ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

寄り添う

2017年09月22日 | ノンジャンル
ふと思い出したことがある。

その人は、我が子を幼くして失った。

悲しみのどん底にいる彼女に、
ある人は、先祖に罪人がいるからだと言い、
ある人は、過去の宿業だと言い、
ある人は、また子供を産めばいいと言った。

そして、互いに互いの言葉を責め合い、
塗炭の悲しみに喘ぐ彼女は置き去りにされた。

それでも、それぞれの人の言葉が、匕首を
突き立てられ、揉まれる様に感じた彼女は、
お祓いを受け、家系のルーツを出来得る限り
遡って、罪を犯した者がいないか調べ上げた。

結局、その作業に夢中になっている束の間、
少し悲しみから逃れることはできたが、
悲嘆に疲労困憊を上乗せしたにすぎなかった。

身も心も疲れ果て、我が子のもとへ行こう
ということしか頭に浮かばない中、
その子を可愛がってくれていたご近所さんが
弔問に訪れた。

長い、長い祈りの中、その人は嗚咽こそ
洩らさなかったが、ポロポロと涙していた。

そして、独り言のように口にしたのは、
その子はあまりにも綺麗で純粋な心を持って
いたので、穢れたこの世界では、生きては
いけなかったのかもしれないということだった。

彼女は、まるで自分の子を失ったかのような
そのご近所さんの祈りと涙に、そして、
その独り言に、初めて救われたような気がした。

端的に言えば、この世界で、今を生きる者が
一番大切なのである。

葬儀も、法要も、供養も回向も墓参りも、
それを執り行うのは生きている者である。

それは、故人の為ではなく、今を生きる者の為に
行うのである。

互いに、今を生きる者として、互いを置き去りに
してはならないと思うのである。





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