日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
こころの除染という虚構38
心の除染という虚構
38
「意見を聞いてくれないだけではなく、頼んでもいないことをやる。除染は大事かもしれないけど、順番が違う。先ず子どもたちを避難させてから除染して、きれいにしてから子どもを戻してほしい。エアコンを設置した。除染したから文句を言わせないって、すごく卑怯なやり方だと思いました」
敦子の怒りは真っ当だ。これらの施策は
「子どもを守る」ためでなく、「子どもを伊達市から逃がさない」ためのものだ。
「逃がさない」どころか、伊達市は子どもも放射能と「闘わせる」戦闘員として位置付けた。
だれの為に?農業従事者のためだ。
6月16日発行「だて市政だより」14号の市長メッセージのタイトルは、
「学校給食用食材における地産地消について」という目を疑うものだった。
市長は放射能の影響による食材の『地産地消』の見直しについて、市民に語り掛ける。
『農業生産者は、放射能の風評被害により大きな痛手を負いつつあり、そうした中で、安全安心な農作物を栽培し提供しようと全力を傾けているところです。
そうした中で伊達市民が福島県の農業生産者の創る作物を信用できないとなれば、他県民が信用できるはずはないのではないでしょうか。風評被害に苦しむ生産者に対する思いも共有していかなければならないと思います。(中略)
子どもたちには、このような社会の仕組みや放射線についての正しい知識などの学習を行い、地元の食品で規制値に合格した新鮮な食材の提供について、更なる安全確保に努めながら進めてまいります』
この時期の食品の出荷制限基準は、
現在の5倍の500ベクレル/kgだ。
放射能が降り注いで3か月経ったか経たないかで、農家の為に子どもも放射能と闘えと言っている。
敦子は学校が始まってからずっと、給食と牛乳をやめ、できるだけ西日本の食材を使った弁当を作り続けて来た。
自宅でも地元の食材を使ったものは、祖父母世代だけが食べるようになっていた。夫の母に被曝の不安への理解があったことも大きかった。
1つの食卓に並ぶのは二つの炊飯器で炊いたそれぞれのご飯に2種類の副菜。当時これは椎名家に限ったことではなく、伊達の多くの家で行っていたことだ。
四方八方不安だらけの日常に在って、敦子が不安を解消できる唯一の方法が、自分で食材を選んで、子どもに弁当を作る事だった。
それだけがもやもやとうっくつした閉塞感を解消してくれる、たった一つの手段。
勿論敦子は知っている。
友達と同じ給食を食べられない子どもが卑屈になってしまう気持ちを、そのことの異常さを。
これは長く続けるべきでない事も。
それでもたった一つの子どもを守るために
母としてできることだった。
「本来なら『地産地消』っていい言葉だったのに、もう、とても恐ろしい言葉になってしまった。農業が大事なのはわかるけど、私は健康が第一だと思う。健康な子供がいての、伊達市の未来だと思うから」
四面楚歌の中、敦子はずっと念じていた。私は母として子供に胸を張っていたい。それは夫の享も同じだった。
「お父さんとお母さんは、あなたたちを守るためにちゃんとやって来たよ」
子どもにそう言えるように、ただひたすらやれることをやっていく。
そんな敦子にこんなレッテルが張られ始める。
『気にしすぎる親、心配し過ぎの親』
続く