日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
『永人のよそ道』(ヤフーブログ)最後の投稿予定だった原稿
『永人のよそ道』(ヤフーブログ)
最後の投稿予定原稿
2019・9・3
最後の投稿予定の原稿を本日投稿しようと思ったが残念ながら9月2日を以て終了してしまった。
全くうかつだった。
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無名の有力を目指して
相談者にとって『有名の無力』よりも『無名の有力』でありたい。
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私は姓名の画数を通して、私に相談を寄せてくる「多くの方々の人生の幸福に寄与すべく」頑張ってまいりました。
ざっくばらんに言うと「人生の修理屋」あらゆる分野の雑貨屋人生相談業ということになります。
①赤ちゃんが誕生して良い名を付けたいと願う親に良い命名を。
②病弱の人から相談を受ければ健康を回復させるための撰名(せんめい=呼び方を変えず、名に使用する文字を変えて体質や運気を強くする方法)や改名を提供する。
例えば、
日町孝行(ひまち・たかゆき)を
日町隆之(ひまち・たかゆき)へ⇒撰名
私自身が
吉野武喜(よしの・たけよし)を
吉野永人(よしの・ながと) へ⇒改名
③事業不振で悩んでいる人、家庭内のいざこざが絶えない人、その他およそ人間の持つ悩みの全ての範囲にわたってそれぞれ依頼を受け、解決へ向けて努力する。
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有名人ではあるが、料金のみべらぼうに高く、さほど効果が無い、相談者にとって悩みの解決には程遠い(たとえば細●●子)例など知り合いを通していろいろ見てきました。相談者にとって相手が有名な割に、自分の悩み解決には無力だと思い知らされることになります。
私はそうしたことの対極に身を置いて、相談料無料のため、いまだに無名で金には縁がありませんが、相談者にとっては解決のヒットを飛ばし、本当に吉野永人さんに相談して良かったと思われるような有力を心がけて対応して参りました。
本ブログはその意味でいろいろな方の姓名画数から来る吉凶の数々を実際例として取扱い、訪問者、並びに相談者の参考に供してまいりましたが 、本日をもってヤフーが投稿のサービスを打ち切ることになり、今後は
グーブログ『永人のひとごころ』および、
アメーバブログ『永人のよそ道』に移行集結してまいります。
これまで同様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
2019年9月3日
0225-96-0716
石巻市泉町1-4-19
運気鑑定・五靖閣・吉野永人
心の除染という虚構⑲
心の除染という虚構
⑲
「その年の冬の甲状腺検査で、一希はA2莉央はA1。だからあの時、一希は家からちょこちょこいなくなっていたからだなって思いました」
福島県は3月11日時点で0歳から18歳を対象に、2011年10月から甲状腺検査を実施した。あとに詳述するが、判定はABCの3種に分けられ、BとCは2次検査を行う。その必要がないAはさらにA1とA2に分けられ、
A1は結節や嚢胞が認められなかったもの。
A2は結節や嚢胞が認められたもの、とされた。
同じ家に住む兄妹でA1とA2に分かれたのは、事故当初、外に出ていたかどうかの違いだと敦子は考えている。
地震の後、学校は4月5日まで春休みとなった。卒業式は6年生だけで行うことになったが、敦子はPTA役員だったこともあり、在校生もいなくて可哀想だから」という思いで出席した。
「本当は親同士で意志の疎通を図りたかったんです。心配している人がどれだけいるのか、お母さんたちみんながどう思っているのか、私だけが不安なのか、知りたかった。でもそれを口に出すのは難しかった」
そのころから、「数字」が日常生活にちらほら現われるようになった。
「だて市政だより 災害対策号」の1号が発行されたのは3月21日だ。
そこで市長は「20キロメートル以上離れた地域の住民が放射線による健康被害を受けることはない」と市民に『安全だ』というメッセージを送った。
だが同号で記されていた、保原町にある伊達市本庁舎敷地内の放射線量は、このような値を示していた。
3月17日 7・35マイクロシーベルト/時
3月18日 7・55マイクロシーベルト/時
小国よりずっと線量が低いとされる保原町でさえ、これほどの高線量を記録していた。
とはいえ、こうした数字がポンと投げ出されても、何を意味するのかは数字だけでなく、当時、誰だってわかっていなかった。
同時期から地元放送局のテレビ画面には、テロップで線量が毎日表示されるようになる。
「最初は24とかだったから、それが10に下がって良かったねって喜んでいたんです。あの時はモニタリングポストが福島市にしかなくて、そのポストがどこにあるのかも、数字の意味も解らない。あとになって、勧奨地点の話が出た時に、避難の基準が3・2マイクロシーベルトだったから、あれメチャクチャに高かったんだってわかったのですが」
5や6という数字が高いのか低いのか、子供にどう影響を与えるものなのかはわからない。しかし新学期を迎えるにあたって、敦子は子どもたちを学校まで歩かせたくはなかった。
外に『何か=放射能』がある以上、徒歩通学をさせたくない。それはどうやっても譲れない思いだった。集団登校で一緒に行く親たちに電話をした。
「みなさん仕事で忙しいと思います。ウチは自営なので時間が取れますから、行きと帰りウチの班の子供たちを車で送迎したいんです。させてください」
果たしてどこも同じ思いだった。みんな不安だったのだ。
敦子が主を担ったが、親たちが協力して市が小国小の子供たちに通学バスを出すまでの1年間は車による送迎を続けた。
「自分の中でも、これは一番良かったって思っています。そこだけは、悔いがないんです。一度も、子供を小国で歩かせていないですから、それも、新学期の最初から」
小国小学校では新年度のスタートに当たり、当面、屋外の栽培活動は控え、体育の授業は屋内で実施する方針を、始業式の『お便り』で保護者に伝えた。 続く