、
前向きな精神においては自己に無い優れた面と
捉えるであろうし、停滞した精神においては拒絶という
形で終わるであろう。

DNAレベルでは、本能的に自己保存、つまり種の保存
というプログラムがあり、その目的のためには、
常に優れたDNAを無意識に求める。
あんな美女が、なぜあんな野獣とということも大いに
あるわけなのだが、これは本能的なレベルからいえば
ごく当然なのである。

簡単に言えば、背の低い人が背の高い人に惹かれ、
痩せた人が肥った人に惹かれ、美しい人が、粗野な人に
惹かれ、繊細な人が、磊落な人に惹かれ、またその逆の
場合も含めて、自己と他を区別し、相違を認識するが故に、
その相違に惹かれるのは、至極当然であるということだ。

肉親間に見られる類似性においては、本能的な安心感の
中に存することができるが、相違というものには、惹かれも
するが、同時に反発も拒絶も存するのである。

惹かれ合った者が、互いに反駁を繰り返しながらも、
一人ではありえなかった成長を共にしていく中で、
互いに似通ってくるというのは珍しいことではない。
美女と野獣が、長い年月をかけて、似たもの夫婦になることも
不思議ではないのである。

男女を問わず、より優れたDNAを求めて彷徨う人も
多いであろう。それ自体は罪ではないと思うのだが、
せっかく人間に生まれたのだから、できれば野獣が美女に
惹かれ、美女もまた野獣に惹かれ、共に成長しながら
似たもの同士となっていくことが望ましい。

多くの卵を産み、多くの種をばら撒いてという、
数を撃てば当るような生き方は、マンボウにでも
任せておけばよいのである。