例会の基本は言いっぱなしの聞きっぱなしである。
自身の体験を話し、人の体験を聞くことに、議論の
必要はない。いや、むしろ議論すべきテーマがない。
話すという吐き出しで自身が楽になり、聞くという忍耐で、
自分を振り返る持久力をつける。
これはまさに治療の一貫で、回復のプログラムであり、
議論はその治療、回復に対してはマイナスでしかないことは
明らかである。
日常で見れば、ともかくも自分の話をしないではいられない
人と、ほとんど聞き役にまわって人の話を聞くタイプとに
大きく分かれるようである。
話さないではいられない人達が集まれば、しばしば収拾が
つかなくなり、聞き役タイプが多ければ、
話は途切れがちになる。
言うは発散、聞くは忍耐。言うは瞬発力、聞くは持久力、
言うは易く、聞くは難し。
話さないではいられない人は、話を聞いてもらえないことが
一番応える。聞き役の人は、相手が何も話さなければ、
自分が話をしようとすることに疲れて応える。
個人の中でも、言う、聞くのバランスが大事だが、
人の集まりの中でも全体としてこのバランスが非常に
大事となる。
私は聞き役にまわることが多い。ただ、話を聞きながら、
その肝心な点を考え、その点を主眼として整理し、
理解した上で、自分の考えを一言二言伝えるが、わざわざ
そんなことをしてもらわなくとも、結論は出ていて、それを
自覚もしていて、ただ話として聞いて貰いたいという
ケースがかなり多い。
こうなると、黙って忍耐強くその人の話を聞くより
外はない。これはかなり持久力がいる。
言う、話すということよりも、聞くということのほうが
遥かにエネルギーを要す。
体調が勝れない時は、聞き役にまわるべきではない。
むしろ話し手にまわるべきだろう。
不幸なことは、言ってもわかってもらえないことと、
聞いてもわからないことである。
同じ絵を見ても、本を読んでも、音楽を聴いても、
その作者の意図とは別に人の解釈や感じ方は様々である。
それがより近い時に、互いに聞いてもらいたい相手、
聞きたい相手となるのかもしれない。
そうでなければ、壁に向かって話しているようなものとなり、
言葉の通じない人の話を聞いている様なものなのである。
「言う」、「聞く」というのは、密接に「わかる」、
「わからない」に関わり、「通じる」、「通じない」と
係わっている。
多くの人が集まる中で、話し、話を聞くという場合は、
うまくバランスが取れていればいいのだが、
それはほとんどの場合、不可能である。
基本的に、全員一致の合意などはあり得ない。
自分も人と同じ、人も自分と同じという立場で、
言いっぱなしの聞きっぱなしというスタイルは、自分も
他人もありのままを受け容れて、その感じ方も感じられ方も
人それぞれであることを徐々に理解する上で非常に有効と
思えるのである。
議論に勝って残るのは陳腐な優越感と、負けたものの悔しさ
くらいか。勝ったことが成長でもなく、かといって、
負けたものが悔い改めて良い方向に変わっていくということも
ほとんどない。
論より証拠。行動の中で、現実の証明をしていくものが自身に
とっても他人にとっても有益な結果をもたらすのである。
自身の体験を話し、人の体験を聞くことに、議論の
必要はない。いや、むしろ議論すべきテーマがない。
話すという吐き出しで自身が楽になり、聞くという忍耐で、
自分を振り返る持久力をつける。
これはまさに治療の一貫で、回復のプログラムであり、
議論はその治療、回復に対してはマイナスでしかないことは
明らかである。
日常で見れば、ともかくも自分の話をしないではいられない
人と、ほとんど聞き役にまわって人の話を聞くタイプとに
大きく分かれるようである。
話さないではいられない人達が集まれば、しばしば収拾が
つかなくなり、聞き役タイプが多ければ、
話は途切れがちになる。
言うは発散、聞くは忍耐。言うは瞬発力、聞くは持久力、
言うは易く、聞くは難し。
話さないではいられない人は、話を聞いてもらえないことが
一番応える。聞き役の人は、相手が何も話さなければ、
自分が話をしようとすることに疲れて応える。
個人の中でも、言う、聞くのバランスが大事だが、
人の集まりの中でも全体としてこのバランスが非常に
大事となる。
私は聞き役にまわることが多い。ただ、話を聞きながら、
その肝心な点を考え、その点を主眼として整理し、
理解した上で、自分の考えを一言二言伝えるが、わざわざ
そんなことをしてもらわなくとも、結論は出ていて、それを
自覚もしていて、ただ話として聞いて貰いたいという
ケースがかなり多い。
こうなると、黙って忍耐強くその人の話を聞くより
