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心の除染という虚構26

心の除染という虚構

26

序章

(5)の1

 この日は父の検査の日だった。川崎真理(仮名・当時38歳)だから忘れもしないと振り返る。

「3月8日に急に入院することになって、でもそれはあくまでも検査のための入院でした」11日の午後に検査することが決まっていました」

保原町で育った真理は、1997年に地域は違うが同じ保原町に住む夫の許へ嫁いだ。

周囲には見渡す限り田畑や、果樹園が広がり、盆地を取り囲む山々の目に遮るものは何もない。360度、気持ちよく視界が開けた平野部に、川崎家はある。「ここだからお嫁に来たのかも」と真理は冗談めかして笑う。

  結婚後しばらくは夫の両親と同居していたが、事故の2年目に同じ敷地内に家を建て、子ども2人と夫婦4人で始まった新生活は快適なものだった。

長男の健太(仮名・当時10歳)はやっと授かった子どもだ。同じ年の末に生まれた長女詩織(仮名・9歳)は学年が違うものの、8か月しか離れていないという年子。

2人の赤ん坊を一緒に育てるという大変な子育て期。真理にはこの時期の記憶がほとんどない。何が流行ったかも分からないのは、テレビを見る時間すらなかったからだった。

子育てが一段落した真理は、ガス検診の仕事に就いた。幼い子供がいる身には時間の融通が効く仕事が有り難かった。2つ年上の夫は隣町の工場に勤務していた。

  その日は検査の父に付き添っていた。

「ずっとそばに居たかったのですが、子どもたちが学校から3時10分に帰ってくるので、家に戻ろうと病院を出てドラッグストアに寄ったんです。ボデイソープが切れていたから」

  地震に遭ったのは、そのドラッグストアの店内だった。

「突然、揺れたんです。私、仕事のしすぎで目眩か?と思ったけど、目眩じゃなくて、棚からどんどん物が落ちてきて、通路がふさがってしまい動けなくなった。

 もう1人の女性の客が恐怖で全く動けなくなっており、その人のところに上から物がどんどん落ちて来るので、もう一人の女性客とその人を引っ張って、3人で『どうしよう。どうしよう』と震えていました。天井に吊るしてあったガラスのようなものが割れて落ちて来るし」

テレビで見た、大地震の瞬間映像のワンシーン。それが目の前で起きていた。店員に助け出されたのは、最初の揺れが収まった後だった。

  家に帰ろうと車を発進させたが、道は盛り上がり、信号は止まっている。あちこちの家から瓦が落ちる音がする。

「ようやく家に帰ったら、じいちゃんが庭の桃の木にしがみついて居た。立っていられないからって。家の中からいろんな割れる音が聞こえて来たんですが、家の鍵は開けないで、そのまま子どもの学校へ急ぎました。校庭で子供たちみんな泣いていて、自分の子と近所の子を乗せて送り届けて・・・」

 家の中はものが散乱して、足の踏み場もない状態だった。真理にとって何よりショックだったのは新築してまだ2年も経っていない『念願のマイホーム』の変わり果てた姿だった。

『地震に強い』がキャッチフレーズの家を選んだのに、1階の居間の壁が割れて大きな亀裂がいくつも走り、壁紙は剥がれ落ち、無残な有様を呈していた。 続く

 

 

 

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心の除染という虚構25

心の除染という虚構

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 『帽子をかぶってマスクして、メガネをかけて手袋をして、変な格好だけどそれでいいよねって、駅からは歩くしかないので』精一杯の防御をして出かけたが、それでも今、夏はこの日を悔いている。なんでもいいから理由を付けてひかりを外に出すべきではなかったと。そうであっても知識があったから、ひかりは防護できた。

「ひかりの同級生たちは阿武隈急行が止まっているから、自転車でバス停まで行って、外でバスが来るのを待って福島に出て、駅から歩いて見に行ったって。帽子もマスクも何もしないで、そのままで」

 水田家では、3月中は子どもを極力、外に出さなかった。しかしこの時期、ライフラインが寸断された保原や梁川には配水の列に並んだり、食料の買いだしに自転車で走り回る中学生や高校生たちの姿があった。そうやって親の助けになろうと子供たちは働いていた。マスクもせず、帽子もかぶらず、何一つ放射能対策を取らずに外に長時間いた事になる。

伊達市は23日に小学校の卒業式を行った。真悟たちの小学校は在校生も参加することになっており、3年生の真悟も式に出なければならなかった。

 「あの時、卒業式をやったのはこの辺では伊達市だけなんです。『心配なら車で送ってください』って学校が言うから、真悟を車で送って行きました。卒業生をみんなで送るアーチは、毎年校庭に作るのですが、さすがに体育館でやったと言うけれど」

ただしあの時、奈津にも渉にも自分たちの生活圏にまさか、それほど多くの放射性物質が降り注いだとは思ってはいない。やはりまだどこか遠くの場所の出来事だった。

 「あの時点で、この辺が高いんだという意識は全然なかったです。ひかりの同級生なんて、暇だから川遊びをしたって言うし、だから、どれだけ初期被曝をしたのか、わからないんです。もちろん、逃げるっていう頭もないですよ。市の広報車が回ってきて、注意を喚起するわけでもなかったし」

後にわかったことがある。実父の書道教室の生徒だった年配の女性がふと奈津の母に漏らしたことがある。それは事故から半年ほど経った頃のことだった。その女性の息子は福島県の職員だ。

奈津の母は今も、この女性の言葉を忘れない。

「震災があった次の日だったか、その次くらいだったか、息子から電話があったの。

『今すぐに貯金通帳と全財産を持って逃げろ』って

『そごにいだら、だめだがら』って     続く

 

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