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こころの除染という虚構35子供を逃がさない方針?

心の除染という虚構

35

一部分断

2・子供を逃がさない(伊達市の方針?)

小国が「避難」を考えなければならないほどの線量があると明らかになる前から、敦子の戦いは始まっていた。

「子供を守れることは、とにかくすべてをやりたい、ただただ、その一心でした。農林水産省に土壌調査をしてほしいと電話をしたり、民主党の玄葉光一郎さんにメールを書いたり、手当たり次第に動きました。市に『小国の線量を測って、測定値をきちんと出してほしい』というお願いもしました」とにかく何が何でも藁にでもすがりたい思いだった。

伊達市では4月5日発行の「だて市政だより」3号以降、市内各地の線量を公表するようにはなった。しかし、敦子は頭を振る。そんなことではないのだ。

「市は集会所の線量しか教えてくれない。あたしたちは集会所に住んでいるわけじゃないんです。家や学校とか子供が暮らす身近なところの線量が知りたいのに・・・」

やがて飯館村の全村避難の話が重大ニュースとなって駆け巡る。しかし、すぐ隣の小国は何事もなかった様に、『普通』の生活が続くだけ。これは何か、シュールなお芝居なのか?敦子には現実のものとは思えない。

「新聞で小国小が一番高いと報道されているのに、何で市も学校も何もしないの?何で説明会もないの?飯館村が避難になるっていうのに、何で小国には何もないの?絶対、ここだって同じじゃん」なぜ小国には救いの手が差し伸べられないのか。そのことだけでも知りたい一心で、地元紙に電話をした。

「あたしたち、新聞の線量を見て、自分たちが置かれている状況を考えているんです。ここだって飯館村とそんなに変わらない。なのに、何で、同じ線量なのに飯館村は避難出来て、小国には避難指定できないんですか?」

応対したのは記者らしき男性だった。

『飯館村は、本当に高い場所があるんです』

えっ?どういうことだろう。敦子は聞いた。

「じゃあなんで本当のことを書かないのですか?」

記者はこともなげに言った。

『だって本当のことを書いたら、怖いでしょ?』受話器を持つ手が震えた。

新聞って本当のことを書かないの?まさか、そんなことがあるなんて・・・。今まで新聞もテレビも信じて居たけど、信じちゃいけないんだ・・・。世の中、そんなことになってるの?」

それでもまだ嘘であってほしいと、心のどこかで敦子は念じていた。

4月17日には県の放射線健康管理アドバイザー、山下俊一が伊達市で講演会を開いている。

テーマは、

『福島原発事故の放射線健康リスクについて』

「100ミリシーベルト以下なので大丈夫。50ミリシーベルトを超えても、癌になる確率はほぼゼロ。10マイクロシーベルト以下なら子供の外出もオッケー。遊んでも問題ない・・・」

敦子は周囲で盛んに行われていることの意味が解らない。小国小で行われた子どもと保護者に対しての放射能の学習会もそうだった。女性講師が話すのは、自然放射能のことだ。

「お花にも放射能があってね、飛行機にもあるしね、レントゲンにもあるよって・・・」

違う違う・・・たまらなくなった敦子は手を挙げた。 続く

 

 

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こころの除染という虚構・33 ・ 34

心の除染という虚構

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 「こっちは子どもが心配でしょうがないから毎日玄関に水をかけてたの。テレビで言ってたことは全部やってたの。通り道は水で流して、外から帰ってきたら、服を脱がせてビニールに入れて直ぐに洗濯する。窓も夏場の熱くなるギリギリまで閉めていたの。冷房もしないで、とにかく外気を入れない生活。暑くなってどうしようもなくなって開けたんだけど」

噂でこのあたりの線量が高いらしいということが聞こえてきたのはいつだったか。隣の飯館村が全村避難になったころからか?