外はない。これはかなり持久力がいる。
言う、話すということよりも、聞くということのほうが
遥かにエネルギーを要す。
体調が勝れない時は、聞き役にまわるべきではない。
むしろ話し手にまわるべきだろう。
不幸なことは、言ってもわかってもらえないことと、
聞いてもわからないことである。
同じ絵を見ても、本を読んでも、音楽を聴いても、
その作者の意図とは別に人の解釈や感じ方は様々である。
それがより近い時に、互いに聞いてもらいたい相手、
聞きたい相手となるのかもしれない。
そうでなければ、壁に向かって話しているようなものとなり、
言葉の通じない人の話を聞いている様なものなのである。
「言う」、「聞く」というのは、密接に「わかる」、
「わからない」に関わり、「通じる」、「通じない」と
係わっている。
多くの人が集まる中で、話し、話を聞くという場合は、
うまくバランスが取れていればいいのだが、
それはほとんどの場合、不可能である。
基本的に、全員一致の合意などはあり得ない。
自分も人と同じ、人も自分と同じという立場で、
言いっぱなしの聞きっぱなしというスタイルは、自分も
他人もありのままを受け容れて、その感じ方も感じられ方も
人それぞれであることを徐々に理解する上で非常に有効と
思えるのである。
議論に勝って残るのは陳腐な優越感と、負けたものの悔しさ
くらいか。勝ったことが成長でもなく、かといって、
負けたものが悔い改めて良い方向に変わっていくということも
ほとんどない。
論より証拠。行動の中で、現実の証明をしていくものが自身に
とっても他人にとっても有益な結果をもたらすのである。
近頃は「聞く為」に行っています。
病院例会も断酒会も「2時間」ですが、
「聞く為に行こう」と自然となってから、
やたら時間が短く感じています。
退院当初は「あれ話そう、これ話そう」だったので、
発言には全く困りませんでしたが、
最近は何も考えずに行って、ひたすら聞いているので、
発言の順番が回ってくると言葉に窮しています。
日常生活の中からことさら「断酒している」という意識も、
希薄になっているのかも知れません。
良いのか悪いのか判りませんが…。(苦笑)
ただひたすら、相手の気持ちを聞く。ワークショップに何回か参加したことがありますが
ああこれはダメだ。と感じて以来敬遠しています。何が問題か?
仕切る人。かれ彼女の地位が、上がってしまうのです。ようは、ヒルラルキーが出来上がっていまして、会長は絶対なんです。
とぼけている、あるいは演技をしている。と
しか思えない。
簡単に言えクライエントの、内的回復力を唯一の回復のための力動という風に、断定しています。
ばかばかしい。私は昔、教師をしていました。簡単に言えば、精神科のDrと同じようなもんです。何とかしようと、思い誤ってああでもない、こうでもない。と考えていましたが、私の技量では、どうにもならなかった。
考えていることが多いのですが、いきなり指名されたなら、
やはり戸惑いますね。
トップバッターとなることは殆どないので、
人の話を聞きながら、似たような体験であれば、
そこからどうなったかを含めて話すようにしています。
耳に障る話もあれば、思わず聞き入る話もあり、
右から左へただ流れていく話もあります。
それはそれでよいと思っています。
傾聴をとらえれば、いかなる人のいかなる話も
聞くことになりますが、これは専門医など、
特別な立場の人に限ってのことでしょう。
我々は聞ける話も聞けない話もあるものです。
受け止める、流してしまう、これができずに、
全て受け止めようとすれば個人のバランスは崩れます。
一旦聞いて、それをどう処理するかは人それぞれです。
ただ、この聞くというエネルギーの要ることを
できるようになるというのは一つの回復です。
何もできないけれど、話しを聞くことはできる。
これが、自分にとっても、その人にとっても
少なくともマイナス面には働きません。
なんともしようがないことであっても、
何かできることがあれば、やってみようというのが
大きな回復の表れであるとも思います。
もちろん、話すだけでも、聞くだけでも
だめだと考えています。
話すときもあり、聞くときもありと、その人の中で
バランスが必要でしょうね。
先生に話したことや、先生が話されたことは
結構鮮明に覚えています。
HALさんは、先生だったんですね。
何もできなかったと考えられていることでも、
話を聞いてもらったとか、こんな言葉をもらったとか、
HALさんの生徒であった人は、今尚そのことを胸に
残していると思われます。
そしてそんな人は、HALさんが思うよりもっと多く
いるとも思うのです。