ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

社会と人間

2008年06月13日 | ノンジャンル
また、硬いタイトルになってしまった。

先日の秋葉原での殺傷事件についてである。
17人を無差別に殺傷したその動機はいまだ明確なものとは
なっていないが、まず思ったことは、この犯人にとっては、
ゲームだったのだということだ。

殺人ゲームの中で、より高いスコア、記録を出すという
感覚があったに違いない。
前例にはないより多くの人を殺し、自身がそのトップ
スコアの記録保持者となる。
もはやこの人間にとっては、命の尊厳というものはまるで
虚しい観念でしかない。

マスコミではワンパターン的に、犯人の生い立ち、履歴、
現状などを追い、その事件の背景を探ることで、犯人の
動機や凶行に至る経緯を明らかにしようとしているが、
本質を見ないで、起こってしまった表象のみを追うあまり、
犯人があたかも現代社会の犠牲者であるかのような議論を、
したり顔で展開している様子にはあきれてしまう。


社会は人が作るものである。そして社会は、人を育み、
守るものである。人が守られず、健全に育まれないとすれば、
それは社会の責任であり、その社会を作る人の責任である。

人が基本であり根本であることを忘れて、いくら議論した
ところで、結局は分からないで終わってしまう。
100年経てば、今この世に存在する人間はほぼいなく
なってしまう。社会もまた、時代とともに移り変わっていく。
そしてその移り変わりは、人間の移り変わりを反映して
いるのである。

今、最も大切なことは、人が、人にとって根本的な
問題である、生と死というものを改めて見つめ直すこと
ではないだろうか。

人がこの世に生まれ出でてくる時は、一人であって
一人ではない。少なくとも、母親の生死をかけた苦しみと
希望に包まれて誰しも生まれ出る。
覚えている人はいないだろうが、母親の苦しみの声も、
自身が外の世界へ出る苦しみも、そして再び柔らかで
暖かい母親の胸に抱かれる安堵の思いも、自分自身が
経験しているのである。

そして、自身が親になって新しい命を腕に抱いたとき、
身体が覚えているその体験を自然と思い出し、
このかけがえのない新しい命と、自分自身も同じで
あることを実感して、歓喜の涙があふれるのだ。

人はそうして、生まれ出てくる。自分も、我が子も、
愛する人も、この世で会うことのない他人でも、皆等しく
尊い命であり、それでいて、それぞれ一つ一つの
かけがえのない命であることを、学ぶのではなく、
思い出すのである。

物質至上主義の世の中で、人を物と同じように捉え、扱い、
考えている観念の中では、その尊い誕生を思い出すのは
難しい。
まずは家庭で、教育の場で、地域で、そして社会でこの最も
根本的なことを不変の原理原則として、次代を担う人間を
育んでいかねばならない。

翻って、死については、生と同様に最も大切な根本問題で
あるにもかかわらず、これほど意識されないでいるものもない。
この世に生を享けたいかなるものも決して免れる事は無い
死という決定された事に対して、あまりにも無頓着であるような
気がしてならない。死があるからこそ、生は尊い。
生を思わば、死をまず思うべきである。

人の誕生に接する事も、少子化の現代では少なくなってきている。
核家族の中では、身近に死というものに接する機会も、
その機会によって考える事もあまり無いようだ。

つい昨日まで共に笑って言葉を交わしていた人が、口も聞けず、
目も開かず、動かなくなって、冷たく硬くなる。
お別れをした後は、灰と共に白い骨となる。その骨を見て、考え、
学ぶ事が少ないというのは本当に問題であろう。

死というものは、生きている間に経験が出来ないのである。
それを経験する時にはもうこの世には存在しない。
だからこそ、人の死を、厳粛に見つめなければならない。

人が社会を作り、社会が人を育み、その育まれた人が次の
社会を作っていき、その社会がまた人を育む。
いつの時代においても、根本は人間である。人間のための
社会を作る以上、社会に対して人間はどこまでも責任を
持つべきである。

人間がゆがみ、社会がゆがみ、その社会にゆがんで育まれた
ものが、最も根本的なことを忘れて罪を犯すとき、
それは社会の責任であり、すなわちその社会を作った
人間自身の責任なのである。
「現代社会の犠牲者」などと、まるで自分自身には関係の
ない他人事のような認識で今回の事件を取り扱うべきでも
ないし、考えるべきでもない。

まことに悲惨な事件で、遠からず犯人の極刑は免れることは
ないであろうが、それで終わりではない。われわれが、
この事件を一狂人の起こした凶行であるとだけ捉えて
いたのでは、何も変わらないことになるであろう。

そして、この犯人においても、刑に処せられてそれで
終わるわけではない。
人を撥ね、人を刺し、命を奪うという実体験をした以上、
その最も重い罪は自身の命に刻まれてしまっている。
その刻まれた傷が癒えるのに、一体、何万年、いや、何億年
苦しまなければならないのだろう。

彼を赦すことのできる存在はもうこの世にいない。
処刑、社会的制裁を受けることは、現社会でのルールに従った
懲罰に過ぎない。
罪を償うということは、彼自身が今後生死を問わず、
永きに渡って17人分以上の苦しみに悶え続ける
ということなのである。

命の重さを本当の意味で知ることは、自身の命の誕生の
体験を喚起し、人の死に接して、生を思い、死を考えていく
中で少しずつ自身の命に刻まれていくものである。
観念的な認識や理解だけでは、いかんともし難いことは、
現在の凶悪犯罪の多い世相が実証しているではないか。

理論と知識ではなく、自らの生の実感と、人の死を直視する
ことで得られる生への感謝によって、限りある命の尊さを
認識するならば、人の命を決して奪ってはならない、
また自らの命を絶ってはならないという、人としての本然的な
覚醒となるはずである。

われわれは、今一度、その人としての原点に立ち返るべき時に
あるのかもしれない。



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