「ほだに(そんなに)ここ危ねかったの?」って、何にも知らなかった。飯館村や川俣が高いって聞いてからは、ここも近いから高いのかと思ったけど、小国のどこが高いのかは、わがんねかったし」16

佐枝子は唇を噛む。「はっきり危ないってわかったのは、勧奨地点の話が出てタクシーがうじゃうじゃいるようになってから。新聞にも出てたし、あとでわがったんだけど、優との通学路は、ホットスポットだった。すごく高いところを毎日自転車で通っていたんだよね・・・・」

 「この辺、もう空白」

早瀬道子は、新学期がスタートし、勧奨地点の話が出るまでの期間をこう話す。

「なんかもう、生きるのに一生懸命で、何も覚えていない」

長男の達也は徒歩で、小国小まで通っていた。小学2年生の足で25分ほどの距離だ。

「うちの通学班は、お母さんたちみんな働いていて、交代であっても子どもたちを車で送迎することは難しかった。みんな心配だけどどうしようもなかった。いくらマスクをさせても小学2年生の子だ。暑かったり苦しかったりすれば、すぐに外してしまう。

「すごく心配だった。歩かせていいのだろうかとずっと思っていて、ただ家では手洗い、うがいをきっちりさせて、外で遊ばせないなど、家で出来ることはしていたんです」勤務する幼稚園と同じ敷地にある小学校に、幼稚園児の検診で出向いたときのこと。道子は目を見張った。

「昇降口にゼオライトと雑巾が用意してあって、窓という窓は全部目張をしている。換気扇もそう。『すごい、何、この学校?』ってびっくり。なんでもアメリカ人の先生がいて、放射能に詳しいからやれたって。校庭や子供の通る場所で線量の高いところは気を付けるようにとテープで指示されてあって、4月初めからちゃんと子供を守る対策がされていた」

だから小国小にも、この取り組みを伝えた。校長は翌日には玄関に雑巾を用意するなど手早い対応を取ってくれた。

「当時の校長先生は、親の要望や心配に寄り添ってくれる人だった。ちゃんと親たちの話を聞いてくれたし」5月の連休明け、小国の線量が高いようだ、と通学班の班長から電話が入る。 続く

 

心の除染という虚構

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 「うちの班だけ、車で送り迎えしていないから、仕事を抜けてでも協力して、子どもの送り迎えをするようにしようって言う班長の申し出でがあってその通りだ、そうしようと、親たちみんなで協力してやることにしたんです」

最早子供を歩かせることすらできない、このような場所で、事故後も『普通の生活』を営まざるを得ない状況が強いられていた。

 

子どもを車で送迎するという、この決断は実に正しかった。後に特定避難勧奨地点が決定された際、道子たちの通学班がある山下行政区は、ほとんどの家が地点に指定された。それほど高線量のエリアだったのだ。

 

5月中旬道子は待ちに待った線量計を手にした。数時間という枠であっても、ようやく知人から線量計を借りることが出来たのだ。

ここで初めて、自宅内外の放射線量を測定したのだが、その数字を記した「20011年5月」のカレンダーは、4つに折り畳まれ、今も資料の中に大切に保管されてある。

 

カレンダーの裏に殴り書きの様に記された文字に道子の俊巡や驚愕など様々な感情が読み取れる。

台所   0・75          下の寝室0・20

畳    0・69           ぶらんこ1・92

玄関   0・96           クッキー4・13

子ども部屋0・38          駐車場 3・81

2階   0・56           牧草地 4・0

テラス  1・36           玄関前畑2・8

ばあちゃんの自転車 2・3

アイビー5・0

『クッキー』と『アイビー』は外で飼っていた犬の名前だ。

家の中でも1近くあって、外は5とか6とか。雨どいの下は6とか7とか、側溝は高すぎて測定不能。何でこんなに高いの?と目を疑って、別の機械でもう一度測っても同じ。これが現実だった。道子は確信した。「犬の背中で5あるって、こんなところへ一刻も子どもを置いておけない

小国に全国のマスコミが押し寄せたのはその直後のことだった。

小国にとって避難というものが現実味を帯びてきた。

「お父さんは『避難に成ったら、すぐ出るからな』って、私も職場に、避難になったらやめさせてもらうしかないと、話をしてそういう覚悟でした」

仕事をやめることに未練がないと言ったら嘘になる。ただ仕事を続けながら、子どもたちを守ることは不可能だとも分かっていた。後悔の念は無い決断だった。

何時だったか覚えていないが道子はテレビのニュース番組をたまたま見ていた。アナウンサーはこう話していた。

 「飯館村と同じ計画的避難区域に、という話を伊達市が断った」・・・  続く

 

 

 

 

 

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