爺つぁま日記

北緯40度北東北の美しい自然と爺つぁまが行く四季の釣り

09-12-15(火) 少年期・3

2009年12月15日 | 自分史



オラが中学に入る頃になると、企業城下町釜石にもやっとテレビ共聴が登場。
少し遅れて我が家にも日立製がやってくると、14インチ白黒の画面の前にカーテンなどをつけ、友だちを連れてきては自慢し、NHKだけしか映らないテレビで大いにはしゃいだものでした。

その頃のオラは、登山にも興味を覚えるようになって、長いアプローチを徹夜で歩き続け、北上高地の秀峰五葉山に登ることも度々でした。
沿岸釜石とは言え家の周りは山ばっかりなものですから、暇さえあれば山を駆け回り山の幸の恩恵に与り、イワナを釣っては貴重な蛋白源を得る生活は続いたのです。
夏になるとアユが解禁されますが、市民の川たる甲子川には当時から鑑札などは存在しません。
悪童たるオラたちは解禁前から川に入り、なけなしの小遣いをはたいて買ったアユ毛鉤で、流し仕掛けを作っては遊んだものでした。
今にして思えば、それは初期の若アユにしか通用しない釣りだった訳で、何日か経つと日中では殆んど釣果が出なかったと記憶しています。
そんな時、生まれて初めて「友釣り」と言う衝撃的な釣り方を目のあたりにしたのでした。

 

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09-12-13(日) 少年期・2

2009年12月13日 | 自分史



夏の暑い日には一日中川に浸かり、ヤスを持っては潜り、近くの養魚施設から逃げたニジマスを追いかけます。
時には支流にイワナを求めて、山奥深くクマのテリトリーにも平気で分け入ったものでした。
冬になるとカスミ網や空気銃を持っている年長者の後に着いて回り、もっぱら野鳥を求めて野山を駆け巡る日々です。
雪の日に肥溜めに落ちた仲間を引っ張り揚げた事もありました。
水飛沫が凍りついた学校帰りの甲子川で、大きなアメマスを釣った記憶も鮮明です。
広々とした田園地帯から移り住んだこの地、三方山に囲まれた昼の短い環境に直ぐには馴染むことができなかったオラでしたが、いつの頃からかすっかり釜石の自然の虜になっていました。
ロクに食うものもなく世の中総貧乏があたり前だった時代、製鉄所の高炉から出るノロカスから鉄の塊りを拾い集めては屑鉄屋に持ち込んだり、豆腐や納豆の売り子をしては僅かな小遣いを稼ぎ釣竿や小物を買うのです。

その頃の夏、甲子川の土手を歩く学校の往き返り、川面からスイカに似た芳香が鼻をくすぐるのでした。
当時河口部は製鉄所の排水が垂れ流しになっていた甲子川ですから、天然遡上は殆んど考えられず、その頃にはもうアユの人工放流が行われていたのでしょう。
近所にそれを狙う釣り人がいなかったこともあって、その香りの主がアユと言う実に魅惑的なサカナであることを知るのは、オラが中学になってからのことです。

 

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09-12-11(金) 少年期・1

2009年12月11日 | 自分史



宮城県北の広大な穀倉地帯に生まれたオラは、物心がついた頃には近くの竹薮から切り出した竹竿を担いで、すぐ裏手の江合川でフナを釣っていました。
当時は戦後の食糧難の時代、秋のイナゴ捕りと共に、あたり前のように家族のための蛋白源確保の一端を担っていたわけです。
2度大きな水害にも遭遇した江合川ですが、マブナやコイ、ウナギやナマズ、ハヤやドジョウやザリガニなど獲物は豊富だったことを記憶しています。
その当時も、ある場所には天然アユが着いていたとは思われますが、幼かったオラは勿論、大人たちもそれを獲って食料にしたと言う記憶はありません。

親父の仕事の関係である日突然、地平の彼方まで田圃が広がる明るく開けた生まれ故郷から、三方を高い山に囲まれ昼尚暗き閉鎖空間の釜石に引越しすることになりました。
ここでも直ぐ裏手には甲子川の清流、しかしこの地でのオラの獲物の主たるものは、コイ科からサケ科へと劇的に変化したのです。
のんびりした小ブナ釣りとは違って、スピード感のあるサカナに翻弄されながらも、新しく出来た仲間たちと共に山野を駆け巡ったのでした。
昭和26年、現在の国道283号線沿いに、製鉄所と鉱山との間を軽便鉄道が盛んに走っていた頃のことです。

 

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09-12-09(水) アユ釣り自分史

2009年12月09日 | 自分史



アユの魔力に取り憑かて40年の節目を迎えました。
目を覆うほどの下手糞でもなく、かと言って褒められるような上手さもない訳で、いわば何処にでも居る平均的アユ師なのであろうと自分では思っています。
いつまで経っても釣技の向上はない訳ですが、年を経る毎にアユへの思いだけは募るばかりでして、もはや依存症もここまでくれば末期症状。
これは足腰が立たなくなるその日まで決して消滅することはないのでしょう。
残り少ない我が人生、そこで自分自身のために、古き良き時代を振り返りながら、アユ釣りに関わる自分史を暇に任せて整理してみたいと思い立った訳ですが、はたして・・・・・。
一応次回から始めてみようかと・・・。

 

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